ホテルに戻っても二人の間に会話らしい会話は無かった。今朝とは逆にチェズレイからモクマが夕食の有無を問われたが、一瞬迷って丁重に断った。何故だかまるで食欲というものが沸かなかった。毎晩のように晩酌を楽しみにしているあなたにしては珍しいですね、と気遣うようにチェズレイが言う。なんだろうねえ、やっぱり年かなあと理由にもならない歯切れの悪い返事をモクマは口にしたが、そういうことにしておいて差し上げましょうと言ってチェズレイはそれ以上問い質そうとはしなかった。

 一人で黙々と食事を取るチェズレイを前に、モクマは心がざわついて仕方がない。数時間前まではチェズレイの食事の光景をモクマはじっくりと観察していたのに、今はもう彼の顔を真正面からまともに見る自信はない。ふらふらと彷徨わせた視線は、窓枠の中に囲まれた夜の街に固定される。暗い夜の空には磨きあげた銀貨の様な満月が浮かんでいた。

 ミカグラ島の夜はまるで宝石箱の中をひっくり返したように煌びやかだ。ぼんやりと街の光を眺めていると、ガラス窓の向こうから何かを合図するように小さな赤い光が点滅する。強い風が窓に吹き付け、ガラスを通してモクマにまでその小さな振動が伝わった。

 美しく無限の輝きを帯びるこの街は、モクマの知るミカグラ島ではないみたい。

 久しぶりの里帰りの時もそうだった。小さい頃にあんなにも長い時間をこの島で過ごしたというのに、二十年ぶりに飛行船から眺めたミカグラ島はまるで知らない世界だった。そしてモクマが感じるこの感覚は、何も過去の話に限ったことではないのだろう。

 昨日も今日もモクマはモクマは確かにこの街を歩き回っていたはずなのに、自分がこの街の中に存在していたことが今はにわかに信じがたい。あんなにも身近にあったはずの場所なのに、もう既に手の届かない遠い存在のように感じてしまう。マイカの里も。故郷に残る今は亡き人の顔ぶれも。

 いつかはチェズレイもそうなってしまうのだろうか。毎日のように顔を合わせて、誰よりも近くにいるのに。チェズレイが遠い遠い存在になってしまう日が来るのだろうか。

「何かお考えごとですか?」

 魂を抜かれたように夜景に見入っていると、チェズレイに背後から声を掛けられた。いや、何も。言いながらモクマが振り向くとそうですかとだけチェズレイは答える。見ればチェズレイが夕食を取った痕跡は跡形もなく消えている。

「そうですか。……それでは何か私におっしゃりたいことは?」

 やはり誤魔化しきれないかと諦念の面持ちでモクマは溜息をつく。それでも見るからに挙動不審なモクマを今までそっとしてくれたのは、チェズレイなりの気配りだろう。

「お前さんに参考までに聞きたいことがあって」
「どうぞ」
「例え話の一つだと思ってくれても構わない。今日映画館でニンジャジャンの映画を見た後、ハスマリーの子どもたち用のプレゼントを調達しに行ったじゃない。その時に探し当てたぬいぐるみを、お前さんは女の子に譲ってくれたよね」
「ええ、確かに」
「この島にこの時だけ存在するものでも、他の誰かが強く望めば、お前さんは簡単に手放せるものなの?」
「モクマさん。回りくどいこと御託は結構ですので、もっと率直におっしゃってください」

 分かっている。こんな聞き方はチェズレイならばモクマの言いたいことを先回りして理解してくれるだろうという単なる甘えた行為だ。

「あなたが何をお考えなのか、想像するのは私にとっては造作もないことです。でも、それでもあなたの口から直接聞きたいことだってある」

 ゆっくりとチェズレイがモクマの所まで歩いてくる。背後に大きな窓を抱えたモクマは、これでは逃げ場がないなと苦笑した。モクマの正面にチェズレイの姿があって、他人から見れば近すぎる間隔も、モクマにとってはいちばんしっくりとした距離感だった。

「おじさん、この島でおまえさんと結婚してるって誤解されたとき、本当にびっくりしたんだよね。確かにお前さんはおじさんの相棒だけど、ただそれだけで結婚のけもしてないっていうのに。チェズレイと同じように、一体何がどうしてそうなったって最初は思ってた」
「ええ、そうでしょうね」
「荒唐無稽な馬鹿げた話だ。でも俺は例え嘘であっても、結婚したという事実も記憶も全くないけど、それでもお前さんと離婚するのは絶対に嫌だ」

