2.


 まずはモクマの知りうる情報を整理してみようと思う。

 手始めに、自分自身のことについてだ。

 名前はモクマ・エンドウ。性別は男で間もなく不惑の歳を迎える。ミカグラ島にあるマイカの里出身の元忍者でショーマン。二十年前に犯した罪により故郷を追われ、以降は身を隠しながら諸国を放浪。旧縁の知人にミカグラ等を拠点とした犯罪組織ディスカードの殲滅を依頼されたことをきっかけに、故郷に舞い戻る。そこで三人の仲間と出会い、うち一人『仮面の詐欺師』ことチェズレイ・ニコルズとは生涯を誓った相棒関係となる。事件解決以降も彼と公私を共にし、とある目的の為に現在は二人で世界中を飛び回っている。

 以上が己の知るモクマ・エンドウの経歴だ。それはモクマにとっては既知の事柄で、特段振り返る必要もない。マイカの里で過ごした幼少期のこと。故郷を離れて過ごした二十年間。かけがえのない仲間達との邂逅。今もありありと思い出せる光景だ。


 それとは別に、モクマには自身の知らないもう一つの記憶があった。


 モクマ・エンドウ。数え年は十五。幼少期に両親と共にミカグラ島にあるマイカの里に移住し、数年を過ごす。父親の仕事の関係でミカグラ島より離れることになったが、どうしてもマイカの里に住み続けたいというモクマの希望と里長であるタンバの申し出もあり、モクマの両親が島より去った後はタンバの家に居候という形で住み込んでいる。一緒に暮らしているのはタンバと、モクマと同じ中学に通う一人娘であるイズミ。タンバの子息であるフウガは、ミカグラ島の中心部であるブロッサムという街にある高校に進学した。今は寮暮らしをしているが、数ヶ月に一度はこうして実家に帰郷している。

 そしてミカグラ島の山奥に存在するマイカは、決して封鎖的な里ではない。数年前に両親に連れられてモクマがこの地を踏んだ時には、既にマイカの里は近隣の地とも交流が盛んだった。島民のみに限らず観光客も里中を頻繁に行き来し、里の人間も友好的に受け入れている。島の中で世界でも観光地として有名なブロッサム街との親交は特に深い。

 本来の事実とはあまりにもかけ離れた話に卒倒しそうになる。モクマの持つものと全く異なる過去の記憶が、それでも確かなものとしてモクマの中に存在する。相反する二つの事実。唯一の違いといえば、一方はモクマが経験してきたものだと断言出来るのに対し、もう一方は例えば新聞記事に同姓同名の名前を見つけたように、それが事実だと言われてもモクマにはまるで現実味がないことだ。他人事のように別次元の自分を俯瞰して観察しているような気分にさえ陥る。

 幸いなことにその情報は一過性としてではなく、古くから伝わる逸話のようにモクマの中に浸透しきっている。アドリブ混じりに見知らぬ他人と話を合わせることなど、モクマには造作もない。相棒ほどではないが、幼い頃の自分を演じ切ることぐらいは簡単だ。

 ただ、いつまでこうしていればいいのか。モクマには皆目見当もつかなかった。知るのは過去のことばかりで、この世界のモクマが今後どうなってしまうのかも分からない。この世界のモクマの物語に終焉はあるのか。そもそも終わりという概念があるのか。もし終わったらモクマはどうなるのか、終わらなければモクマはどうすべきなのか。


 どうしたら元の世界に戻れるのか。


 モクマがむくりと起き上がると、部屋の隅で本を読みながら体育座りで柱に寄りかかっていたチェズレイが目を寄せた。

「どうしたの、モクマ」
「いや。じっとこうしてるもの退屈だから、散歩でもしようかと」
「駄目だよ。タンバにも今日一日は大人しくしているように言われてるでしょ」
「でも、少しぐらいなら」
「イズミやフウガ怒られても構わないなら止めないけど」

 言ったきりチェズレイは手にしていた本に視線を落とす。ぱらりと頁を捲ってこれ以上説得する時間も必要もないとばかりのチェズレイの様子に、モクマは憮然としつつも、すぐに気を取り直す。タンバを含めた一対四の戦いに正直モクマは勝てる気もしない。あっさりと降参して、ばたりと敷布団の上に倒れ込んだ。欄間から差し込んだ陽の光が、モクマの顔にあたる。

 屋敷の中にある一回り大きな客室は、普段めったに使わないからと居候を始めたモクマに与えられた部屋だ。おおよそ十畳ほどのその部屋は、中学生のモクマが使うには広すぎる。ただでさえ無理をお願いしているのだから、もっと狭い部屋で良い。とモクマはタンバに訴えたが、何故か用意されたのは小さな部屋ではなくチェズレイというもう一人の同居人だった。一人では広い部屋なら、二人で使えばいいというタンバの言い分はかなりどうかと思うが、モクマは文句を言える立場ではない。


