3.

 祭りの日に相応しい真澄の空だった。中天に昇る太陽も、照りつける眩しさばかりではなくどこか和らぎある。時折流れてくる祭囃子の音は、屋敷の何処にいても良く聞こえた。モクマより早く紫木綿の着物を身に着けたチェズレイが、何度も早く行こうとモクマを急かす。タンバが二人にとわざわざ用意してくれた着物は、チェズレイにもモクマにもサイズがぴったりだ。

 屋敷の前の坂を下り、道別れの反対方向のあぜ道を二人で歩く。慣れない下駄を履いているせいか、チェズレイの動きがぎこちない。裸足の爪先に砂がかからないようにゆっくりと歩くチェズレイの歩調にモクマも無言で合わせた。

 アマフリの石が奉られている神社の様な境内からはみ出す形で、道の両端には祭り提灯が連なる。島をあげてのお祭りは辺りの道路一面まで射的やら輪投げやらお好み焼きやら、屋台がずらりと並んでいる。あきらかに里や島の者ではない観光客の姿も多い。幟がぱたぱたと風に揺られ、ついでに食欲をそそるような良い香りも漂う。小さな里中にしてはなかなかの賑わいだ。

 チェズレイと一緒に人波を掻きわけて、辺りを物色する。すると神社の敷地内の開けた場所に、大人たちがなにやらわいわい騒いで固まっているのが目に留まった。何々? 世界各地の銘酒の利き酒? うわあ、なんて心惹かれるフレーズだ。と大人のモクマであったら確実に飛びついていただが、今のモクマは飲酒が許されない未成年。どう考えてもあの中に紛れ込むのは至難の技だ。小さな使い捨てのカップをぐびりとあおり、喉を動かしながら飲み込んでとろりと恍惚の表情を浮かべる大人達の姿がモクマには羨ましく見える。ずるい。おじさんだって美味しいお酒をちょっとでいいから飲みたい。

 どうにもならないこの恨めしさよせめて届けとモクマが強く念じていると、くいくいと着物の袖を引かれた。顔を下に向けた直後、モクマはぎくりと身を強張らせる。チェズレイが一瞬にして獣じみた表情になり、釣り上がった黒く細長い目でモクマを凝視していたからだ。

「……お、お前さん、その狐のお面どしたの?」
「タンバの知り合いのお面屋のおじさんが、似合いそうだからってくれた」
「そのヨーヨーは?」
「あそこにいる同じクラスの子に貰った」

 モクマが一瞬目を離した隙にこれだ。まあ、子供ながらにしてこの容姿だもの。それはそれは周りが放っておかないよなあとモクマは得心する。大人のチェズレイでも、そういった光景を目撃するのは珍しいことでもない。ただもし異なる点があるのだとすれば、興味のない人間には軽くあしらう彼が、顔から頭にお面をずらしながら少し恥ずかしそうにしているところぐらいか。これはこれですこぶる可愛いけど。

「あら! モクマじゃない! ちょうど今焼きあがったところだから、これ食べていきなさい」
「おお! モクマ。やっときたのか。こいつをとっておいたから持って帰れ」
「あ! モクマ先輩だ。この前は怪我をした妹を助けてくれてありがとうございます。ずっとお礼が言いたくて。あ、これ、うちの店で出しているりんご飴です。好きなだけ持っていってください」
「おーい、モクマ! こっちにも寄ってくれ!饅頭がたっぷりあるんだ!」
「こっちには蒸し料理があるわよ。モクマ」
「モクマ! これもみんなで食べなさい」

 屋台から聞こえる絶え間ないモクマモクマの大合唱に流石に怯んだ。そぞろ歩きをしているだけなのに道行く人々から大注目の二人である。断る間もなくありとあらゆるものがモクマに押し付けられて、祭り会場に到着したばかりだというのに完全に買い物帰りの主婦みたいにいくつもの袋を提げた状態になっている。その横でチェズレイは生クリームがたっぷり乗ったクレープをはむりと美味しそうに頬張っていた。多分それも貰ったものの一部なのだろう。

 これがフウガの言っていたサービスの一環かと遠い目でモクマは考える。食べづらそうに歩くチェズレイを制止し、祭りの本通りの道から少し外れた。針葉樹が立ち並ぶなか、丸太を切り込んだ形の空いていた長椅子に二人で座ってふうと息をつく。わいわいとした祭りの気配や浮かれる人々の熱気を決してモクマは嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。けれどどうしてだろう。今のモクマはどうしても気分が沈んでいく。