 モクマがきっぱり言い切ると、チェズレイの瞳が驚きに染まる。平然を装ってモクマはチェズレイの表情を伺っているが、その心臓はばくばくと跳ね上がっていた。分かっている。モクマの主張は大の大人が口にするものではなく、単なる子どもの我儘みたいなものだ。ただ今のモクマは自分の気持ちの変化に戸惑いすぎて、掴み留めるだけで精一杯なのだ。チェズレイに言葉として伝えるまでに、自身の感情を整理出来ない。そんなのは言い訳だと、情けないと罵ってくれても構わない。ただそれでもモクマはぐちゃぐちゃになった感情をそのままにチェズレイに吐露する。何があっても彼の手を放してはいけない。それだけは分かるから。

 静まり返った静寂を打ち破ったのは、チェズレイの笑い声だった。唇を掌で覆った彼は何かを堪えるような仕草をしたかと思えば、体を揺すりあげながらけらけらと笑い始める。真剣に話していたのに笑うなんて酷いというモクマの気持ちが表情に出ていたのか、目尻に涙を浮かべながらチェズレイがすみませんと小さく謝る。

「あなたの態度があまりにも可愛らしかったもので」
「四十を越えたおじさんを褒める言葉にしてはおかしいけどね」
「不都合だらけでしたよ」
「え?」
「私があなたと共に過ごすにおいて、不都合なことなど数え切れません。そもそも私とあなたでは生まれた場所も育ってきた環境も、歩んできた道のりも心に誓う信条も全く異なるわけでして。これほど生き方も考え方も真逆であれば、合わないことがあるのも当然です。洗濯物の出し入れから食器の取り扱い一つまで、不愉快なことなど多々ありました」

 少し言い過ぎではとモクマは涙目になったが、心当たりがありすぎるほど思い浮かんだので反論せずに身を縮める。

「それでも私が今あなたと一緒にいる意味を、知らないはずはないでしょう?」

 チェズレイの言葉は非難めいているようで、物柔らかな口ぶりだった。

「そもそも前提からしてあなたは間違っているんですよ、モクマさん。モクマさんと結婚しているとの噂を私にご報告してくださった時、あなたは私に不都合の有無を問うだけで私と結婚したという噂自体については少しも嫌がらなかったじゃないですか」

 チェズレイの指摘にモクマは息をのんで絶句した。今朝のことを思い返してみれば、確かにモクマの言動はそう取られても仕方のないものだった。

「いや、お前さんからはそう見えたとしても、おじさんにとってチェズレイは大切な相棒だし、仲間だから。そういう噂を立てられたとしても露骨に嫌がる訳はないだろう?」
「往生際が悪いですねェ。そんなモクマさんに私も例え話を一つして差し上げましょう。そうですねェ。もし私と結婚したという相手が怪盗殿だったらどうでしょう?噂の一つとしてならその可能性は低くもありません。怪盗殿は私にとっては、大変心外ですが仲間という領域に括られてはおります。ですが、私は怪盗殿とそういう間柄だと噂されるのは死んでも嫌です」

 にこりと微笑みながらチェズレイはモクマの頬をそっと両手で掴む。モクマの動揺が確実に彼に伝わってしまった。

「……あァ、そんな顔をなさらないでください、モクマさん。ただの冗談ですよ」

 モクマはやんわりとチェズレイの両手を振りほどいた。あなた、私が相手だと結構ポンコツになりますよねェとくつくつとチェズレイの笑う声が耳に響く。羞恥の波がどっとモクマに押し寄せてきて、思わず我を忘れて叫び出しそうになる。嘘だろうとモクマは自問した。けれどおそらく彼の指摘が嘘ではないことを一番よく知っていたのはモクマだった。

 モクマだって結婚の噂を立てられるのはチェズレイ以外は死んでも嫌なのだ。あれだけ心を許し信頼している仲間に嫉妬してしまえるくらいに。本気で気づいていらっしゃらなかったのですかと呆れたようにチェズレイが言った。

「あなた、私のことが大好きじゃありませんか」

 降参だった。完全に無自覚だったことなど今更言い訳にもならない。

 するりと今度はモクマの両肩にチェズレイの腕が伸びる。そのまま強く引き寄せられて、その勢いで二人ともベッドの上に転った。為すがままだったモクマは、チェズレイを押し倒すような形になる。チェズレイの流れるような金髪がシーツの上で波のように広がり、やけに煽情的だった。

「本気で恥ずかしがっているあなたの姿は貴重ですので、目に焼き付けておきたい」

 その場から離れようとしたモクマだったが、モクマの服を掴んだチェズレイの手が許さない。ベッドの上でモクマに覆いかぶさられたチェズレイは、闇組織のボスとは思えない程無抵抗で、モクマの表情を見上げては楽しそうにくすくすと笑っている。

