4.


   屋敷に戻って軽い食事と風呂を済ませ、モクマが部屋に戻った頃にはチェズレイは布団を敷いてぐっすりと眠りこけていた。きっと疲れていたのだ。電気も消さずに明々とした光の中、身じろぎもせずに寝入るチェズレイの姿にモクマはふと笑みを浮かべる。フウガとイズミもつい先ほど帰宅したばかりで、遅めの夕食をとっていることだろう。昨晩にイズミとした約束をモクマは思い返す。イズミが行動を起こすまでには、まだ十分な時間があるはずだ。ひと眠りすることも出来るだろうが、生憎そんな気にもなれない。

 豆電球だけをつけて、着物のままモクマは布団に潜り込む。眠れずとも、一応目だけは閉じてみる。くたりと体が次第に弛緩してゆくのが分かった。チェズレイだけではない。多分モクマも相当疲労が溜まっていたのだろう。あっという間に意識が薄れた。





「………モクマ、……まだ起きてる?」

 イズミの声が部屋の外から聞こえて、モクマは慌てて飛び起きた。勢いのある動きに一瞬チェズレイを起こしてしまったのではと懸念したが、物音に反応する気配もなく彼は熟睡している。規則正しい寝息をそっと確認してからはい、起きていますよと忍び声で応える。一連の流れを察したのか、襖の奥でイズミが笑っている様子が窺えた。

「ごめんね、待たせて」

 玄関口から出ると父上と母上に見つかってしまうからこっそり持ってきたとイズミに渡された下足に履き替え、縁側から息を潜めながら二人で庭に出る。まだ深夜とは言い難い時間だが、空はすっかりと夜の波に飲み込まれていた。多少着込んできたつもりだが、やはり少し肌寒い。なるべく足音を立てずに庭を通り過ぎて、堂々と正門から屋敷を出る。懐中電灯を照らし辺りに人影がないことを確認して、イズミと横並びして無言のままモクマは歩く。周囲は静まり返っていて、時折虫の音が地面から反射するように昇ってくる。

 祭り会場とは反対方向の山道に辿り着いたところで、溜め込んでいた空気を吐き出すようにぷはあとイズミが息を吐いた。

「ああ、ドキドキした」
「……もしかして緊張してました?」
「当たり前よ。こんな夜中に出歩くなんて初めてだもの」
「考えてみたらそれもそうですね」
「モクマは全然余裕そうよね。まるで夜中に出かけた経験があるみたい」
「……はは、まさか」

 鋭いイズミの指摘にモクマは内心冷や冷やだ。経験があるどころか、守り手としてのモクマの活動時間のメインはもっぱら夜だ。しかもそれは今のイズミには説明しようもないので、話題を逸らすように足元が暗いですから気を付けてとモクマが声をかける。分かっているわとイズミが頷いた。

 さくさくと落ち葉を踏み鳴らしながら歩を進める。昼間の祭りの雰囲気とは一変して、鬱蒼とした空気が二人を包む。闇の中に林立する黒い樹木の葉が重なりあって、一瞬人間と見間違えそうになる。こんな夜更けに出歩くのはよほどの酔狂者だと考えた言葉は、そのままモクマに跳ね返って思わず苦笑いした。

 ふいに道が途切れ視界が開ける。広場と呼べそうなほどの突如現れた大きな空間は、空への視界を妨げていた木々の梢さえも届かない。くるぶしまで伸びた短い草が生い茂り、風になびく。小さな二人の子供頭上に、比べ物にならないほど大きな夜の海と、数え切れないほどの星が散らばっていた。

 吸い込まれるようにモクマは夜空を見上げた。呼吸するのを忘れてしまいそうなほどの圧倒的な星空だ。懐中電灯なんて必要もない、星明りだけで互いの顔が見える。今にも星が降りだしそうな空。

「……綺麗ですね」

 気の利いた台詞も言えずに滑り出た単調な言葉は、それでもモクマの本心だ。だからモクマに見せたかったの、と告げるイズミの声は心なしか弾んでいる。

「少しは元気になった?」

 その一言でモクマは全て見抜かれていたことを悟った。イズミは気づいていたのだ。最近のモクマの様子がおかしいこと。どこか思い詰めたような表情をしていたこと。知っていてイズミはモクマを問い詰めることせずに、代わりここに連れてきてくれたのだろう。

