「どうせなら夫婦らしいことをしてみましょうか」

 きっかけを与えたのはモクマだが、言い出したのはチェズレイだった。本来の今日の予定としては、ミカグラ島にて縁のある者たちへの立ち寄りと近況連絡。もし本日中に終わる見込みが立たなければ、改めて翌日以降に持ち越し。逆に時間に余裕が出来たとしても計画の前倒しはせずに、今後の作戦や展望についての語らいに充てる。休暇とはモクマとチェズレイの為だけにある訳では無い。会いたい人に会いたいと思った時に会えるのはとても幸せなことだ。忠義を尽くす部下達の大切な人との再会を機会を遮るような真似はしない。それは言わば二人の共通の認識だった。

 多少の変更でしたらやりくりをすればそれほど影響はありませんし、どうでしょう。飄々とチェズレイはモクマに言う。二人で一緒に映画を見に出かけませんか?

「おじさんは別に構わないけど、お前さんはそれで良いのかい?」
「ええ、勿論ですとも。モクマさんと新婚早々の初デートですしねェ。まずはオーソドックスなところから着実に攻めていきましょう」

 誘い方が完全に対抗組織を壊滅させる指示と全く同じであることが若干引っかかったが、さらに問題なのはもっと別の言葉だ。

「というか、デートて」
「おや。お気に召しませんでしたか。では”逢引”とでもお呼びしましょうか」
「いや、言い方の問題じゃなくてね」
「二人分のチケットは先ほど手配を済ませておきましたので。映画館はこのホテルの目と鼻の先にありますし、散歩がてらに出かけたとしても上映時間には間に合います。その後の予定は映画鑑賞後のお楽しみということで、敢えてノープランのままにしておくのも手かもしれませんね」

 あれよあれよとこれからの予定が決まっていくことにモクマは妙な危機感を覚える。困惑気味のモクマとは裏腹に、タブレットをすいすいと指先で操作してこれから行く場所を検討するチェズレイはどこか楽しそうだ。しかもデートて。茶化してその言葉を使う以外に、まともにモクマが口するのはしばらくぶりだ。そのせいか無性にこそばゆく感じる。

「一応念を押しておくけど、おじさん達が結婚してるっていうにはあくまでフリだからね。地域限定かつ期間限定ってことを分かってる?」
「無論存じ上げておりますよ。ただ結婚詐欺を働くのは詐欺師と言えども私も初めてのことなので、少々昂っております」
「あのねえ」
「或いは偽装結婚とでも」

 だから言い方の問題ではないし、やっぱりこの子が分かっちゃいない。モクマは釘を刺したつもりだったが、チェズレイの反応から見るに完全に暖簾に腕押しだ。チェズレイは上機嫌も上機嫌らしく、小さく鼻歌まで口ずさみ始める。その様子を眺めながらモクマはやれやれと息を吐いた。決して自分を卑下しているわけではないが、相棒ならともかく一回り以上年上のこんなおじさんと結婚したフリをするのがそんな心躍らせるようなものかね。モクマには理解しがたい。

 いずれにせよモクマの主張する「不都合」を体験するには悪い展開ではない。モクマは無理矢理自身に言い聞かせた。



 仮にも夫婦なら何らかの決断を迫られた時、一方だけに判断を任せるのはかなりの悪手なのかもしれない。予定通りの時刻に映画館に向かい、何のトラブルもなく目的地に到着した二人だったが、モクマはチェズレイに決定権を全て委ねたことに早くも後悔し始めていた。

「現在公開している映画の中に興味がそそられるものがありませんでしたし、先日ボスに強烈にお勧めされましたので、参考までに」

 映画のタイトルは「ニンジャジャン THE FINAL」ガッチガチの子ども向けのアニメーションだ。だがチェズレイと一緒にモクマが映画を鑑賞するとなると、このチョイスはあながち間違いでもない。モクマにとってもかなり馴染みのある作品だし、何より遠距離で暮らしているルークとの共通の話題にもなることだろう。失われる時間を差し引いてもメリットが大きいとのチェズレイの判断であるのも考慮すると、映画の題目に関してはモクマには特に不満は無かった。

