5.
「……いでっ…」
頭に走った激痛に、モクマは床の上でのたうちまわった。なんだ、一体何がおきたと、素っ裸のまま辺りを見回す。豪華な壁紙とこれまた値が張りそう照明器具が目に入った。はは、とモクマは薄ら笑いを浮かべた。帰ってきた。モクマのいるべき世界へ。戻ってきたのだ。
はた、と飛び上がってモクマはチェズレイの姿を探す。なんのことはない。大きなベッドの上に大きな塊が深く沈んでいる。良かった。チェズレイも無事だった。……まあ何気に、衝撃を和らげるようにモクマが飛び込む瞬間に受け身を取っていたことは知っていたので、こういうところが本当に抜かりがないよなとモクマは感心する。
「……チェズレイ」
起きている時の胸の浮き沈みのリズムだった。モクマの声に気づいているくせにチェズレイは、ぴくりとも反応しない。モクマは首を傾げた。仰向けになったまま両腕を交差して、チェズレイは表情を隠している。もしかして怒っているのか。モクマは何となくそう感じた。あれがモクマだけが見た夢だったとは到底思えない。そもそもあの世界の中に本物のチェズレイがいたからこそ、モクマは戻ろうと心を決めたのだ。あの存在が他の誰かだったら、きっと今モクマはここにはいないだろう。
モクマがベッドによじ登る。チェズレイ、ともう一度優しくモクマが声をかける。だが、やっぱり返事はない。どうにもこうにもチェズレイが不機嫌らしいことはモクマも察したが、生憎心当たりがありすぎる。遠回りをするよりまずは本人に原因を聞き、丁寧な謝罪を繰り返す他はないだろう。場合によってはご機嫌取りも必要か。モクマが思いを巡らせ始めたと同時に、顔を頑なに隠したままのチェズレイが口を開いた。
「あなた…本当はあの世界にいたままの方がよろしかったのでは?」
モクマはぽかんと口を開けた。いやいやいや、今更何を言っているのだ。
「……そもそも二十年間逃げ続けた先の道に、たまたま私がいたというだけの話です。あなたが本来の自分と向き合えたのなら、私という人間はあなたの道から退場しても良かったはずだ」
「……チェズレイ?」
「同道するにしても、実際は私の進みたい道にあなたを巻き込んだだけです。私は、どちらでも良かったんですよ。モクマさんが本当に選びたかった道でも、それが確かに同じ道であれば。どちらでも構わなかった」
チェズレイの唇がわなわなと震えている。モクマは深く深く溜息をつきながら、チェズレイの両腕を掴んで顔から剥がす。押し倒すような態勢でチェズレイを覗き込めば、綺麗な顔がくしゃりと歪んでいた。ちょっとでも触れたら、今にも泣き出してしまいそうな表情だ。
いつもは、あの理想の世界ですらチェズレイは余裕綽々に見えていて。けれど本当はモクマが一挙一動するごとに不安で不安でたまらなかったのだろう。
「お前さんね。俺とお前さんの間でした約束のこと。覚えていないわけじゃないでしょ?」
「知りませんよ。あの世界には下衆のあなたはいませんでしたし、下衆ではないあなたと約束する意味もありません」
ぷいっと唇を尖らせてチェズレイはそっぽをむいてしまったので、モクマはその可愛らしさについつい笑ってしまった。
不安にさせてごめんだとか、俺を信じてくれてありがとうとか。そんな陳腐な言葉では、モクマの気持ちをチェズレイに伝えるには足りなさすぎる。おそらくモクマが本当に本気であの世界を選び取っていたのなら、チェズレイはきっとあのままモクマの傍から離れていたのだろう。流れに身を任せてマイカの里に残ればいいとモクマが提案した時も、モクマに残るか戻るかの選択肢を問うた時も。チェズレイはいつだって傷ついた目をしていた。
それがモクマを本当の世界に引き留めた唯一だとも知らずに。
両手でチェズレイの頬を包んで、無理やりにモクマの方を向かせる。正面から真っすぐにモクマはチェズレイを見つめた。
「チェズレイ。イズミさまと俺が星空の下で話をしていた時、盗み聞きをしていたんだろう?」
「……随分な言い方ですが、あれは不可抗力です」
「俺はね、出来ればお前さんに傷ついてほしくないし、お前さんが傷つかないように守ってやりたいといつも思ってるよ。それは本当のことだ。……でも」
「……でも?」
モクマはにかりと笑った。
「たくさんたくさん傷ついて強くなったお前さんが、俺はどうしようもないくらいに好きなんだ」
「……なるほど。いたいけで無垢な私ではなく、今の傷だらけの私が好きだと。あなたはそう仰るのですね」
「そうだよ。ついでに言えばどうしても傷つかなきゃならん時は、絶対に俺の目の届くところで傷ついてほしい」
「……発想が下衆ですねェ」
「下衆ですとも」
不自然に瞬きを繰り返すチェズレイの瞳から、大粒の涙が零れていく。モクマが唇で拭う度に、くすぐったそうにチェズレイが微笑んだ。逃げ道なんて言葉で誤魔化さなくても、好きだから傍にいたいのだとモクマはそう伝えるだけで良かったのだ。
「私も」
「うん」
「……私も、あなたが下衆だったからこそ、こんなにも心が惹かれたんですよ」
チェズレイがモクマの背中に腕を回す。引き寄せて、モクマはチェズレイに口づける。軽く啄むように。次第に深く。
