二人が店から出ると、白光していた陽射しが既に赤みを帯びて薄紫の空に傾きかけていた。時刻を確認するともう宵の口に近い。起床がやや遅かったチェズレイに始点を合わせたことを鑑みれば妥当な時間だった。これからどうしようとモクマが尋ねると、今日のところは私は満足しましたので後はモクマさんにお任せしますという返事がチェズレイから戻ってくる。

「そんじゃあ晩御飯でも食べに行こうかって言いたいところだけど、この時間だとまだ夜の店は開店前のところが多いよねえ」
「そうですね。それでも後一時間程度の話ですし、その時間を潰すためだけに一旦ホテルに戻るというのも面倒だ」
「前に来た時よりも新しい店も増えてるみたいだし、その辺をブラブラと散策するのもありかもね。……とまあその前に、お前さん少し喉が乾いているだろう?」
「……フ。相変わらず目ざといようで」
「おじさんちょっとその辺で飲み物を買ってくるからさ、そこのベンチに座って待っててよ」

 モクマの提案に大人しくチェズレイが頷いた。ではこちらでお待ちしていますと告げるチェズレイをその場に置いて、モクマはてくてくと小刻みのテンポで歩き始める。確かこの辺に二十四時間営業の店があったはずと歩を進め、ほどなく目当ての店が見つかった。チェズレイと自分用にミネラルウォーターを二つ手に取り、モクマは颯爽とレジに並ぶ。酒の誘惑にぐらりと揺れたモクマだったが、それはチェズレイとのこの後のお楽しみにとっておこう。モクマの目の前に並ぶ二人が会計に進む。白髪交じりの二人の夫婦だった。服装から察するにおそらくはミカグラ島の住民だろう。仲睦まじく互いに頬を寄せて囁くように会話をしている。夫婦、夫婦ねえ。内心で呟きながらモクマはふと考え込む。

 やはりモクマとチェズレイが結婚することなどあり得ない話だとモクマは思う。夫婦と誤解されてしまうような、勘違いされても仕方のない行動を互いにとってしまっていたという事実は認める。しかしモクマにとってもチェズレイにとっても、特段意識したものではない。モクマとチェズレイは相棒であって、全ての行為が相棒という範疇の中にある。周囲がどんな風に二人を見て、どのように思ったとしてもその事実は変わらない。結婚やら夫婦やらという言葉にモクマもついつい惑わされてしまったが、今日のチェズレイとのやり取りだって単なる戯れに過ぎない。チェズレイはモクマの大切な相棒で、それ以上でも以下でもない。それが仮の夫婦として一日を過ごしたモクマの率直な感想だった。

 そうこうしているうちに前の客の会計が終わりモクマの番になる。なんの問題もなく清算を済ませたモクマは店を出て今来た道を逆戻りした

 モクマがチェズレイを待たせていたベンチ付近に戻ると、そこには数名の旅行バックを持った観光客らしき男達の群れが出来ていた。モクマがチェズレイの姿を探してこっそりと様子を窺っていると、観光客が囲む円の中心から彼の声が聞こえる。何かあったのだろうか。モクマが円になっている人垣の隙間から顔を覗かせると、足を組みながらつまらなそうにしているチェズレイと目が合った。

「お待たせ、チェズレイ」
「おや、丁度良いところに。お帰りなさい、モクマさん」
「うん、ただいま」

 人の間を割ってモクマはチェズレイに近づく。チェズレイを囲っていた観光客らしき男達は皆モクマよりも背が高く肉付きも良い。もしかするとその筋の人間かとモクマは危ぶんだものの、体格が良いだけでその力量はどう考えてもモクマより劣る。おそらくは単なる一般人だなと予測しつつも、モクマはチェズレイに改めて聞く。