 前もって席を予約していたせいか、スクリーンへの入場は非常にスムーズだった。ただモクマが想像していた以上に客の入りが多い。ミカグラ島の中でも一番大きな映画館であることも理由の一つなのだろう。ごった返しのロビーを抜けても人口の密度にさほど変わりはない。長い通路を歩くにつれて、自然と親子連れの客の比率も高くなる。そのせいでモクマとチェズレイのような異質な存在は当然のようにその中でも目立ってしまう。遠慮をまだ知らない子どもたちの好奇心の塊の眼差しが注がれ、モクマはつい苦笑した。気になるのは子どもたちの母親であるらしい数名が、モクマとチェズレイにちらちらと視線を寄こしながら何事かを耳打ちしていることだ。

 ヒーローショーで子どもたちから向けられる熱いものとは全く異なる母親達の視線の正体をモクマは薄々感じ取っていた。どうやらモクマが考えていた以上に、例の噂はミカグラ島に浸透しきっているらしい。昨晩居酒屋の中で感じた居心地の悪さを思い出し、モクマは今にでも逃げ出したい気持ちに駆られてしまう。

 違います。おじさんとチェズレイは単なる相棒で、婚姻関係にあるという事実は一切ございません。ただかなりの多くの方々が勘違いをなさっているようなので、その誤解を解くために現在チェズレイと偽りの夫婦を演じている状態なんです。誤解を解くどころかさらなる悪化を招きそうな釈明しか思いつかないモクマは、その思慮の浅さに絶望する。

「モクマさん。いかがされましたか?」
「何でもないよ。ちょっと己の無力感に打ちひしがれてただけ」
「……あァ、成程。そういうことでしたか」

 察しの良いチェズレイは、モクマが何を気にして何を考えていたのか全てお見通しなのだろう。あたりをじろりと一瞥した後、にこりと笑いながらモクマの顔を覗き込む。

「是非とも見せつけて差し上げましょう」

 人の悪い顔をして火に油を注ぐようなチェズレイの発言に、モクマはつい悲鳴をあげそうになってしまった。



 暗闇の中でモクマの体より何倍も大きいスクリーンの中で、お馴染みの赤いキャラクターが画面一杯に動き回っている。自由にのびのびと全身を使って駆け巡るヒーローの一方で、モクマと言えば我が身の窮屈さをひしひしと感じていた。心理的にも物理的にも身の置きどころがほぼほぼない。その理由を端的に語ってしまえば、モクマの席は単身で座るには小さすぎて、にも関わらず隣に座るチェズレイとの距離が極端に近いのだ。僅かに身じろぎしたチェズレイの振動が直にモクマに伝わってしまうほど。

 チェズレイからここですと案内された場所が二人分の座席であるのにも関わらず、間に何の仕切りもなかったことに嫌な予感はしていたのだ。

「えーっと、チェズレイさん。俺たちの席、何だか普通の席と違いませんか?」
「モクマさんと私の為に御覧の通りにカップルシートを予約させていただきましたので。差異があるのは当然かと」
「えぇ……」

 指定した座席はカップルシートであるとさらりと言ってのけるチェズレイに反して、モクマは多少なりともダメージを受ける。チェズレイが完璧主義な性格であるとは知っていたが、何もここまで夫婦であるという設定を徹底しなくても良いだろうにとモクマは思う。ちなみにカップル割引も適用させていただきましたというチェズレイの台詞は、モクマに更に追い打ちをかける。

「夫婦割が存在しないのは残念でしたが、これはこれで良しとしましょう」
「お前さん、ちょっと潔すぎない? おじさん結構躊躇いがあるんだけど」
「何を今更。そもそもあなたが言い出したことでしょうに」

 正論を淡々と告げるチェズレイに言い返せないモクマは、促されるままに渋々と座席に腰を降ろした。成人男性二人を囲むにはかなり手狭な空間だった。ただ着席しているだけなのに既に腕が触れ合う状態だし、座ったまま大きく顔を動かそうものなら何らかの事故が発生しそうな環境だ。凄いねえ、カップルシート。一体どんな意図でこの席が設置されたのやら。分かりそうでいて、分かりたくはない。モクマが諦めの境地に足を踏み入れかけたとき、既視感のある一人の女性と目が合った。おそらく先ほどモクマ達の噂話をしていただろう母親達の片割れだ。……これは言い逃れ出来ないよなあ。何と言ってもカップルシートだし。モクマは嘆いた。弁明の一つも出来ない状況の中、モクマの望まない「見せつけ」がこんなに容易く成立してしまうとは。