 そして、チェズレイ・ニコルズ。


 おそらく百歩譲ってもモクマの相棒であることは間違いないだろう。だが、本来モクマとチェズレイは年が一回り以上離れている。にしては、今のチェズレイはモクマとさほど年齢差を感じない。それどころかチェズレイの身長はモクマより幾分低く、視線を下に向けて顔を見るという初めての経験に戸惑いさえある。しかもモクマやタンバまでも呼び捨てにするし、いつもの丁寧な口調ではなくかなり砕けている。

 ヴィンウェイという北国からはるばるミカグラ島までやってきた、同年代の交換留学生。そして、ホームステイ先は勿論タンバの家。話としては出来過ぎていて深く追及する気にもなれない。

 イズミのおまじないの効果かは分からないが、疼くような頭の痛みはすっかりと消えている。体も健康そのもので、だからこうして部屋の中で軟禁されているのは暇で暇で仕方がない。そもそもモクマは基本的にじっとしていられる性分ではないのだ。若さ故に持て余す体力を発散したいし、元の世界に戻る手掛かりも探したい。藁にもすがる思いでもしこれが夢ならば一晩眠ったら醒めるかという淡い希望も、今朝すっきりと目が醒めたことで潰えたことだし。

「モクマ。駄目だよ」

 モクマの思考は先にチェズレイに読まれた挙句、諭されてしまった。チェズレイは変わらぬ姿勢のままモクマに一瞥もくれないくせに、雰囲気だけで察したらしい。部屋の中央の畳の上に敷いた布団の上で、モクマは体をくるりと動かしうつ伏せになる。じとりとした視線をチェズレイに向けるも、気づいていないのかそれとも知って敢えて無視をしているのか。全く反応がない。

 イズミやフウガ、そしてタンバは兎も角として、そういえばモクマは幼いチェズレイの姿を見るのは初めてだなあと感慨深く思う。遠目でも分かるほど白い肌に、金色のさらさらとした髪が良く映える。子供ながらチェズレイの顔のパーツは驚くほど整っていて、本を見下ろすその薄紫の瞳の色も長いまつ毛も、見れば見るほどお人形みたいだ。かと思えば面白いシーンを見つけたのか、唇の端が僅かに釣りあげられ、ついでに頬も心なしか染まっている。笑いを堪えるように小さな体が小刻みに震えていて、可愛いなあ、と率直にモクマは思った。大人のチェズレイの美貌はそりゃあもう完璧で、いつだってモクマは見蕩れてしまうのだけど。幼いチェズレイにはまた違った良さを見出せる。なんていうかこう、掌の中に納めて永遠に見つめていたい、とか可愛がりたい、とか。思う存分甘やかしてやりたい、とか。主に小動物に対して抱く感情のような、そうでないような。

「チェズレイ!手は空いているか?少し手伝って欲しいことがあるんだが」
「……大丈夫だけど、モクマはどうすれば良い?」
「一晩寝てもうほとんど痛みがないのだろう?なら、モクマにも手を貸してもらいたい」
「分かった」

 邪なモクマの思考を遮るように、玄関口からフウガの声が届く。二言ほど会話を交わして、チェズレイがぱたんと本を閉じ置き立ち上がる。

「モクマ、フウガが呼んでるから行こう」

 チェズレイの声に弾かれるように、モクマは慌てて起き上がる。いそいそと布団をたたんで部屋の端によせ、襖を開けて廊下に出ていくチェズレイの後ろ姿を追う。黒いハイソックスを履いたチェズレイの小さな足が、とたとたと軽く床を鳴らす。後ろ姿も愛らしいなあなどとモクマが不埒なことを考えていると、長い廊下の奥からのそりとフウガが現れた。


***


 マイカの里では、一年に二度大きな祭りが催される。今から約千年前。ミカグラ島が誕生する所以となった、アマフリと呼ばれる隕石がこの地に降り注いだ日。以来天振りの日と広く親しまれた年初の期に、島の繁栄への感謝と祈りを捧げる儀式が古くからマイカの里で執り行われてきた。

 そしてもう一つ。里以外の者の立ち入り一切拒み、独自の集落を頑なに守り続けてきたマイカの里が、その禁忌を自ら破り、ミカグラ島きっての振興地であるブロッサムと手を取り合った結束の日。暦の上では明日にあたる。

 決定的な島の契機となったその時別な日に、再び祭りは開かれる。島の住民のみならず、世界から多くの観光客がこの奇跡の地であるミカグラに集うのだ。そして神事とも呼べるまつりごとの主催を務めるのが、古来マイカの里を納めていた王族の末裔であるタンバだ。無論タンバの家族もその例外ではなく、祭りの時期に合わせてフウガは帰省し、イズミは祭事のメインとして披露する神楽の最終稽古に朝早くから出かけている。