「お前さん、今日一日中ご機嫌だったのはそういう理由で」
「ええ、とても楽しかったですよ。百面相をする割には何一つ隠せていないあなたと一緒にいるのは。大好きな人とこの島でデートをするのは。こんな幸せな片想いは生まれて初めてでしたから。一日限りで終わってしまうのが名残惜しいくらいに」

 でも出来れば私は想いが通じ合った方がもっと嬉しいです。

 どくんとモクマの心臓が跳ね上がった。ここまで来てしまえばもう隠しようがない。絵空事の仮定話を聞かされて、モクマが必死に押しとどめていた激情を。泣きながらぬいぐるみを欲しがるような子どもみたいな感情を。

「……お前さんがおじさん以外を相手にすると思うと、嫉妬で気が狂いそうになったよ」
「有り得ない話ですねェ。私にはあなただけです」

 今度はモクマが片方の手でチェズレイの頬をそっと撫でる。少しくすぐったそうにチェズレイは笑って、自分の手でモクマの掌を掴んで手の甲にそっと唇を押し当てる。

「実際問題、私とあなたは婚姻関係は結んでいないわけですが。モクマさんは婚前交渉は否定的なタイプでしょうか」
「……いや、自分に都合の良い展開には積極的に乗っかかるタイプ」
「成程。タイプ下衆」
「ケーブルみたいに呼ぶのは止めてもらっていい?」
「今まさに繋がろうとしているのに?」
「……あのね。あんまり煽らないで。おじさんの余裕がなくなっちゃう」
「冗談の一つでも言わないと、私も自分を保てそうもないんですよ」

 上半身を軽く起こしたチェズレイが、モクマの唇を軽く奪う。いつの間にかチェズレイの顔が真っ赤だった。そして多分モクマも同様に顔を赤らめていて、きっとチェズレイと同じことで頭がいっぱいだった。



 あなたが好きすぎておかしくなりそう。




 とっぷりと陽が暮れた頃に、二人揃って暖簾をくぐるとふわりといい匂いが鼻腔をついた。いらっしゃいと店主の快活な声が狭い店内に響き渡る。あら、モクマさんだと店主の奥方がグラスを拭きながら少し驚いた表情でモクマ達を出迎える。開店したばかりの店内だが、ほどほどに常連客で席は埋まっていて、店主から空いたカウンター席を勧められる。

「あらあ、チェズレイさん。お久しぶりね」
「どうもご無沙汰しております」
「元気そうで何よりだわあ。一昨日は顔が見れなかったから、少し心配してたのよ」

 ミカグラ島に訪れる度にいつもモクマはチェズレイを引き連れてこの店にやってきていたものだから、彼もとっくに常連の一人だった。珍しいことにチェズレイと店主の奥方はやけに気が合うらしく、モクマ共々遠く離れて暮らしていた息子が実家に帰る時のような態度で接してくる。その気安さがチェズレイもモクマも嫌では無かった。

「一昨日はモクマさん急に帰っちゃったでしょ? うちの亭主がモクマさんに余計なことを言ったんじゃないかってずっと気にしてて」
「おま…っ……言うなよ、そういうことは」
「何よ。本当のことでしょう」

 目の前で軽い夫婦喧嘩が始まってしまったが、この居酒屋ではいつもの日常だった。その証拠にチェズレイはさも可笑しそうに笑っているし、周囲の客はやれやれと肩を竦めている。奥方が差し出したお冷とおしぼりを受け取りながらチェズレイが言った。

「随分と仲が宜しいようで。そういえば今までお伺いしておりませんでしたが、二人のお付き合いは結構長いんでしたっけ?」
「そうそう、この人と私は幼馴染だからね。もう数十年になるわけだ。まさかこんなに付き合いが長くなるうえに、この人と結婚まですることになるとはね。当時の自分じゃ考えられないわ」
「おや。では結婚に至るに辺り、決定的な決め手になるようなきっかけや瞬間があったのでしょうか」
「んー。あったような、なかったような……。うん、忘れちゃったね!!」

