「それで、モクマさんはあの別嬪さんと結婚して何年になるんだい?」

 久しぶりに訪れたミカグラ島で、今や馴染みとなってしまった居酒屋にて一杯引っ掛けていたモクマは、何気ない店主の一言に口に含めていた酒を吹き出しそうになった。寸でのところで手の平に押し戻されたアルコールは、本来行くべき道を外れて異なる器官に入り込み、結果モクマは激しく咳き込んでしまう。酸素を求めるように大きく吸った息は異物感がぴたりと張りついた喉には殊更逆効果で、咳のしすぎで危うくモクマは呼吸困難になりかけた。

「やだ、モクマさん大丈夫? もう、あんたが変なことを言うから」

 小さな店の奥から店主の女房と思われる人物が現れて、モクマに水の入ったグラスとおしぼりをすっと差し出す。モクマと同様に常連だった隣の客が、モクマの背中を擦ってくれたこともあり、なんとか三途の川は渡らずにすんだようだ。

「うちの亭主が本当にごめんなさいね。ほら、あんたもちゃんと謝りなさい」
「悪いな、モクマさん。俺はそんなつもりは無かったというか」
「うん、いいよいいよ。気にしてないから」
「そういう質問は一歩間違えればプライバシーの侵害になるからね。私らみたいにおおっぴらでも平気な人間もいれば、逆に二人だけの思い出や秘密にしておきたい人もいるんだから」

 カウンター越しに店主の謝罪を素直に受け取ろうとしたモクマだったが、後に続く奥方の台詞に思わず表情が固まってしまった。返答がないモクマの態度を図星をさされた様子と勘違いしたのか、やっぱり言ったとおりだろうと奥方が店主を嗜め始める。

「そもそもおじさんはずうっと独り身で、今後結婚する予定もないし」

 悪意が一切なかった発言を奥方から責められる店主を見るに耐えかねて、モクマは夫婦の会話を慌てて遮った。モクマはただ純粋に助け舟を出したつもりだったのだ。

「「え?」」

 今にも夫婦喧嘩を始めてしまいそうだった二人が、同時にモクマに振り返るなり口を開けたまま固まっている。時が止まってしまったかのような凍りついた空間は、何故かモクマの周囲だけではなくいつの間にか店全体に広がっていた。まるで信じられないものを見たかのような鋭い視線が全て自分に集まっていることに、今度はモクマが驚く番だった。

「え?」

 

executed


「チェズレイさん、折り入ってお話したいことがあるんですが」
「はい、なんでしょうかモクマさん」



 太陽が顔を覗かせてからそろそろ中天に差し掛かろうとする頃合い、ようやくモクマの相棒のチェズレイはむくりとベッドから起き上がった。眠気眼のぼんやりとした表情のまま小さく欠伸をしたチェズレイにモクマはおはようさんと声をかける。おはようございます、モクマさん。一人分のやや小さめのベッドの上で背筋を伸ばしながら、チェズレイはモクマに挨拶を返した。身支度を整えてきますので少々お待ちを。着替えを携えてパウダールームへと向かうチェズレイにモクマは朝食の有無を問う。手際よく頼んだルームサービスの食事は、チェズレイが円テーブルを挟んでモクマの対面に座る時には滞りなく用意された。

「おや、モクマさんも一緒に召しあがるんですか?」
「うん。朝のトレーニングが終わった後に軽くつまんだつもりなんだけどね。メニューを眺めてたらまたお腹が空いてきちゃった」
「それはそれは。長らくお待たせしてしまったようで申し訳ありません」
「謝る必要はないよ。ナデシコちゃんから公安本部へのご足労ご協力実に感謝するってメッセージが入ってた。深夜までかかったんだって? 遅くまで大変だったね」
「フ……他ならぬナデシコ嬢のお願いとあれば手を抜くわけにもいきませんからねェ」
「はは、違いない」

 軽く会話を楽しみながら手袋を外したチェズレイがクロワッサンを一つ掴み、口元に運んでいく。小さく噛みちぎられたパンがあっという間にチェズレイの唇で隠されて、頬が小刻みに揺れた。ミカグラ島でも指折りの豪華ホテルであるという場所のせいか、それとも階層の高い部屋の一室で開放感のある窓からミカグラ島の景色を一望できるというシチュエーションが影響してか、朝食を取るというだけのチェズレイの行為が一種の絵画のように見えてモクマは思わずため息をつきそうになる。だがどんなに原因を突き詰めたところで結局のところは、そう感じるのはチェズレイだからという理由に他ならない。