「チェズレイ。この人達は?」
「心優しき人達ですよ。一人寂しく過ごす私をここから連れ出そうとしてくれて、今宵は一晩中私のことを温めると約束してくださるような」

 チェズレイの説明する明確な男達の意図に、一瞬にしてモクマの頭に血が上った。

「ですが生憎そういう相手は間に合っておりますので。さあ行きましょうか、モクマさん」

 思わず男達の胸倉を掴み上げて力の限り殴りつけたくなる衝動に駆られたが、淡々としたチェズレイの言葉にモクマは少し冷静さを取り戻す。チェズレイがベンチから素早く立ち上がり、迷うことなく道を歩き始める。芯を失って散り散りになった男達には、未練がましくチェズレイを眺める者もいれば、殺しそうな目でモクマを睨む者もいる。

 チェズレイの後を追って足早に歩き、ようやくモクマが彼に追いつく。モクマの姿を一瞥したチェズレイは、モクマに併せて歩の速度を少し緩めた。

「あんまり聞くようなことじゃないとは思うんだけどさ。こういうことミカグラ島に来た時は結構あった?」
「そうですねェ。それなりの頻度では」

 チェズレイの返答にやっぱりかとモクマは思った。あしらい方が随分手慣れていると感じたのだ。華やかな雰囲気と類まれなる美貌をもつチェズレイのことだ。思わず声をかけたくなる人間は一人や二人ではないことは知っていたつもりだが、ここ最近はそんな光景はほとんど見なかったのに。

「モクマさんと一緒にいるときは、私に声をかけようという人間はもうほぼおりません。モクマさんがそういった意味で防波堤になっていたことを実は私は存じ上げていたんです。それがまさかこの島では相棒という理由ではなく婚姻が原因となっていたことには驚きましたけど」

 モクマの表情を読み取ったのか、自分の聞きたかったことをチェズレイが答えてくれる。先ほどの男達への対応とは打って変わって、優しく穏やかな声音だった。

「だから噂の蔓延るこの島では、私を夜の街に誘う者は少なかった。四六時中私の隣にはいつもあなたがいたから。ただ噂を知らぬこの島を始めた観光客は例外になりますが。でも、今後は多分ああいった機会も増えていくのでしょうね。その対応を考えると少し頭が痛いです」
「機会が増えるっていうのはどういうことだい?」
「モクマさんと離婚した場合、私は独り身に戻るわけですから。誘いが増えるのは当然のことかと。ただ別れてしまった以上は、あなたの存在にも夫婦としての立場にも私が頼るわけにはまいりません」
「お前さん……俺と離婚するつもりなの?」

 チェズレイから突然出てきた思いも寄らない言葉にモクマは驚愕する。そもそも自分とチェズレイは婚姻関係など結んでいる事実などないのに、それを気に掛ける余裕もない。愕然とするモクマにチェズレイは歩みを止めて、何かを決意するように正面に向き直った。

「ミカグラ島ではあなたと私は既に結婚していることになっている。仮にとはいえ今日一日あなたと夫婦として過ごして、その噂がどれだけ広がっているかは実感出来ました。映画館や店先であなたと一緒にいるときに投げられた視線など、あからさますぎてむしろ笑えてくるほどに」

 夕闇を背景にしたチェズレイの顔が外灯の白い光に仄かに照らされる。チェズレイに一番良く似合う色だった。

「ここまで噂が根深く広がっている以上、その噂が事実無根だと証明するのは難しいでしょう。否定すれば否定するほど、真実の根拠してしまうのが人間の性質です。ならば私達がやるべきことはただ一つだ。嘘は嘘、噂は噂で打ち消してしまえばいい。永遠を誓った二人も、これからはもう別々の道を行くのだと。別れたのだと」

 モクマにしてみればチェズレイの言葉は、無抵抗のままに鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。全身から血の気が引いて、身動きが一つも取れない。何か言わなければいけないのは分かっているのに、モクマからは何の言葉も出てこない。酸素を求める魚のようにはくはくと口が動くだけだ。

 チェズレイから放たれた言葉はきっと全て正しい。それなのに何かが確実に間違っている。けれどその何かがモクマには分からない。何故チェズレイから発せられた「別れる」という言葉一つにこんなにも動揺しているのか。深く落ち込むほどのショックをモクマが受けているのかも。

「気がそがれてしまいましたね。今夜はもう戻りましょうか」

 そのままだんまりを決め込んだモクマに、チェズレイの優しい声が夜風に乗って耳に届いた。


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