 無数の星空の下に。

 無性にモクマは吐き出したくなった。洗いざらいに全てをぶち撒けてしまいたい衝動に駆られる。寸でのところで耐え凌ぎ、それでもモクマはぽつりぽつりと話し出した。

 夢を見ていたのだと。

 そこでのモクマは大きな罪を犯して、糾弾から逃げるように里を捨てたこと。罪悪感に苦しみ抜き、何度も命を投げ捨てようとしたこと。それが出来ずに二十年間、ただただ己の罪の意識に苛まれながらひた隠して生き続けたこと。

非道を成し、イズミを傷つけたフウガが許せずに放った刃でタンバの命を散らしたこと。この世界では単なる夢の話で、でもモクマにとってはずっとずっと真実だったこと。

 自嘲的なモクマの告白を、イズミが深刻な面持ちで聞いている。全てを話し終えようとすモクマに、でも、とイズミが遮った。

「そんなのは、モクマのせいじゃないわ」

 泣き出しそうなイズミの顔に、つきりとモクマの胸の奥が痛む。

「それは夢。夢の話で、今ここにいるモクマがあなたの現実よ。モクマはずっとこの世界にいればいい。そうしたら私が、そんな悪夢からモクマを守ってあげる」

 モクマの心がぐらぐらと揺れ動く。イズミの言葉はモクマの耳には心地良くて、つい身を委ねてしまいそうだ。守ってくれる。イズミが、フウガが。モクマが命を奪ったはずのタンバが。


 この世界が、モクマを守ってくれる。


 つうと向き合ったイズミの背中越しに流れ星が尾を弾いて夜空を駆けていった。モクマが思わず、あ、と言葉漏らすと、イズミも振り返り空を見上げる。最初にモクマが見つけた流れ星はもうとうに闇に消えてしまったけれど、後から次々に白い星が矢のように流れていく。声が出なかった。泉の水のように際限なく流れていく白光の渦に、自分が一瞬何処にいるか分からなくなりそうになる。

 そして視界の中にイズミが映り、モクマは驚いた。


 違う、と思ったのだ。


 瞬間モクマは腹の底から笑いだしそうになった。乾いた空気だけが音にもならず、モクマの口から飛び出る。馬鹿だなあとモクマは思った。こんなにも胸の奥深くに潜む存在に、今の今まで気づかないでいたなんて。

「イズミさま」

 流れゆく星に見惚れていた彼女を、モクマは現実に引き戻す。

「俺の罪を許してくれてありがとう」

 ぺこりと腰を折って感謝するモクマに、イズミが狼狽える。顔を上げて向き直るモクマに、イズミの表情は強張ったままだ。まるでモクマがこれから何を言うかを知っているみたいに。

「でも、ごめん。ここで俺がイズミさまに許してもらったら、きっと俺は許しを乞うた自分を許せなくなるんだと思う」


 逃げ続けた二十年どころか、それこそ一生。


「俺は決して許してもらいたかったんじゃない。自分の罪を咎めて欲しかった。俺のしたことは悪いことだと、逃げ続けることは卑怯なんだと。お前は正真正銘の下衆なんだと罵って欲しかったのかもしれない」
「そんなことが出来る人、いるの?」

 困惑気味に聞き返すイズミにモクマはつい吹き出しそうなりながらも、首を縦に振った。そりゃあいないと思うよね。そんな人間。でも、モクマはもう出会ってしまったのだ。唯一無二の存在に。誰よりも近しい人に。

 溢れるばかりの星の光を一緒に見上げたいと、モクマが心から望んだ人。

「そいつのことが好きなんだ」

 きっぱりとモクマは言った。心にあった憂いが一気に吹き飛んでいく感覚だった。

「俺はその人と一緒にいたい」

 ぐ、とイズミが息を詰める。ここにいれば。吐き出すようにイズミが急き立てる。

「ここにいれば、モクマはずっと傷つかずにすむのに!」 「うん。でもそれは生きているからこその傷で、だからこその痛みなんだ。その痛みが俺とそいつとの絆だから、失いたくない」
「……本当にその人のことが好きなのね」
「うん、好きだ」
「……どんなところが?」

 さっきのモクマの説明だとあまり性格が良いとは思えないけど。イズミの想像が割と的確なので、モクマはつい笑い出しそうになる。

「頭は凄く切れるけど、ちょっと馬鹿なところもあるかな。自分の目的の為には手段を選ばないから、どんどん自分が傷ついているのにも気づきもしない。どこまでも真っ直ぐで、ボロボロになっても前に前にと突き進んでいくの。本当に痛々しくて見てられない」