 全く。記憶にもない与太話を、よくこんなにもぺらぺらと説明出来るものだ。いっそ笑えるくらいに。

 引越しに使えそうな程の大きい段ボールが、上がり端すれすれの床に五つほど置いてあった。蓋を開けると、中には駄菓子や文房具、小さなマスコット人形などの実に子供が喜びそうな物で溢れている。

「リスト通りに数があるか、まずは箱の中身を確認してほしい」
「分かった」
「それが終わったら、各賞ごとにそれぞれ小分けにして袋で包んでくれ。もうすぐイズミも戻るだろうから、必要であればイズミにも頼め」
「……俺も手伝おうか?」

 フウガから数枚の用紙を受け取ったチェズレイが相槌を打つ中、モクマがおずおずと申し出る。

「いや、モクマには他にやってもらいたいことがある。一緒に庭に来てくれ」

 分からないことがあったらいつでも聞きにくるようにと微笑みながら言い置くフウガに、チェズレイは従順にこくりと頷く。こうしていると外見は全く異なるというのに、まるで兄弟のようだ。

 玄関のたたきを抜けてフウガと一緒に外に出ると、いつの間にか庭に人だかりが出来ていた。モクマと同じか、それよりも下かと 思われる子供たちが和気藹々とはしゃいでいる。その中をフウガとモクマが掻い潜り、くるりと振り返って門の壁を背にする。子供たちの目が一斉に二人に集まった。

「それよりこれから明日の祭りで開催される蹴りゴマ大会に向けての練習を始めたいと思う。蹴りゴマが初めて者は私に。基本的なルールとやり方を伝授しよう。ある程度経験と自信がある者は、隣にいるモクマに相手になってもらうがいい」

 モクマは手強いからな、と白い歯を見せて笑うフウガにモクマはぎょっとした。フウガの言葉を受けた子供たちは一様に目を輝かせ、歓喜の声が湧き上がる。いやいやいや、そんなのは聞いてないぞとモクマは内心焦る。チェズレイの手伝いに比べて格段にレベル違いの要求にモクマは睨みをきかせるが、フウガに全く悪びれた様子はない。同じように蹴りゴマの用意も段ボールの中に出来ていて、よろしく頼む、とそのうちの一つをフウガから手渡された。

「ここだと狭いから、あっちに移動しようか」

 フウガと二手に分かれてモクマが正門付近まで移動すると、ぞろぞろと子供達が後に続く。ざっと数えて二十四、五人くらいか。圧倒的に男子が多いが、ちらほらと女の子も混ざっている。フウガの方はやはり初心者向けということもあるのだろう、どちらかといえば女子の割合が多い気がする。

 それにしても、どうも子供たちの様子がおかしい。モクマのことを穴が開くほどじっと凝視しているくせに、こちらが視線を向けるとぱっと目をそらす。そのくせモクマが身振り手振りで蹴りゴマのコツを簡単に説明すると、もの凄い勢いで質問されるし、それに答える度に何故か感嘆の溜息と拍手まで聞こえる。……なんだかニンジャジャンのヒーローショーの後に子供たちと接した時のような感覚だ。

 それはさておき、蹴りゴマというのは実にシンプルな昔ながらの遊びだ。

 紐は一切使わずに、最初は手でどんぐりの形に似たコマをそのままに回転させる。回り始めたら、足を使ってコマが長く回転するよう側面を蹴る。複数人で同時にコマを回し、最後まで回転し続けた者が勝ちというゲームだ。マイカの里ではそれに、お互いのコマをぶつけ合って最後まで残った者が勝者となる。最初の回転方法と蹴りの塩梅。コツさえ掴めば驚く程長くコマは回り続ける。モクマは経験と年季があるぶん更にだ。

 練習を始めておよそ三十分経過したくらいだろう。手強いモクマへの挑戦もようやく途切れ、子供たちがそれぞれ周りとコマで遊び始めた頃だ。屋敷の方を何気なく眺めると、チェズレイと神楽の練習が終わって帰ってきただろうイズミが縁側に二人座って並んでいる。会話の最中、チェズレイがそっとイズミに耳打ちして、可笑しそうにイズミが笑う。おそらく手伝いを終えて庭にいるモクマやフウガの様子を見に来たのだろうと思うが、楽しそうにしている二人が何を話しているかが正直気になる。周囲の様子を慎重に確認して、モクマはそっと子供たちの中から抜け出した。