 マフィアのドンを父に持ち妾である母と二人だけで幼少期を過ごしたチェズレイの暮らしぶりを、モクマが想像するのは到底容易いではない。ましてや最愛の母を目前で失い、母の弔いの為に実の父を手にかけたという壮絶な過去も含めてだ。自らの意志で両親と別れ、マイカの里に残ると選んだモクマとは決定的に異なる。

 それでも二十年余り陽の当たる場所を避け続けたモクマには分かる。昔も今もチェズレイを取り巻く環境は、何も知らずに生きていけるほど生易しい場所ではない。知識、振る舞い、教養、胆力。人目を惹きつけてやまない美貌と、仄暗い思惑が巡る闇の世界を切り抜けていく狡猾さ。モクマがついついチェズレイに目を奪われるのは、気品があるという一つだけの理由ではない。全てが「彼」という存在に、「チェズレイ」というたった一人の人間に集約されるからこその所以なのだろう。

「そんなに熱烈な視線をいただいていると、体に穴が開いてしまいそうですねェ」
「あ、ごめんごめん。お前さんについつい見惚れちゃって」
「周囲に人がいる状況ならいざ知らず、二人きりの時であれば構いませんよ」

 モクマははたと我に返った。いかんいかん。普段から何気なくこういうやり取りをしているからこそ、それを見た第三者にあらぬ誤解を与えるのだ。モクマは猛省して、それ以上チェズレイを観察することをやめた。モクマの様子を気に留めることもなくチェズレイは淡々と食事を続けるので、モクマもそれに倣う。朝寝をした時間を取り戻すようなチェズレイと二度目のモクマの朝食は比較的速やかに終了した。



「チェズレイさん、折り入ってお話したいことがあるんですが」
「はい、なんでしょうかモクマさん」

 ここからが本題だった。ごほんと咳払いをしてモクマは昨晩自分の身に起こった出来事をチェズレイに事細かに説明する。

 世界征服という大それた夢を目指す傍ら、作戦の合間の休暇を兼ねて二人はミカグラ島に訪れたばかりだった。懐かしい面々に挨拶でもして周ろうかと二人で計画を練っていた矢先、ナデシコからチェズレイへの協力要請の連絡が入る。まるで自分たちの行動を逐一見計らっていたかのような申し出に、何ともタイミングの宜しいことでと笑ってしまったが、ナデシコからの依頼には断るという選択肢は存在しないということが二人の共通認識だ。

 こうしてモクマとチェズレイは早々と別行動を強いられてしまったわけだが、ミカグラ島で深い交流が合った者との再会はやはりチェズレイと一緒でなければ意味がない。かと言ってホテルの部屋の中で大人しく留守番というのも性に合わず、その辺で一杯ひっかけるくらいは良いだろうとモクマは独り夜の街に繰り出した。

 渡り鳥のようにあちらこちらで飲み歩き、程よく酔いながら大人の会話をそれなりに楽しむ。

 そうして随分と長い時間を過ごし、ここで最後にしようとモクマが足を踏み入れたのが件の居酒屋だった。まさかそこであのような爆弾発言を受けるだなんてこれっぽっちも知らずに。

 店主の言っていた「別嬪さん」とは疑いようもなく常に共に行動しているチェズレイのことでであろう。モクマと一緒に二人で何度もあの店に顔を出していたという十分な根拠すらある。しかし何故それだけでモクマとチェズレイが結婚しているなどという突拍子もない発想が出てくるのだろう。モクマは純粋に疑問だった。しかもそんな甚だ事実とかけ離れている噂が、あの場にいた全員の反応から察するに、店の中だけに限らずに島全体に広がっているようだ。おかげ様でモクマの酔いも完全に吹っ飛んでしまった。