 見ていられないのに、モクマは目が離せないのだ。


「せめて少しでも傷つかないように、俺はそいつを守りたい。傷つくことしか出来なくても、その痛みを分かち合いたい。傷ついてもなお前に進もうとする姿を、ずっと隣で見ていたい」

 流れ星に決して願いを捧げなかったチェズレイの姿をモクマは思い出す。ああ、そうだったね。お前さんは自分の望みは自分で叶える主義だもの。チェズレイ自身が流れ星みたいなものなのだ。闇に囚われ続けていたモクマが見つけた、たった一つの光。

 追いかけて行きたい。彼と一緒に何処までも。一緒に生きてゆきたい。誰よりも近くで。


 だから。


「イズミさま。俺の痛みを返してもらえませんか?」

 驚いたように身を固くし、イズミがモクマに目を見張る。モクマの真剣な面持ちと頑なな態度が伝わったのか、すぐに呆れたような表情になった。

「後悔しないのね?」
「過去を悔やむのは、もう一生分していますので」

 波乱万丈な人生ねとイズミがため息混じりに言う。お互い様ですよとモクマは苦笑した。

「ねえ、モクマ。最後に一つだけ聞いても良い?」
「はい。なんでしょう、イズミさま」
「私は一瞬でも、モクマにとって光になれたかしら」

イズミの問いかけに、モクマは深く頷いた。

「イズミさまはずっと俺の光でしたよ。どんなに遠くに離れていようと、あなたの幸せを祈らずにはいられないくらい」
「……そう。……ありがとう、モクマ」


星明りの中、イズミが儚く微笑む。


「ここから先に行けば、もっと星が綺麗に見える場所があるわ。……でも、私は一緒には行けないから」

イズミがそっと歩いて、モクマの背後に回る。決して振り向かないでね。そう告げたイズミの表情は見えない。

「そんなに大切な人なら、今度は絶対に手放しちゃ駄目だよ」

温かなイズミの小さな掌がモクマの背中に触れた。数度さすって、イズミが大きく息を吸う。


「……痛いの痛いの」



強く、モクマの背中が掌で押される。



「飛んでいけ!」




痛みを抱えたままに何処までも。何処へでも。



飛んでっちゃえ。



ばいばい。モクマ。



***


 宇宙に一人放り出されてしまったような気分だ。イズミの言った通り、先程の場所とは比べ物にならないほどの星の光。目を凝らして見つめ続けていると、自分の体が浮遊して星の空に巻き込まれて、どちらが天上でどちらが地上なのか分からなくなる。星が下から降ってくるような奇妙な感覚を取り払うようにモクマは地面に腰を降ろす。雑草がクッション代わりになっているせいか、座り心地もまあまあ悪くない。

「チェズレイ。近くにいるんだろう?いい加減に出ておいで」

 独り言のようにモクマが呟く。ややあってから一人分の足音が近づいてきた。待っていたとすぐ側にある気配にモクマが声をかける。一瞬の躊躇いの後、チェズレイもモクマと同じように草むらに座り込んだ。

「よくお気づきになりましたね」
「腐っても元忍びなんでね。といってもまあ、気づいたのはついさっきなんだけど」

 頭を掻きながらモクマが申し訳なさそうに言う。気分を害したふうでもなく、そうですかとチェズレイが応えた。

 イズミと一緒に星空を見上げて、その直後に自分の本心に気がついて。溢れそうなほどの感情と一緒にモクマは自分を取り戻したのだ。取り返してすぐに分かった。モクマが共にありたいと願った存在は、この世界でもいつも隣にいたことを。

「お前さんはてっきり、お前さんの天国にいるとばかり思っていたよ」
「あァ……心外ですねェ……モクマさん。私にとっての天国は、いつだってあなたのいる世界ですのに」

 その割にはここでのチェズレイはモクマに対してかなりあっさりとした態度だったような気がする。イズミは兎も角としても、フウガと異様に仲が良かったのは何となく解せない。考えが顔に出ていたのか、くつくつと笑いながら気になりますか?とチェズレイが問う。

「実はこの世界での私は、フウガと定期的に手紙のやりとりをしておりまして。いわゆる、文通と言うものですが」
「文通」

 意外というかなんというか、随分古風な単語が出てきたものだなと率直にモクマは思う。

「フウガから提案されましてね。この世界での私の知らないあなたの過去をフウガが教えてくれる代わりに、普段のあなたの姿を教えて欲しいと」
「……それ、わざわざ手紙でやりとりする内容じゃないでしょ」
「おや。私にとってはとても大切なことですよ。私はいつもあなたのことばかり考えているのですから」