「おかえりなさい。イズミさま」
「ただいま、モクマ。疲れたでしょう。水とお茶を準備してあるけど、どちらが良い?」
「では、お茶をお願いします」

 返事をしたモクマがイズミの隣に腰掛ける。丁度イズミを挟んで両隣にモクマとチェズレイが座る形だ。イズミは後方に体を捻じ曲げ、二つあるポットの脳天を手で押して、湯飲み茶わんにたぱたぱと中身を注ぐ。どうぞと渡された湯飲みをモクマは受け取る。香りからするにほうじ茶らしく、かすかに湯気が立っている。一口飲み込んでモクマはほっと息をついた。

「毎年のことだけど、どんどん人が増えているわね」
「それだけフウガが慕われている証拠かな」
「そうね。ほら、あの女の子達なんかはこの辺の子じゃないから、きっとブロッサム街から兄上目当てで此処まで来たのよ」
「それはまた……随分と熱烈な」
「兄上、あちらの高校でも相当人気があるみたいだしね」

 それはそうだろうなあ、とモクマは納得する。モクマの目を通してみても、今のフウガには影というか、内に秘めた心の闇のようなものが全く感じられない。すっきりとした顔立ちに加えて頭脳明晰で、それでいて性格は快活で明るく、誰に対しても優しくて面倒見も良い。子供たちが年上のフウガに懐くのも肯ける。見計らったようにフウガを取り囲む集団から、わっと楽し気な声があがった。

「明日のお祭りの蹴りゴマ大会というのもね、兄上が考えたものなのよ。ほら、お祭りになると大人たちはみんな忙しくなるでしょう?母上も神楽の準備でてんてこ舞いで、この時期は練習時間以外に私もあまり顔を合わせられないくらい」
「タンバさまも忙しそうでしたよね」
「そう。だからね、残された子供たちが寂しくならないようにって、兄上が近所の子たちに蹴りゴマを教えはじめたのが最初のきっかけ。兄上になら、自分達の子供を預けても安心だってすごく評判になって。最終的にはお祭りの催し事まで企画しちゃって」

 すごい有言実行っぷりよね、と告げてイズミが笑う。隣で大人しく座っているチェズレイの髪を梳きながら、私の自慢の兄よと言葉を続けた。

「ブロッサムの高校に進学した後は、兄上から習った子達が代わりに小さい子達に教えていたんだけど。この時期に帰ってくるときは、こうして兄上が蹴りゴマを教えてくれるの。どう?いつもは眺めているだけだけど、折角だからチェズレイもやってみない?」

 モクマに話しかける体を装い、結局はチェズレイに事の経緯を説明していたらしい。どうりでモクマにとっては今更過ぎる説明だと思った。イズミの提案にチェズレイはかぶりを振る。

「見ている方が楽しいから」
「そう?もしやりたくなったらいつでも言ってね。きっとモクマも教えてくれるから」

 イズミの台詞にモクマが軽く頷く。ふと、視線を感じてモクマが庭に目を向けると、数人の子供達が再びモクマを見つめている。内輪で何かこそこそ話したかと思えばモクマの方を向き直り、顔の高さで小さく手を振ってきた。訳も分からずモクマもとりあえず手を振り返す。

「うん?あの子たち?あの子たちはねえ、モクマのファンクラブの子」

 飲んでいたお茶が豪快に気管支に入り、モクマはぶはっと盛大にむせた。

「そういえばモクマのファンクラブもフウガが作ったんだよね。昔はフウガが会長をやってたんだぞって、前に自慢された」

 チェズレイの追撃がとどめとなり、モクマは本格的に呼吸困難になりかける。喉奥からの異物を吐き出すように、ごほごほと咳込んで前かがみになる。やだモクマ、大丈夫?と慌てて背中をさするイズミの手が優しい。

「慌てて飲むからだよ」

 呆れたようなチェズレイの台詞に、責任の一端はお前にもあるのだぞときっとモクマは睨みつける。だが当のチェズレイはモクマのことに目もくれず、どこか嬉しそうな表情で庭の方を見つめていた。

「フウガ!練習は終わったの?」
「大体はな。あとは少し休憩を挟んで、試合形式で勝負を行う予定だ」

 縁側に向かうフウガの後にぞろぞろと子供たちが続くと、イズミとチェズレイが飲み物を次々に注ぎ始める。チェズレイから湯飲みを受け取ったフウガが、どかりとモクマの隣を陣取った。

「体を動かした後に我が妹とチェズレイが準備したお茶を、我が友であるモクマの傍らで飲むのは最高だな」
「……フウガ、ちょっとおやじくさい」

 モクマの悪口を気にも止めずに、そうかそうかとフウガが笑う。モクマは呆れるも、そんなフウガのあっけらかんとした笑い方にタンバの面影を見る。

「この後は明日の本番さながらのトーナメント制で試合をするから、モクマも是非参加してくれ」
「いいのか?」
「何がだ?」
「俺、強いよ」
「知ってる」

 昔はおぬしに勝負を挑んで散々負かされたからな、とフウガがモクマを見つめたまま何かを思い返すように目を細める。そうか、とモクマは呟いた。そうだった。ここでのモクマは、自分より目立つ転校生が気に食わないという理由で、なんだかんだと付き纏ってきたフウガにきちんと向き合ったんだっけ。何度負けても挫けず食らいつくフウガに、お前のしつこさだけには俺も勝てないとモクマが呆れ認め、その日を堺に二人は親友とも呼べる間柄になったのだ。モクマがマイカの里に残りたいと言った時も、一番最初に味方になってくれたのもフウガだった。