「モクマ、チェズレイ!!」

 落ち葉を踏み鳴らしながら、どこからともなくイズミがやってきた。ぐったりとしたモクマと嬉々としてクレープを食べ続けるチェズレイを交互に見て、察したようにくすりと笑う。

「二人とも本当に人気者よね」
「原因はフウガにもあると思いますけど」
「あら。でもそれだけじゃないわよ。モクマもチェズレイも、とても素敵な魅力の持ち主だもの」

 神楽の舞台で舞う巫女装束を着たイズミの方がよっぽど魅力的ではないかとモクマは思う。遠い昔に目に焼き付けた姿は、何気なくイズミが身じろぎする度に懐かしい記憶となって目前の光景に透明に重なる。零れ落ちる陽の光を浴びて、昔以上にますますイズミが輝やいて見える。

「何事もなければもうすぐ舞台が始まるから。練習の成果を見ていってね」
「きっと大丈夫ですよ。イズミさまなら」
「あら。まるで知っているみたいに言うのね」

 その通りだとは告げずにモクマは曖昧に笑った。姫様がどれだけの練習を積み上げて、どれほどの美しい音色をその声で奏でてきたのか。ずっと見てきたから分かる。何年もの間大樹の上からイズミを見守り続けてきたモクマにだけは。

 ふふと笑いながらイズミは顔を僅かに上げて、あちらにと袖を振りながら指をさす。

「兄上がいるわ。参加しないにしても、神楽を披露する時間までなら十分楽しめるはずよ」

 ちょっと抜けて来ただけだからもう行かなくちゃと言い残して、イズミは踵を返す。揺れた長い髪からかすかに漂う残り香に、モクマは一瞬イズミを呼び止めそうになる。でも一体何の為に?と自問自答しているうちに、イズミの後ろ姿はあっという間に消えてしまった。白と赤の入り混じったふわふわとした衣類の残像だけが、モクマの脳裏にくっきりと残る。

「まるで天女さまみたいだね」

 チェズレイがぽそりと呟く。

「捕まえておかないと、今にも空に帰っちゃいそう」

 モクマの心を見透かすような台詞だった。まさかと言い聞かせるようにモクマが苦笑いすると、チェズレイの瞳がモクマを射止める。

「モクマはそれで良いの?」

 どういう意味だと深く探るよりも早く、チェズレイがベンチから降りてぱたぱたと浴衣の汚れを手で払う。行こうモクマ、と何事も無かったようにチェズレイが歩き出した。


***


 イズミに薦められた通りの先へ移動すると、そこにも二つほどの小さな屋台があった。受付と書かれた看板の先には、大勢の子供が列を作っている。蹴りゴマという昔ながらの遊びの大会にしては繁盛しているな、とモクマは素直に感心する。島をあげての祭りという名目があるにしても、ここまで人が集まるのはフウガの人徳と敏腕さ故なのだろう。

「モクマ!」

 まさに今考えていたばかりのフウガの声が聞こえた。受付と隣合わせのもう一つの屋台のひさしの下でフウガが手招きしている。人の隙間を通り抜けて、難なくフウガの元に辿り着く。よく来たなとフウガがかかりと笑った。

「大盛況みたいで、良かったな」
「ああ。今日一日皆の者にきちんと楽しんでもらえれば良いが」
「楽しいに決まってるさ。ほら」

 親に抱かれている幼子ですら、兄弟が楽し気に蹴りゴマで遊んでいる姿を見ては手を叩いて喜んでいる。周りの人間が楽しそうにしていれば気持ちは周囲に伝染するものだ。僕もあれをやってみたいと父親の服を掴む子供もいれば、ならば蹴りゴマのやりかたを教えてやろうという初対面であろう子供達がわらわらと集まる。大人達もそんな子供達を応援しながら優しく見守っていて、誰もが笑みを浮かべている。

 昔のマイカの里では絶対に見られなかった光景だ。それなら甲斐があったと安心したように目を細めるフウガの姿も、それに笑い返すモクマも。

「そういえばチェズレイの姿が見えないようだが。モクマと一緒に来たのではないか?」
「あれ?おかしいな。ついさっきまでそこにいたんだけど」

 きょろきょろと辺りを軽く辺りを見渡してみても、チェズレイの姿は見えない。チェズレイとモクマが声を張り上げて呼んでも、一向に返事は聞こえなかった。

「……あいつのことだから大丈夫だとは思うけど、ちょっと探してくる」
「祭りの関係者にも手を貸すよう声をかけるか?」
「うんにゃ、俺一人で何とか出来るよ。珍しいものに目移りして、気づかんうちにはぐれただけだろうし」