 この世界の私は秘密をひた隠しにするばかりに、当のモクマさんには距離を置いて警戒していたようですがとチェズレイが笑う。そうか。モクマに対して妙にそっけなかったのは、照れ隠しもあったのかもしれない。

「イズミ殿もまるでもう一人の母のように私に接してくれて。優しくて、あたたかくて。かつてのあなたの本当の故郷も、きっとそうあったのでしょうねェ。モクマさんが守りたいと思った気持ちも分かります」
「……そんなに大層なことを考えていたわけじゃないよ」

 ぽすりとチェズレイの方に頭を寄せる。怪訝な顔をしていたチェズレイだったが、モクマが俯いたままでいるのに気づいたのか、モクマの背中に腕を回して抱きとめる。チェズレイの小さな胸の中にモクマが顔を埋める。目頭に熱いものがこみあげるのをじっと堪えながら、モクマは吐き出した。

 そうだ。モクマは初めから何かを守ろうという強い正義感があったわけじゃない。いつまでも燃えるように美しいマイカの里も、そこで出会った人々にも。優しい思い出ばかりじゃなく、時に胸を掻きむしりたくなるような記憶があっても。青空に自由に羽ばたく鳥に憧れ、自分の不自由さに歯がゆさを感じた瞬間があっても。


 初めから、守りたいと思っていたわけじゃない。


「……ただ、好きだったんだ」


 好きだから大切にしたいと思ったのだ。


 イズミのこともふるさとのことも。今はきっともう二度と叶うことのない願いだけれど。  堰を切ったようにモクマの双眸から涙が零れ落ちる。震えるモクマの体をさらにチェズレイは抱き寄せて、優しくモクマの髪を撫でた。チェズレイの心音が服越しにモクマに伝わる。確かに生きている証の鼓動だ。

「それなら初めからそう言ってさしあげれば良かったのに」

 チェズレイの至極もっともな言葉に、モクマはこくりと頷いた。少しだけ顔を上げて、チェズレイの肩にモクマの顔を乗せる。満天の星空が綺麗だった。きっとあの星のいくつかはもうとっくに命を終えて、光だけが今ここに届いているのだとしても。記憶にある失ってしまった故郷と同じように、それはいつまでもモクマの中で美しく輝き続けるのだろう。





「……さて、そんじゃあ帰ろうか、と言いたいところなんだけど。お前さん、帰る方法知ってる?」
「あァ、モクマさん。この後に及んで未だ他力本願ですか。実に良いご趣味だ」
「他力本願と言うよりかは、お前さんを頼りにしてるんだよ」
「フフ…物は言いようですねェ」

 姿形は違えど、すっかり元通りの二人だった。ああ、そうだった。これが本来の自分だったのだと、モクマはようやく実感が湧いてくる。

「帰る方法はそのまま、ここに来た手順を思い出せば宜しいんですよ」
「……いや、手順て言うても」

 怪しい薬をお互い飲んで、いかがわしい行為に耽っていたきっかけしか思い出せないモクマは、計らず頬を赤らめてしまう。いくらモクマの姿も子供だからとは言っても、さすがに幼いチェズレイに手を出すのは駄目だろう。倫理的にも、モクマ自身に歯止めがかからなくなりそうだという点においても。

「……モクマさんがマイカの里で過去の自分と決別した際、あなたは私に何をなさいました?」

 忘れもしない鍾乳洞のことだ。ただただ命を犠牲にすることで自分の罪が許されることばかり願っていたモクマが、それでも守り手として生きるという覚悟を決めた時の。

「変化を願うなら、それこそ無傷ではいられないということですよ。この星が、ミカグラ島が、新しい世界が生まれるためには」
「……お前……それ本気で言ってる?」
「私はいつでも本気ですよ。特にあなたに関しては」

 モクマの手を引いて、チェズレイが立ち上がる。夜風が二人の間を颯爽と抜けていった。

「悪党の時を止めたのはモクマさん、あなたです。最後まで生き残ったあなただけが、もう一度時を動かすことが出来る」

 ぱっと手を離したチェズレイが、モクマとの間に隔たりを作る。全力でモクマが走ってチェズレイに飛び込むには十分な距離だ。

「ここが死者の国ならば、生者は生者の国に帰りましょう。私達は私達のあるべき場所に」

 モクマがそうすることを信じて疑わないチェズレイの目に、モクマは白旗を上げて降参する。

「心残りはありませんか?」
「それはお前さんもじゃない?」
「フフ…仲の良い両親と暮らすという体験にも興味がないわけでもありませんが。私にはただあなたとの新しい思い出が出来たというだけで満足ですので」