「さすがに本番にモクマを参加させるわけにはいかないがな。勝負が勝負にならない」
「分かってるって」
「その代わりに、祭りは存分に楽しむがいい。婦人会の奥方にも、モクマにはたっぷりとサービスしてくれとお願いしてあるから」

 一体何のサービスだと恐々とするモクマにフウガがまた笑った。

 その笑顔にきっと嘘はないのだろう。



 練習試合は案の定モクマの圧勝だった。最後の最後で飛び入り参加をしたフウガも、モクマが蹴り飛ばしたコマにぶつかり力尽きたように動きを止めた。すごいすごいとはしゃぐ子供たちと、さすがモクマだなと称賛を投げるフウガの声が耳の奥に聞こえる。

 モクマのコマだけが一つくるくると周り続けて、最後まで生き残った。


***


 イズミが作った夕食をぺろりと平らげ、フウガに進められるままに一番風呂に入った頃にはもうすっかり夜になっていた。寝間着姿のモクマは自室の畳の上であぐらをかき、腕を組みながら考えこむ。十畳の部屋に寄り添うように並ぶ二組の布団。昨晩は混乱する思考を宥めるのに精一杯だったが、落ち着きつつある今ではこの状況にちょっと狼狽えてしまう。薄い紫色のパジャマを着た湯上り姿のチェズレイが、布団にうつぶせに寝転びながらぱたぱたと足を上下に動かしている。どうもフウガからお土産にと新しい本を貰って嬉しいらしく、ほくほく顔だ。

 見慣れた大人の姿ならともかく、幼いチェズレイの湯上り姿はモクマにとっては視界の暴力だ。白い滑らかな肌が薄い桃色に染まり、唇までもつやつやと濡れている。自慢の金色の美しい髪もいつもに増して輝き、綺麗な輪が見て取れた。伏し目がちの長い睫毛。パジャマの隙間からちらりと見えるなだらかな鎖骨。温かくて軟らかそうで、モクマより圧倒的に小さい体。

 正直これだけ無防備で大丈夫なの?とモクマは心配になってしまう。ぎりぎりの理性でなんとか衝動を押しとどめているが、ぶっちゃけ触れたくて抱きしめたくてしょうがない。こんなに可愛い子と毎晩一緒に隣で寝てるの?そんでもって指一本も触れていないの?正気か俺は。いや、正気なんだろうな。正気ではないのはむしろモクマの方であって、でも恋人のこんな姿を見て気持ちの一つも動かないのはそれこそ正気じゃなくない?正気が正気じゃなくなるというか、つまり正気ってどういうこと?

 思考回路が混沌となりかけたところでチェズレイと目があった。モクマ、眠いの?もう寝る?と尋ねるチェズレイに、いや、とモクマが言い淀む。この状態で二人きりで寝床につき、例えば僅かな息遣いとか小さな衣擦れの音とかと聞いてしまったなら。自分が一体何をしでかすか分からない。モクマは自他共に認める下衆だが、こんないたいけな子供に手を出すほど性根が腐ってはいないのだ。心はかなりぐらついてはいるけども。でも、明日は忙しいからもうそろそろお休みした方がいいかも、と気遣うチェズレイの言葉にモクマは慌てた。

 上手い言い訳をあれこれモクマが考えあぐねていたところで、唐突に部屋の襖が豪快に開かれた。すぱーんと小気味の良い音が響きモクマがぎょっとして目を見張ると、何故か寝着を身につけたフウガとイズミが廊下に揃って仁王立ちしている。


「たのもー!!」


 一体何事だ。状況を把握しようとするモクマに、フウガの傍らに立つイズミがおかしそうにくすくすと笑った。

「これより四人で枕投げ大会を始める!!」
「フウガ!!」

 フウガの宣言に一番に反応したのはチェズレイだ。すくっと立ち上がり、目を爛々と輝かせてフウガの元に駆け寄る。 「フウガ…、覚えててくれたんだ」 「チェズレイも私の大事な家族だからな。家族であるおぬしが言ったことを、私が忘れるはずがないだろう」 「……ありがとう、嬉しい」  再会したモクマにそうしたように、フウガがチェズレイの髪をくしゃりと撫でる。くすぐったそうに、それでも嬉しそうにチェズレイがフウガに向かってはにかむ。何だこれは、とにわかにモクマの表情が険しくなる。完全に二人きりの世界を目の前で見せつけられ、何だかとても面白くない。