 告げてモクマは会場を後にし、チェズレイの名前を繰り返し叫ぶ。いつものチェズレイの姿であれば、高い身長と美しい髪色だけで目立つから簡単に見つけられるだろうに。今はモクマの身長の低さも相まって上手く探すことも出来ない。腹に力をこめて声を出しても、すぐに陽気な人々の声音にかき消されてしまう。

「ひったくりだ!!」

 悲鳴にも似た叫び声に瞬時に辺りは騒然となった。モクマが反応するよりも先に動揺した祭りの参加者が一斉に逃げ始め、流れに巻き込まれてモクマは身動きが取れない。モクマの表情に焦りが滲む。たやすく揉みくちゃにされる小さな体を呪いながら、祈るようにチェズレイの姿を目で探す。通り道を作るように、ぱっくりと二つに人垣が割れる。クリアになった道の先に、求めていたチェズレイの姿があってモクマは目を剥いた。


 あの馬鹿。一体なんだってそんなところに!


 力の限りを振り絞って何とか抜け出し、チェズレイの元にモクマが駆け寄る。突然現れたモクマに瞠目するチェズレイの手を引き、振り返る。ひったくり犯だと思わしきいかつい男が目と鼻の先に迫っていた。一呼吸おいて、モクマは対峙し身構える。


……怖い。


 全身が恐怖に震えて足が竦む。どうして、とモクマは狼狽えた。あんなのはモクマであったら軽くあしらえる程度の男だ。そう頭では分かっているのに、体の震えが止まらない。逃げろと誰かの声が耳に届く。でも、動けない。どうしよう、怖い。怖い。怖い。


 せめてチェズレイだけでも危害を加えられないようにとモクマは両腕を開く。もう駄目だと来るべき衝撃に耐えるよう身を硬くしてきゅっと目を瞑った。


 覚悟していた衝撃と痛みは、いつまで経っても訪れなかった。


 呻くような男の声の後に、どしゃりと岩が崩れ落ちる音がする。おそるおそるモクマが瞼を持ち上げると、タンバが大男の腕をねじり掴み、背中から地面に押し付ける形で拘束していた。わあ、と歓声が上がる中、二人とも無事かとタンバの横から現れたフウガが小走りでやってくる。

「参加者の中によからぬ者がいると女衆から言伝があってな。父上と里の者が警戒にあたっていたのだが、もしやと思って。……二人に大事がなくて良かった」

 ぎゅう、とフウガがモクマとチェズレイを巻き込んで抱きしめる。その温かさにモクマはようやく緊張から解き放たれ、安心感と疲労がどっと押し寄せてきた。

「時にモクマ。気持ちは分かるがあまり衝動的に動くものではないぞ。モクマには私を含めて多くの味方がいるのだ。もっと周りを頼れ」

 でなければ生傷が増える一方だぞ、と鷹揚に構えながらフウガが言う。

「それでチェズレイ。おぬしは何故モクマとはぐれたのだ?何か理由があったのだろう?」

 言葉尻は優しいが、フウガは少し怒っているようだ。その気配を察してか、チェズレイが目を伏せてそっと俯く。

「……お母様と」
「うむ」
「お父様に似た人を見つけて……それで気づいたら追いかけていて」

 ごめんなさいと消え入りそうな声でチェズレイが謝る。肩を落として項垂れるチェズレイの顔を、身をかがめてフウガが覗き込んだ。

「……そうだな。今日は島の外からの観光客も多い。おそらくおぬしの祖国からの客人もいるだろう。それをご両親と見間違えるのも無理はない」
「……うん」
「だが、心配せずともチェズレイは必ずご両親の元に私が送り届ける。そしておぬしのご両親も、きっとその日を心待ちにしておる。もしまた何か迷いそうになったら、私の言葉を思い出せ」

 ゆっくりと顔をあげたチェズレイの瞳が水の幕を張ったように潤んでいる。宥めるようにフウガが真正面から表情を崩すと、チェズレイもようやくふわりと微笑んだ。

「フウガ。これからこの輩を警察に引き渡しに行ってくる。後は頼んだ」
「承知しました、父上」

 親子が意思疎通を交わした後、場を仕切り直すようにパンパンとフウガが手を叩いた。

「さて、皆のもの! 間もなく境内にてマイカ伝承の神楽の舞いの披露が行われる。里の人間でもめったにお目にかかれぬものだ。ご家族友人知人をお誘いになって、是非みなさんでご堪能くだされ!」