「結婚……? していたんですか? 私とモクマさんが?」

 モクマの報告にチェズレイは虚をつかれたように大きく目を見開いた。こんな与太話を唐突に相棒から聞かされたら、まあそういう反応になるよねとモクマは心底同情する。まだこの部屋に他人の目がないことだけが救いだった。奇異な物でも見るような視線が集中し、針のむしろとなってのこのこと逃げ帰ってきたモクマに比べれば。

「一体何がどうしてそうなったんです?」
「一体何がどうなったか分からないから、お前さんにこうやって相談してるわけで」
「それはそうでしょうけれど」

 ふう、と息をついたチェズレイの顔が僅かに険しくなる。チェズレイが深く考えに浸り始めるときの特有の仕草だった。とりあえずモクマはチェズレイにうまく状況を伝えられたことにほっと胸を撫でおろす。

 噂の対象がモクマだけならそれなりに自分が躱して終わりだが、今回の場合はそうもいかない。現時点でチェズレイがその噂に巻き込まれているのは確実で、今後少なからず何かかしらの影響が彼に及んでくることだろう。

 チェズレイはモクマにとって生涯でたった一人の大切な相棒だ。彼が笑いながらのびのびと自由に生きていく姿を隣で見守り続けることが、今のモクマの夢の一つでもある。

 だからチェズレイのこれからの道のりを阻んでしまうような可能性がある悪い芽は、早めに摘み取るに越したことはない。さて、どうやってうまいことこの噂を収めよう。モクマが首を傾げたと同時に、逡巡を終えたらしきチェズレイとぱちりと目が合った。

「その噂について少し考えてみたのですが」
「うん」
「特に不都合を感じませんので、そのままで宜しいかと」
「いや、不都合だらけだよね!?」

 何か良いアイデアが浮かんだと思いきや、チェズレイの斜め上の返答に思わずモクマは声を荒げてしまった。

「具体的にどのあたりが?」
「どのあたりって」

 モクマの咆哮に動揺することもなく本気で意味が分からないというようにチェズレイがモクマを見つめる。あ、駄目だ。モクマは瞬時に察してしまった。今のチェズレイは完全にポンコツモードになっている。

 チェズレイは時折モクマに関することにのみ何らかのバグが突如発生し、思考と行動が機能停止することがあるのだ。この特性を発症したチェズレイは、モクマの想定を遥かに越える行動を事も無げに実行する。近年ではヴィンウェイへの単独行動が良い例だ。裏を返せばそれだけモクマに執着しているということなのだが、嬉しさの反面一体何をしでかすか分からないという怖さも併せ持つ。この状態のチェズレイとは会話自体もままならなくなることも悩みの種だ。今のチェズレイにはモクマがいかなる不都合を並び挙げても、きっと右から左に聞き流してしまう。本人が問題を問題と自覚しない限り、対策も解消もあったものじゃないのに。モクマは腕を組みながらううむと唸った。

 こうなってしまった以上、チェズレイには痛い目にあってもらう他は道がない。実際に体験し、モクマとの噂のせいで生まれる不都合を肌で実感してもらうのだ。勿論チェズレイだけではなくモクマも痛みを伴うことになるが、止むを得まい。大切な相棒に敢えて苦痛を与えるのは非常に心苦しいが、痛みなくして得るものはなし。これも必要悪かとモクマは自分自身を納得させる。

「分かった。それなら一旦ミカグラ島にいる間はお前さんと俺は夫婦という設定で行動しよう。その中でお前さんが俺といることで少しでも嫌だなって感じることがあれば、それが不都合だから。そしたら今流れている俺との噂を徹底的に解消させる。いいかい?」
「ご随意に」

 思い切ったモクマの提案にチェズレイはあっさりと頷いた。

 誰よりも口の立つチェズレイを上手く丸め込むことが出来たことにモクマは安堵しつつも、拍子抜けしてしまうくらい簡単だったことを内心不安に思ってしまう。チョロい。あまりにもチョロすぎる。大丈夫? この子こんなにチョロくてその辺で怪しい壺とか買わされる詐欺にとか合わない? 本人は紛れもなく百倍にして返り討ちにするような詐欺師なんだけど。

 そうして相棒の短所であり長所である部分についてしばらくの間うんうんと思い悩んでいたモクマには、「とっくに手遅れだとは思いますけどね」という含みを持たせたチェズレイの言葉が届くことはなかった。


inserted by FC2 system