「モクマ、ぼうっとしてないで手伝って」

 屋敷中からかき集めたと思しき枕が廊下にこんもりと積み上げられている。二つ三つ、抱えるイズミから枕を受け取り、部屋の中にぽいと投げ捨てた。

「チェズレイがね、枕投げをしたことが無いって言ってたから。兄上と話し合って、じゃあみんなが揃ったらやりましょうって計画していたの」  モクマの怪我のこともあるから本当は延期しようかって話もしたんだけどね。と、苦笑しながらイズミが告げる。でもモクマの様子も大丈夫みたいだし、それだと間に合わないかもしれないから、と続けて。

「以前も申したが枕投げのルールは単純で、枕を相手に投げてぶつけたら勝ちだ。人数が多いとチーム分けをして、味方がもう一度枕をぶつければ復活するというルールもある。十回当たったら負け、という回数による制限も地域によってはあるらしい」

 畳に二人分追加で増えた布団の上に座りながら、フウガが教師よろしくチェズレイに説明する。ああしてると、国籍も違うのに兄弟みたいよねと指摘するイズミに、モクマも昼間に同じことを思っていたとは口には出せなかった。

「枕の投げ方に特に決まりはない。助走をつてけても良いし、自分の好きなフォームで投げればいい。無論このように」

 突然フウガがモクマとイズミ目掛けて豪速球のように枕を投げる。すんでのところでモクマはさっと避けたが、隣りにいたイズミは間に合わなかった。

「奇襲をかけるのも戦法の一つだ」

 イズミさまに何てことを、とモクマがフウガの非道に慄然としていると、くつくつと地の底から込み上げるような呻きがイズミの体から聞こえた。ばふんと顔面にぶつかり落ちた枕を拾い上げ、イズミがフウガを睨みつける。

「……兄上。この私に不意打ちとは、いい度胸ですね」
「例えおなごであろうと我が妹であろうと勝負ごとでは容赦せぬぞ」
「ええ……私も、実の兄だろうと一切手加減はいたしませんから!」

 互いにおもむろに立ち上がってばちばちと火花が散ったかと思えば、それが戦闘開始の合図だったらしい。一投一投が重いイズミの攻撃をひらりと躱すフウガに、逃げるな卑怯者とイズミが鬼の形相で叫ぶ。……やだ、こんな凶悪な顔したイズミさま見たことない。でもこれはこれで最高にときめいちゃう!といつもの調子で乙女になりかけたモクマだったが、そんなことをしている場合ではないとすぐに我に返った。

 下手な鉄砲も数打ちゃ当たる。諺よりも遥かに命中率の高いフウガの連弾からイズミを守るのでモクマはいっぱいいっぱいだった。枕の動きと共にほこりが舞い、照明器具から垂れ下がった紐が戦いの激しさを物語るように揺れっぱなしだ。敷きつめた布団が兄妹の踏ん張りのせいで、境界がどんどん歪になる。枕を投げているだけなのに部屋中に空気の振動が伝わってくる。マイカの里でここだけ地震が起きているみたいだ。

「兄上!往生際が悪いですよ!さっさと観念してください」
「悪いがそれはこちらの台詞だ!」

 兄弟喧嘩のような言い合いの中、ぱちぱちと乾いた音が紛れ込む。かすかな音源を辿ってモクマは目を剥いた。ちょっとチェズレイ。正座をしたまま感激したように拍手をするのはやめなさい。

 とチェズレイに気を取られている隙に、フウガの猛攻がイズミに入る。もはや枕とも思えない加速度で、白い物体がイズミの膝に当たった。衝撃でイズミが倒れる寸前、一矢報いるように放たれた最後の攻撃は、見事にフウガの腹に命中する。

「フン、我が妹にしてはなかなかやるではないか」
「兄上も以前よりも腕をあげましたね。あちらの学校で勉学ばかりに夢中にならずに何よりです」
「うかうかしておったらお前に寝首を掻かれるからな」

 おかしい。ただの遊びの延長なのに、飛び交う台詞が物騒すぎる。こんなのモクマが知ってる枕投げじゃない。

「モクマ、避けて!」

 イズミの警告に無意識に体が動く。完全に観客として見守っていたチェズレイが、いつの間にかモクマを狙って枕を投げつけていた。モクマとチェズレイの一騎討ちだなと寝間着をはだけさせながら寝転がったフウガが告げる。

