きらりとした眩しさが目に痛かった。

 賑やかな街並みの中、モクマはふらりふらりと歩いている。頭上には青空が広がり、白く厚い雲がくっきりと浮かんでいた。歩道は行き交う人々でいっぱいで、その流れに合わせるようにモクマは足を動かし、ついでに鼻歌なんかも口ずさんでしまう。ひしめき合った出店には籠にこんもりと野菜が積み上げられて、太陽の光を存分に浴びてつやつやと輝いて随分と美味しそうだ。一人また一人と笑い声をあげた子供たちが、小さな体を機敏に使ってモクマの横をすり抜けていく。ふと、鼻腔を掠める香ばしい匂い。ああ、多分これはあれだ。この辺りでは見られない大きな肉を豪勢に野菜とにんにくで炒めた郷土料理。モクマもついこの間初めて口にしたが、美味かったんだよなあ。買って帰ろうかという案が脳裏をよぎったが、チェズレイから今日はさっぱりとしたものが食べたいというリクエストがあったことを思い出す。後ろ髪をひかれる思いだったが、大事な相棒のお願いだもの。無下には出来まい。

 それにしても、いい天気だ。流れを妨げないように気を払いながら、モクマは空を見上げる。青い画用紙の中央を真ん丸にくりぬいた様な部分から、白い光が並々と溢れる。軽快な音楽ととびかう人々の明るい声。垣間見える笑顔に、モクマはつい平和だなと声を漏らす。平和だ、とても。しみじみと感じ入っていると、突如モクマの耳に切り裂くような音が聞こえた。ひったくりだという悲鳴に、モクマはやれやれと息をついた。平和だとモクマが考えた矢先にこれだ。やっぱり自分は安寧とは程遠い場所にいるのだなとつくづく思い知らされる。どけ!という怒声に、モーゼが海を割る如く人の壁がさっと道を作る。けれどモクマは動かない。


 こんなに穏やかな昼下がり。お前さんみたいな輩は全くもって無粋だ。無粋すぎるだろう。


 モクマよりも一回り大きいがたいの良い男が、猪の如く突進してくる。邪魔だという大声を聞き流して、モクマはへらりと笑った。駆ける足と男の覇気には力が漲っている。だが、無駄だとモクマは思った。力の掛け方が全体的に無駄が多すぎる。男とモクマがぶつかる直前に、ひらりとモクマは体を躱した。衝突の恐れに一瞬動揺した男がちらりとモクマを一瞥した瞬間、逃さず男の腕をモクマは掴み取る。流れる力を促し、難なく男の体がくるりと反転した。地面に叩きつけられた男にすかさず馬乗りになり、こんな場所でおいたをしちゃ駄目だよおとモクマは男に声を掛けた。

 返事は無かった。それもそのはず、男は衝撃で意識を飛ばしていたらしかった。悪党のくせにこれしきのことで情けない。日頃正義のヒーローを演じている割には優しさの欠片もない自分の発想に、おじさんも大分毒されたなあ、と肩をすくめて呟く。

 湧き上がる拍手に照れ笑いを浮かべるモクマ。

 倒れた悪党の世界は止まったまま動かない。


ever after located in the star.

「というのが事の顛末で」

 モクマは箸で呑気に白身魚のみぞれ煮をつつきながら、ローテーブルを挟んでゆったりとしたソファに座るチェズレイにそう説明する。はァ、と珍しく納得したようなしないような、呆れに近いような溜息を落とすチェズレイの為に、モクマはとくりと酒を注ぐ。

「モクマさんの出先での詳細については分かりましたが、一体どうしてこういう状況に陥っているのやら。理解出来ませんねェ。今日の夕食はさっぱりとしたものが良いと申しあげたのは事実ですが、幾分量が多すぎます」
「いやぁ。実はさあ、そのひったくりにあった被害者ってのが、街外れにある居酒屋の店主だったらしくて。店に引きずりこまれた挙句にお礼にって酒と肴をたんまりといただいちゃった」