 フウガの明るい掛け声で剣呑だった雰囲気が一掃され、祭りの雰囲気が瞬く間に戻る。ひったくりの被害者がフウガにお礼を言い終えた頃には、先ほどの騒ぎなんてなかったように陽気な光景が広がっていた。

「……フウガは凄いな」
「おぬしは突然何を言い出すのだ?」

 モクマが素直に感想を述べると、フウガが訝るように首を傾ける。

「私が凄いのは当然のことだ。なんせあのマイカの里の王族の血を引いておるからな。だからその名に恥じぬよう里の者のみならず、今この島にいる者達を私は全力で守らねばならぬのだ。勿論モクマ、おぬしを含めてな」
「俺のファンクラブ云々も同じ理由からか?」
「……フン…、やはり気づいておったか。好意を起点とした行動を何もかもが愛ゆえに許されると信じる者は多いからな。ルールを持って互いを監視しあう方が抑制にも繋がる。……ただ」
「ただ?」
「先陣を切って私がファンクラブを作って会長になったのは、モクマの一番のファンが私であるからだ」

 臆面もなくきっぱりと告げるフウガに、モクマの方が気恥ずかしくなる。ああ、そう、と呟くように答えると、おかしそうにフウガが笑った。

「モクマは我が友であり、ライバルであり、仲間であり、憧れであり、大事な家族だからな」

 さあ、我が自慢の妹の晴れ姿を二人で一緒に見てこいとぐいぐい背中を押すフウガに、モクマは首だけで振り返る。

「助けてくれてありがとう、フウガ」

 なあに、お互い様だと返されたフウガの声は、何処までもモクマに優しかった。





 透き通ったイズミの声が空気を伝って人々の心を震わせる。厳かで華麗な舞に誰もが息を呑む。紅葉樹が巫女の世界を火で燃やすが如く赤々と映える中、くべる風のようにしなやかにイズミが体を揺らす。美しかった。何もかもが美しかった。モクマが昔たった一人で見ていたイズミの歌声と舞は、こうして今は多くの者に愛されている。それがモクマは嬉しくて、少し物寂しい。はぐれないようにとチェズレイと繋いだ手にじわりと汗が滲む。こうやってしっかりと彼と掌を結んでおかないと、天女に心を奪われて今にも空に攫われてしまいそうだ。

 御神楽が終わり興奮冷めない拍手喝采のさなか、偶然にもイズミと目が合う。満足気に微笑むイズミにモクマは黙って手を振った。


***


 赤い果実をどろどろに圧し潰したような夕焼けの中、モクマとチェズレイは帰り道を二人で歩く。楽しかったかとモクマがチェズレイに問えば、うんと彼は素直に頷く。チェズレイの様子がどこかそわそわしているのにモクマは気がつき、ははーんと含み笑いした。フウガの言いつけを守る様に祭りの最中は手をつないでいたチェズレイだったが、人気がない道に出た途端どうも恥ずかしくなったらしい。モクマが何気なく手を離すと、あからさまにほっとしたように息をついた。

「明日の朝一にはフウガの奴は寮に戻るらしいな」 「うん。あっちでもフウガはとっても忙しくて大変なのに、このお祭りの為だけに帰ってくるの。本当にフウガらしいよね」 「お前さんは、いつ帰る予定なんだっけ」

 モクマがチェズレイに尋ねると、もう、モクマは忘れちゃったの?と呆れたようにチェズレイが見上げる。ごめんごめん、とモクマがあやすように謝罪した。

「来年の春にはヴィンウェイに帰るよ」

 交換留学の期間が決まってるからねとさらりとチェズレイが答える。

「マイカの、ミカグラ島に住む人達はみんな明るくて楽しくて。馴染みのない国から来た留学生なのにあたたかく受け入れてくれて。とっても名残惜しいけど」
「マイカの里にずっと住み続けたいとは思わないのか?」

 つい口をついて出た台詞に酷く驚きつつも、名案ではないかとモクマは思った。チェズレイがもしこの世界を、マイカの里を気に入っているのなら、ずっとここにいればいいのだ。かつてのモクマがそうしたように。チェズレイのことを実の弟のように可愛がっているイズミやフウガもいるし、なにより今は大人であるタンバがいる。子供であるモクマとは違って誰よりも頼りになる存在が、守ってくれる人がここにいる。

「……お父様とお母様に会いたいから」

 チェズレイの言葉にモクマは無言になった。今日の祭りでの騒ぎを一番間近で見ていたくせに、馬鹿な質問をしてしまった自分が途端に恥ずかしくなる。まだこんな小さい子供なんだもの。そりゃあ両親にも会いたいよなあ、とモクマは自分の無神経さが心底嫌になった。