 反撃するようにモクマも畳に落ちた枕を一つ掴む。武器を持ち敵であるチェズレイを見れば、途端に彼は不安そうな表情になった。

「………モクマ」

 困り果てたような顔で上目遣いをするチェズレイにモクマはあからさまに当惑した。大人のチェズレイの表情ですらモクマは弱いのに、増してや相手が子供の姿なら尚更だ。そもそもだってモクマは枕投げに無理やり巻き込まれたようなもので、守り手としてイズミをフウガの攻撃から防ぐのは当然としても、チェズレイを攻撃する道理は何一つないのだ。だが居候の件を差し引いたとしてもやはりこの家でのモクマの立場は弱い。成り行きを監視するフウガとイズミからそこはかとなく圧も感じる。

「チェズレイ…すまん」

 枕を投げる素振りをモクマが見せると、怯えたようにぎゅっとチェズレイが目を瞑る。すかさずモクマはチェズレイに近づいて、ぼすりと枕を顔に押し当てた。予想していた衝撃がなかったチェズレイは驚いたように、両手で枕を掴んでモクマを見上げる。確実に枕投げの趣向からは外れているが、モクマが自分に許せる行為はここまでだ。

 お前の負けだよ、とチェズレイにモクマが優しく語りかけようとした時、背筋にぶわっと鳥肌が立った。

「甘いなモクマ!隙だらけだぞ!」

 いつの間にか背後に回ったフウガと味方だったはずのイズミが枕を片手にモクマに襲いかかる。振り返り両腕を頭上に交差しどうにかフウガの攻撃は耐えたが、間髪入れずにイズミの一撃が懐に入った。完全なる油断だった。モクマの体勢がぐらりと崩れたところで、再びフウガの攻撃がモクマの頭に入る。たたらを踏んだモクマが、うまい具合にばたりと布団に仰向けに倒れた。二対一とは卑怯なり。

「モクマ…ごめんね」

 謝罪の言葉を口にする割には楽し気なチェズレイが、止めとばかりにモクマの顔面に枕を叩き込んだ。ぐえ、と潰れた蛙のような声をあげたモクマをよそに、イズミはあのモクマを倒すなんてチェズレイは凄い!と褒めちぎっているし、さすがは私が見込んだ奴だとフウガは高笑いをしている。なんたる出来レース。モクマにはチームを分けたように見せかけて、最初からこれは三対一の戦いだったのだ。モクマの勝算は初めから無かったに等しい。

「これでチェズレイの父上と母上に良い報告が出来るわね」

 ハイタッチしながら子犬のようにじゃれるイズミとチェズレイ。受けたダメージから回復して起き上がったモクマに、フウガのすまなそうな視線が注ぐ。いいさ。小さな子供に花を持たすのもヒーローショーではよくあることだし。

 そして夜の枕投げの醍醐味と言ったら。

「こら!お前たち!夜中に何を騒いでおる!早く寝なさい!」

 大人に見つかって怒鳴られるまでがお約束。


 タンバにこっぴどく叱られたにも関わらず、フウガとイズミは部屋に戻る様子はない。乱れに乱れまくった布団を、ちゃっかり四人分並べなおしている。どうやらフウガとイズミも今日はモクマ達の部屋で夜を明かすらしい。モクマとフウガが両端になり、フウガの左隣にはチェズレイ、モクマの右隣にイズミが納まる形となる。部屋の明かりを消して、四人揃って布団に潜りこむ。すぐにモクマから一番離れたところから、フウガの寝息が響いた。あれだけパワフルに動いていれば疲れもするだろう。それにモクマも体を動かしたのが効いたのか、多少なりとも眠気がやってくる。

「……ね、モクマ。起きてる?」
「……はい、この通り。起きてますよイズミさま」

 瞼を閉じかけたところでイズミに名を呼ばれて、モクマはひそひそと返事をする。イズミがちらちらとチェズレイの顔を見やりすっかりと寝入ったことを確認し、首だけを動かしてモクマの方を見る。闇の中でも優しく微笑むイズミの表情を、モクマは何となく感じ取れた。

「明日のお祭りが無事に終わったら、私ちょっと行きたい場所があるの」
「その場所は危険な場所ではないですよね?」
「当たり前よ。でも夜に一人で歩くのは怖いから、出来ればモクマにも一緒についてきてほしいの」

 駄目かな、と心細そうにイズミが呟く。イズミの懇願にモクマが否と言えるはずもない。モクマに断られたイズミが一人で夜出歩くなど、想像しただけで身震いする。少しの間の後、良いですよとモクマが返事をすると、イズミがほっとしたように息をついた。

「それなら、約束ね。私とモクマの約束」

 モクマとのやりとりに満足したのか、おやすみなさいと告げてイズミが目を閉じる。おやすみなさいと声をかけ、寝返りを打つようにモクマはイズミに背を向けた。これはちょっとまずいなあとモクマは思った。喉奥に何かがつまるみたいに、呼吸しづらくなる。布団を頭までかぶって、はあ、と酸素を求めるようにモクマは息を吸った。