しかしカップルシートの威力はこんなものでは済まなかったのだ。

 消去法に近い形で選んだ映画は、しかし純粋に面白かった。ヒーローショーで主人公役を演じていたモクマだったが、本作の中ではまだまだ知らないことも多い。主人公の過去や生い立ち。関わる登場人物の背景や交錯する情念。迫力のある画面と臨場感に溢れる音響の中、子ども向けとは思えない構成の濃密さに、これは幼い者ばかりではなく大人も夢中になるのも頷けた。現にモクマもその一人で、映画に夢中でのめり込むようについ前かがみになりかけた時だった。

 膝の上に放り投げていただけのモクマの掌に何かが重なったのだ。

 モクマの体温より少し低いそれは、手の甲を這うように蠢く。驚きすぎてモクマは声も出せなかった。まるで悪戯でもするかのようにモクマの手を蹂躙しているものの正体は、紛れもなくチェズレイの掌だ。一体何を考えているのか。硬直してしまった体を何とか動かしてチェズレイの顔を見上げる。真っ直ぐにスクリーンを見つめていた彼だったが、避難するモクマの視線に気づいたのだろう。首を僅かに傾けてモクマに向かって微笑む。

 しぃ、と幼い子を優しく諭すような仕草だった。束の間の暗転から白い閃光が客席全体を照らし、モクマだけを一心に見つめているチェズレイの姿を曝け出す。

 唇に寄せた人差し指は白い布で完全に覆われているくせに、モクマの掌を弄ぶ肌には布の感触は一切ない。

 片方だけ、手袋を脱いだのか。モクマとこうしてお互いの手を重ねる為だけに。

 何というかそれはちょっと駄目じゃない? こんな場所で普段は隠している素肌をこっそりと晒して、誰にも分からぬよう闇の中で直に触れ合わせるなんて。完全にアウトだろう。現実を改めて再認識したモクマの心臓が大げさにばくりと鳴る。あれほどの大音響が一切聞こえなくなるほど、その鼓動は大きく激しいものだった。思わず発狂しそうになる自分に「落ち着け」とモクマは呪文のように何度も唱えた。子どもでもないのに手を触れ合わせる程度のことで驚くこともないだろう。だってモクマはチェズレイの肌を今まで何度も見たり触ったりしていたのだし。そうそう、確か初めてはマイカの里でのことだった。チェズレイの肩に負った深い傷を癒すため、モクマ嫌がるチェズレイに対して強引に服を脱がせて。

 え……? 何してんの俺。モクマは改めて愕然とする。いくら傷の様子が見たいという正当な理由があったとしても、本人の同意が完全に得られない内に服を脱がすのはまずくない? しかもヴィンウェイの山小屋でも同じことした記憶すらある。いやでも後者はチェズレイに命の危険が迫っていて不可抗力だったとも言えるわけだし。でも一度ならず二度までも。そんな横暴なことが果たして許されて良いのだろうか。

ぴくりとも体を動かせないままモクマがぐるぐると悩み始める。するとそれを狙い定めたようにチェズレイがモクマの指の間に自らのそれを滑り込ませて、そのままぎゅっと握りしめてしまったのだ。不意打ちのとんでもない衝撃にモクマは深く考えるどころか、そこで記憶の全てが吹っ飛んでしまった。



 モクマがようやく意識を取り戻した時、シアター内には既に照明の輝きに溢れていた。満席に近かった座席も、今は既にまばらでぽつりぽつりと人が数名残っている状態だ。ようやくお目覚めですか、モクマさんといつの間にか席から立ち上がっていたチェズレイが笑いながら口にする。

 夫婦の時間はまだまだこれからですのに、と妙な余裕を見せるチェズレイにモクマは猛烈な焦燥感に襲われる。モクマの知らないところで確実に何かが進んでいるような気がする。それも既に致命的なほどまでの。けれど今のモクマにはチェズレイから掴まれた手の感触だけが頭をよぎって、深く考える余裕など微塵も無かったのだ。


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