「モクマはマイカの里に残って良かった?」
「……ああ、とっても」
「今もその選択は変わらない?」

 チェズレイからの問いかけに、モクマの動きが止まった。数歩進んだところでチェズレイが気づき、着物の裾を翻しながら振り向く。

「モクマが今もし同じ立場だったら、モクマは帰る? それともここに残る?」

 チェズレイの紫色の瞳がじいっとモクマの姿を捕らえる。鋭いものが体中に突き刺さるような感覚をおぼえたモクマは、咄嗟にチェズレイから視線を外した。何も答えないモクマの姿を、それでもチェズレイが凝視しているのが分かる。

「………モクマ、先に帰っても良い? お父様とお母様に今日の記憶がなくならないうちに早くお手紙を書きたい」
「………でも一人では」
「大丈夫だよ。ここから屋敷までは一本道で迷いようもないから」
 何の反応も見せないモクマに痺れを切らしたらしいチェズレイが小走りに駆けだす。転ばないように気を付けて、とモクマが声をかけると、分かったと答えるチェズレイと再び視線がかちあった。


 チェズレイの姿が見えなくなり、あぜ道の真ん中にモクマ一人がぽつんと取り残される。


 モクマは地面に足を縫い付けられたように、一歩も動けないでいる。おびただしい夕陽の赤がモクマの全身を染めあげ、同じ大きさの濃い影だけが小さな体に縋り付く。睨むように黒い影をじっと見つめ、だらりと垂れた腕の先に拳を作る。


 とんでもない、とモクマは呻いた。とんでもない世界だと声を押し殺しながら呟いた。


 この世界はまさにモクマにとっては理想郷そのものだ。


 開かれたマイカの里では、フウガは王族の血に誇りはあれど固執はしない。モクマに対抗意識はあっても、その怒りに決して自身が飲み込まれることはない。だからモクマが困っていたらフウガは簡単に手を差し伸べる。本来の世界ではモクマが出来なかったことをこともなく成し遂げる。古い集落特有の抑圧された環境もない中で、フウガは頼りがいのある存在として皆に慕われている。のびのびと成長したのはフウガだけでなくイズミも同じだ。気品ある振る舞いや優しさはそのままだが、年相応の元気いっぱいで明るい女の子。愛する我が子を亡くして、嘆き悲しむ彼女はどこにもいない。

 そしてこの世界には何よりタンバがいる。息子を庇って、命を落としたはずのタンバが。モクマのもう一人の父親が、二人の仲の良い兄妹を、我儘を言ってマイカに残ったモクマを、他所の国から来たチェズレイさえも、力強く守ってくれる。

 この世界には、守り手のモクマは必要ない。モクマは守られる存在であって、命をかけてまで何かを守るべき理由もない。だから今のモクマは忍びの力もなければ、窮地に立たされたら簡単に恐怖を覚えるような、普通の子供でいられる。

 優しい世界だ。誰も罪を犯さない、誰も傷つかない、天国そのもの。チェズレイにだってきっと心温かい両親が存命していて、だから彼が道を踏み外すこともなければ、幸せなままこれから笑って生きてゆけるのだろう。


 この世界は平和だ。平和だ、とても。


 モクマはだんだん分からなくなる。自分が自分で分からなくなる。この世界にモクマという存在が溶け出して、今にも消えてしまいそうだ。元の世界のことなんて忘れてしまって、そうやって生きていくことが許される気がして。見失いそうになる。モクマにとって守るべきものとは果たして何だったのか。

 守り手でないモクマを受け入れてくれるこの世界は優しい。その優しさがとても嬉しいのに、どうしてだろう。息が苦しい。

 胸元をぎゅうと掴み、モクマはそのまま屈みこむ。楽しくもないのに、笑いがこみ上げてきた。本当はこの世界が真実であって、あちらの世界が偽物だったのかもしれない。妄想に取り憑かれたモクマが見た夢。そうであればどれだけよかったか。モクマの記憶の中には、それでも忘れられないただ一人の存在がある。


 モクマだけをつぶさに見つめ、モクマだけに惜しみない情をかけてくれる人。


 彼とした最後の会話を思い返してモクマは苦笑いする。お前さんの言う通りだ。モクマはくしゃくしゃと頭をかき、真っ赤な夕陽を見上げた。


 こんなふうに後悔するくらいなら、もう一回しておけばよかった。


inserted by FC2 system