 それ以上の意味も価値もこの世界にはないと断言するチェズレイの潔さに、モクマは惚れ惚れとしてしまう。理想郷のようなミカグラ島をこれほどまでに愛おしいと思えるのは、二十年間逃げ続けたモクマだからこそなのだろう。失った過去にあれこれ言えるのは、未来に生きる者達だけだ。

 大切な人の手を取るために、大切な何かを手放す。それでもモクマがこの世界にやってきたことに意味があるのだとするなら。

「俺も心残りはないよ。……やっとイズミさまに、さよならが言えたから」

 大切な人を殺めて何の説明もなく姿を消して、イズミが一番悲しい想いをしている時に寄り添えもしなかったモクマだけれど。それでもイズミと出会えて良かったとモクマが思えるのは本当のことだから。

 痛いかも、とモクマが忠告すると、受けとめる覚悟がなければ相棒とは言えませんよとチェズレイが返す。そうだった。その痛みは二人分で、二人で分かち合う喜びだ。

 大きくモクマが深呼吸する。衝撃にそなえるようにチェズレイが腰を低くし、片方の足を一歩引く。助走をつけたモクマが充分にスピードをつけて、チェズレイ目掛けて全力で走る。


 好きだったよ。この世界も。でも、もうさよならだ。


 ぶつかりあった激しさを物語るように、火花が散り眩い閃光が一筋の道を作る。


 止まったままだった悪党どもの時間は、こうして再び動き出すのだ。




***


 白い星屑の中を一人で歩いていると、一つの流れ星が暗い夜空を縦に走った。あーあ、飛んでいっちゃった。誰に向けるでもなく呟いた言葉は、あっという間に空にたち消える。振られちゃったなあ、と続けた。唇を強く噛んでも、一度震えた体は止まりそうになかった。

 私の声と歌はみんなを喜ばせる為にある。だから、イズミは最後まで笑顔だった。モクマが里を出た時の自分には決して出来なかったこと。充分やりとげたじゃないか。自分自身をそうやって励ましてみても、気分は浮かなかった。

 世界の端からぱらぱらと砂のように崩れ、壊れ消えていくのがイズミには分かった。予想はしていたことだ。持ち主をなくした夢の世界は消滅の道を辿るしかない。全部分かっていたことだ。イズミの心の準備は完璧だった。


 なのに。


 イズミの瞳から無意識に溢れ出る涙が止まらない。なだらかに頬を滑り落ち、顎先から落ちた雫が唐紅の着物をもっと赤く赤く染め上げていく。何度指先で拭っても、涙は一向に止まってくれない。


 ……嫌だなあ。消えたくない。


 胸の前で両手を重ねてぎゅっと包む。ぱたぱたと温かな涙は指先にも落ちる。私の声は誰かを悲しませる為にあるわけじゃない。でも今日だけは許してほしい。せめて今だけは。


 モクマ。モクマ。


 あのね、聞いて。


 私は本当にあなたのことが、ずっとずっとモクマのことが。好きだった。大好きだった。


 知っていたの。別れの時だけじゃなく、あなたはいつだって私の幸せを祈ってくれたこと。


 でも私、本当はあなたと幸せになりたかったの。


 私がモクマの幸せを願っているのも確かなこと。だけどこの張り裂けそうな胸の痛みも本物なの。ああ、だからモクマが痛みを返してほしかった理由が今の私には分かるよ。

 傷があるから痛みがあって、痛みがあるからこそ私達は、その痛みに泣くことが出来るのね。

 昨の痛みを私は御空に返さない。痛いの痛いの飛んでかない。この痛みは、私だけのものだ。

 モクマの明日に私はいなくて、私に明日が来なくても。安心してね。恨み辛みの歳月を玉手箱に詰め込んで、あなたに渡したりはしないから。


私達の思い出を悲劇の物語になんてさせないわ。


 モクマはそのまま年を重ねて、来たるべきときが来た時にまた私に会いに来て。モクマがしわしわのおじいちゃんの姿になっていても、私は必ずモクマを見つける。

 涙すら砂と成り果てて、もうすぐ私は私ですらいられなくなる。でも、きっと大丈夫。

 例え全てが消えてしまっても、記憶から何もかもが零れ落ちてしまっても。私達の過ごした時間が幸せだったという事実は永遠になくなりはしないのだ。


 この先ずっと。



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