 あっけらかんと奥方が笑う。なんだようと奥方の後ろで店主が口をすぼめて文句を言った。

「だってあんたとの思い出がたくさんありすぎるんだもの。一つ一つ覚えていられればそりゃ良いけど、私の記憶力では限界があるもの。子どもの頃に照れ隠しとはいえ酷い意地悪もされたし、それに怒ることもあれば泣いたことも山ほどあったし。でも、心惹かれた時も確かにあったのに今はもう全部は思い出せない。それでもね、この人と一緒に居れば覚えていたい瞬間がもっとたくさん出来るんだろうなって。今をそういう瞬間で積み重ねたいなって。そう感じたことが直接的なきっかけだったかもしれないねえ」
「分かります」
「おっ、チェズレイさん分かってくれる? じゃあチェズレイさんにもそういう瞬間があったんだ」
「そうですねェ。あったかもしれません。例えば二人同じ道を行くと約束した時かもしれないし、昨晩既成事実を作った時かもしれない。或いはこれからすぐに交わされるであろう誓いの刹那など」

 チェズレイにはやっぱりバレているとモクマは思ったが、だからと言って今更引き下がる気は全くなかった。店に入ってからずっと無言だったモクマの様子に、ようやく店主も奥方も気づいたらしい。やけに深刻な表情をするモクマに、店主がやはりこの間のことで気を悪くしたのかいと心配そうに顔を覗き込む。

「いえ、そういうわけではありませんよ。どうやら極度の緊張に襲われているようでして」
「緊張?」

 何のことだと周囲の人間は皆首を傾げていたが、顔を真っ赤にしながらかちかちに固まって俯いているモクマに何か察するものがあったらしい。激しく脈打つモクマの心臓とは正反対に、店内は水を打ったように静まり返っている。

 あなたの口から聞きたいんです、と昨晩モクマにチェズレイは言った。いくらあなたにその気があったとしても、同道をお誘いしたのは私なので。これからの、これ以上の約束はどうしてもあなたの言葉で聞きたい。そうしたら私はきっと何があってもずっと幸せでいられるからと。

 二人で交わした数え切れない約束は、そのほとんどがチェズレイから提案したものだ。だからここからはモクマが言うべきなのだ。ミカグラ島に深く根付く嘘を本物に、噂を真実にする為に。何が「ずうっと独り身で、今後結婚する予定もない」だ。モクマは自分自身に呆れ果てる。此処まで掌返しをする奴があるか。これでは本当に結婚詐欺も良いところだ。

 チェズレイの返事などモクマにはもうとっくに分かっている。でも、心が震えてうまく言葉に出来なかった。そっか、とモクマは初めて思い当たった。二人きりの海辺でチェズレイが同じ道をモクマと歩みたいと手を差し伸べた時、お前さんもこんな気持ちだったんだね。

 不安で、愛しくて、迷って、でもどうしても傍にいたくて。

 手汗でびっしょりになっていたモクマの握り拳を、包むようにチェズレイが手を重ねる。手袋越しではあったものの、けれどモクマは彼の掌の奥に潜む温かさを既に知っている。寒くはないのだとチェズレイは言った。北の国の冬の山小屋であなたのぬくもりを知った時から、ずっとずっと温かかったと。そんなのチェズレイと分かり合えた時からモクマだってずっとそうだ。

 チェズレイの手によって掴まったモクマは、もう絶対に逃げられない。逃げきれない。逃げたくない。二度と逃げないと心に決めたのだ。

 今度こそ間違えるなよとモクマは自分を奮い立たせた。言うべきこと、伝えたいこと。全てチェズレイの元に届かなければ意味がない。わなわなと唇が震えて、モクマはつい泣きそうになる。だがもう泣いても良いのかもしれない。泣いて、喚いて、チェズレイが欲しいとモクマが言えば、彼は笑って許してくれるのかもしれない。ああ、その笑顔が大好きなのだ。気品があるだのなんだのとモクマは言い訳ばかりしていたが、単にチェズレイの笑顔が好きだったから。彼のことがモクマは大好きだから、ただ見惚れていただけだったのに。

 だからモクマはモクマ自身の幸福の為だけに、チェズレイを道連れにする。どうかこのままモクマの人生に巻き込まれて、ずっと隣にいて欲しい。そのための一歩、口にする勇気。モクマはようやく顔を上げてチェズレイの姿を見る。

 皆が固唾を呑んで二人の様子を見守っている。そんな周囲の空気ごと、モクマは全て掻き込んで肺の中へと押し込んだ。心の赴くままに自由に生きるチェズレイと、これからも一緒にいるために。幸せになるために。

 唇が裂けてしまいそうなほどの満面の笑みを浮かべるチェズレイに負けぬよう、覚悟を決めてモクマは大きく口を開いた。


executed:実行済み

二人で共に成し遂げた全てが、喜びに満ち溢れたものでありますように。
2023.11.20 チェズレイ誕生日に寄せて。

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