ごそごそと動く手の動きに気づいて、チェズレイが慌てたようにモクマの胸を両手で押しのけた。
「明日になったらもう一回しようって約束も忘れちゃった?」
「失礼ですねェ。そんなに簡単に忘れたりはしませんよ。ただ、一つだけモクマさんに確認したいことが」
「うん?」
「あなた、一回で我慢できるんですか?」
「分からん」
妖艶な微笑みを浮かべるチェズレイに、にやりと笑いながらモクマは即答した。
「やってみなくちゃ分からない」
***
お天道様もようやく機嫌を持ち直してくれたらしく、天気予報では数日ぶりに晴れマークが並んでいる。悪天候に足止めをよぎなくされていた旅行者で空港はごった返しになっていた。そんな中でモクマは一人荷物番をしつつも、やたら大きい窓から手すりによりかかる恰好で青空を眺めている。すきっとした文句なしの快晴だった。
半強制的に手にした蜜月に等しい休暇は、モクマ的には大満足だった。一回どころか散々盛り上がった挙句、最後は体力負けをしたチェズレイにモクマが枕でぶん殴られるというハプニングもあったが、それもご愛敬というものだ。
青空の中に飛び立つ飛行機が見える。陽の光を受けて、モクマは唇をつり上げた。やっぱり晴れの日は気持ちが良いねえ。青空に残る白い真っすぐな線を視線でなぞり、モクマは呟く。うん、やっぱり晴れが良い。どんな世界であっても泣いていない空が一番良い。
モクマが青空を背にすると、遠くにチェズレイの姿を見つける。モクマがすぐに向かおうとするも、その直後にチェズレイの前にさっと人影が現れた。じっとモクマはその様子を窺っていたが、丁重に受け応えしているチェズレイの様子を見るにさほど警戒が必要な相手ではないようだ。モクマの出る幕はないだろう。
冷静に判断してモクマは足を止めたが、内心やはり面白くなかった。まあ、簡単に言えば嫉妬も嫉妬だ。どうもあの不思議な世界から帰還して以来、モクマの心が狭くなった気がする。チェズレイが心の清らかなフウガと仲良くしていたのにも、モクマ以外の相手と笑いながら談笑している現実にも、正直不愉快で仕方ない。
でもなあ、とモクマは自身を戒める。チェズレイは多分、もっとだったはずだ。
そもそもモクマも自分が言葉足らずだということを自覚している。いくら人の心を読むのに長けているチェズレイであっても、だからといって全て自分のことを理解してくれると考えるのは甘えもいいところだ。言葉無くして伝わることは勿論あるが、言葉にするからこそ伝えられるものだってあるのだろう。
命を預けあう約束も、未来を共に生きる誓いも、もともとはチェズレイから言い出したことだ。モクマはその提案に乗っただけ。これではあまりにも受け身がすぎる。
うんうんと頭を悩ませ唸っているうちに、やり取りを終えたらしいチェズレイがモクマの元に戻ってくる。
「お待たせしました、モクマさん。さァ、参りましょうか」
「……あー、チェズレイ。その前に、おじさんと一緒に約束してほしいことがあるんだが」
「……約束。内容にもよりますが、一体どのような?」
モクマは一瞬言い淀むが、やがて腹を括ったようにチェズレイを真っすぐに見上げた。
「……お前さんが誰と何を約束しようが構わない。でも、生涯をかける約束は、命をかけあう約束は、俺とだけにしてくれ」
モクマもそう誓うから。
チェズレイの目が大きく見開く。突拍子もないモクマの台詞にしばらくは固まっていたが、すぐに長い舌をべろりと口から覗かせた。
「……モクマさァん。私の前で他の人間と明日の約束をした挙句、一回という制約も守れないで、よくそんな口が叩けますねェ」
痛いところを突かれてしまい、モクマは完全に押し黙る。チェズレイの言い分はごもっともで、モクマにはとりつくしまもない。やはり虫が良過ぎる話か。モクマがしょんぼりと肩を落としていると、チェズレイはくるりと踵を返して出発ゲートに足を向ける。すたすたと迷いなく歩き始めるチェズレイをモクマは慌てて追いかける。
その時、きらきらとした何かがモクマの視界に入った。
チェズレイの涙だった。
モクマが名前を呼ぶよりも先に、チェズレイが駆け出した。何故逃げる。モクマは疑問に思ったが、すぐにそれを打ち消した。受け止めきれない幸福から、お前さんが逃げ出したいならそれでもいい。代わりにモクマが絶対に捕まえる。チェズレイの涙を拭うのも、痛みを分け合うのも、一緒に笑いあうことも全てモクマの役目だ。
混雑した空港の中をチェズレイが無我夢中で走る。モクマが渾身の力で追いかける。何事かと人々が騒ぎ始めて目を見張る。それに構わずモクマは追い続ける。彼だけを見つめ続ける。二人の走った軌道はやがていつしか闇を切り裂く光となる。そのきらりとした眩しさが目に痛くて、思わずモクマは泣きそうになる。けれど決して目を逸らさないで、迷わず前に突き進む。二つの欠片が溶け合って流れる星は、縋りたくなるような祈りたくなるような、希望という名になるだろう。
進む先には光が見える。世界が見える。
この世界はちっとも優しくはないけれど、それでもモクマは優しくなれる。
だから共に駆け抜けよう。二人で手を取り合いながら。
守るべき明日へ。果てのない未来に。