 ぱちりと暗闇の中で目が覚めた。なかなか寝付けずに布団の中でもぞもぞとしていた割りには、頭はすっきりとしている。周囲の様子をひそりと伺うと、隣からすうすうと寝息が聞こえた。今何時だ。音を立てぬよう上体を起こして、柱にかかる時計の方向に視線を映す。暗さのせいで文字盤は見えない。夜明けはまだ遠い雰囲気を察するに、牛の刻を少し過ぎた頃合いか。もう一度瞼を閉じてみたが、眠れそうな気配はない。厠にでも行ってくるか、とモクマが再び布団をめくると、イズミとフウガの布団の間にぽっかりと空洞があることに気がついた。





 秋の夜を寝間着姿でうろつくには少し肌寒い。幽霊のように長い廊下を徘徊していると、昼間と同じように縁側に座るチェズレイの姿が見えた。チェズレイもモクマの存在に気づいたらしい。一瞬だけ驚いたように目を見張って、そして口元を綻ばせる。許可を得ることもせず、モクマもチェズレイの隣に当然のように座った。

「夜のお散歩かい?」
「うん。今夜は凄く月が綺麗だから」

 夜の庭の空は都会で見るものよりとてつもなく広い。チェズレイの視線の先を辿れば、幾つかの星々と丸く膨らんだ月が見える。壁に添うように生えた草からは、小さく虫の音が鳴り響いていた。

 会話もせずに二人でただじっと夜空を眺める。吐く息が僅かに白い。ふいに振り返り、月明りに照らされたチェズレイの横顔を見る。瞬きもせずに顎を上げて空を見つめるその姿は、まるで映画のワンシーンみたいだ。

「あ」
「ん?」
「流れ星。モクマも見た?」
「……あー……。ごめんごめん、ちょっと余所見してた」

 モクマの返事にチェズレイがぷくりと頬を膨らませてみせる。いかにも子供らしい、可愛い仕草にモクマは苦笑いした。

「チェズレイのおやじさんやおふくろさんとも流れ星を見たことはあるのかい?」
「うん。何度も。ヴィンウェイはミカグラ島よりとても寒い国だけど、空気が澄んでいるから。冬でも晴れていたらとてもよく星が見える」
「流れ星に何かお願いは?」

 モクマが尋ねるとチェズレイは僅かに訝し気な表情になる。

「どうして流れ星にお願いごとをしなくちゃいけないの?」
「……どうしてって」

 チェズレイの素朴な疑問にモクマは返答に詰まる。風習やジンクスの中にはきちんとした由来が存在するものはあるが、反対に何の根拠も持たないものも多い。

「流れ星って、これから死んじゃう星なんでしょう。傷ついて消えていくお星さまに、自分勝手なお願いなんて出来ないよ」

 モクマは苦笑しながらそうだなと頷いた。

「チェズレイは優しい子だ」

 モクマがチェズレイの頭を撫でる。子供扱いは嫌がるかなと危ぶんだものの、チェズレイは何も言わずに大人しくモクマを受け入れている。

「確かにチェズレイの考えにも一理はあると思う。でも、俺の考えは少し違うな」
「どう違うの?」
「この場所に隕石が落ちてミカグラ島が出来たことは知っているだろう」

 チェズレイがこくりと首を縦に振る。撫で回していた手を止めて、モクマは夜空を仰いだ。

「隕石だって流れ星一つなんだよ。尽きそうになった命が元で、ミカグラ島が、この地に新しい世界が生まれたんだ。だからそうだね。今までとは違った何かが、新しい変化が生まれてきてほしいと、人はたまらず星に願いたくなるのかも知れない」

 ふうんとチェズレイは呟いた。

「そういえばこの星自体も、最初は隕石ぶつかって回り始めたのが誕生のきっかけだっけ」
「お前さんは本当に賢いねえ」
「それならこの星はモクマみたい」
「どういう意味だい?」
「今も惰性で回り続けてる」

 鋭いチェズレイの視線がモクマを射抜いた。かと思えばくしゅんとチェズレイが軽くくしゃみをする。風邪を引くからそろそろ部屋に戻ろうと促すと、チェズレイは大人しくすくりと立ち上がる。

「チェズレイ。俺とした約束のことを覚えてる?」

 不意に口をついて言葉が出た。チェズレイは首を傾けて何のこと?と聞き返す。覚えていないならそれで良いよとモクマは答えた。

 薄々は感じていたのだ。多分、ここにこうして存在しているチェズレイはモクマの知っているチェズレイではない。二人で天国に行けるとあの店主は言ったが、モクマの天国とチェズレイのそれは決して同じものではないのだろう。

 いくつかの星がモクマの視界に名残惜しく入り込む。一つ一つの星にもし見知らぬ世界があるのだとしたら、何処かに本当のチェズレイがいる世界があるのだろうか。




 彼の天国にモクマはいるだろうか。





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