 小さな北国の空港近くの超高層ホテルのスイートルーム。ここが二人の今晩の寝床だった。基本的に高級志向を持つチェズレイであったが、こんな部屋に宿泊することは滅多にない。なんせモクマとチェズレイは世界征服を目指す大悪党であって、裏の社会ではその名を知らぬ者はいない。いつ命を狙われてもおかしくない二人だから、普段なるべく目立つ行動は避けている。にも関わらずここでこうしているのには、それこそのっぴきならない事情があるのだ。

 何気なく電源をいれたままの大型のテレビからは、レインコートを身に着けたリポーターが、雨風に打たれたまま必死に荒れ模様の天気を解説している。季節外れの大型の台風の発生により世界各国の交通網に影響。空と海、そして陸の便も全面マヒ。グローバルなニュース番組には、各所で数千人が足止め、というテロップが映し出されている。

 そしてこの数千人の中に、モクマとチェズレイの二人も含まれているのだ。

「ようやくこの地での目的を終えたというのに、タイミングが悪いですねェ」
「まぁ、仕方ないでしょ。いくらお前さんでもお天道様のご機嫌はとれまいし」

 憂い顔を見せるチェズレイが、それでもテーブルの上に並べられた料理には手をつけていたのでモクマは内心ほっとした。この国に訪れてから数か月、チェズレイの食が更に細くなったことをモクマは結構気にしていたのだ。味付けの濃いこの地方独特の食事は、チェズレイの口にはどうにも合わなかったらしい。モクマが外食を誘っても何だかんだと理由をつけて断るチェズレイに、結局モクマが食事の準備をほとんど受け持った。この地を制圧する目途がようやく立ち、チェズレイはここぞとばかりに早く次の場所へと参りましょうとモクマを急き立てた。がしかし、目論見外れて悪天候という思いもよらない障害が二人を襲ったのは、一昨日のことだ。

「こっちでは思いっきり晴れてるのにねえ」
「この国の天候がよくても、行先もそうとは限りませんから。あとしばらくは暴風雨が続くという予報でしたよ」

 二人と同じように足止めを食らった旅人がホテルに押し寄せて、結果スイートルーム以外は満室という状況に、まァ野宿するよりはマシですねェと渋々肯いたのはチェズレイだ。モクマの方は別にそれでも構わないのだが、大切な相棒をみすみす危険に晒すのは本意ではない。それにしても豪華な客室はいかにもチェズレイ好みだろうに、一体何故そんなに落胆しているのだろうといったモクマの疑問は、ルームサービスの食事メニューを見てすぐに解消された。これは駄目だ。いかにも味付けが濃そうなラインナップの中には、チェズレイが口に出来そうなものがほとんど無い。

 もちろんキッチンが併設されていない部屋で、モクマが料理の腕を振るうことは叶わない。結局チェズレイには部屋で今後の計画の見直しを立ててもらい、その間モクマがチェズレイでも食べられそうな料理を外から調達するという役割分担になった。助けてもらったお礼にと居酒屋で容赦なく料理を出された時にはどうしようかと思ったが、一口食べてこれならチェズレイも食べられるだろうと持ち帰りを提案したモクマの機転は素晴らしかった。なんだ、連れがいるのならもっと早く言ってくれよと店主に更に酒と料理を追加されたのには面食らったが、食を進めるうちにどんどんチェズレイの機嫌が良くなっていったのは不幸中の幸いだった。

「ご馳走様でした。モクマさん、先にお風呂をいただいても?」
「ああ、いいよ。いってらっしゃい」

 ひらひらと左手を振ってモクマはチェズレイの後ろ姿を見送る。ぐいのみに残った酒をぐびりと飲み干して、腹の膨れを擦りながら今夜はここまでにしておこうと立ち上がった。備え付けのこれまた高級そうな冷蔵庫に、残った酒瓶と料理をぐいぐいと押し込む。ううん、分かっちゃいたが案の定入らない。中から常温保存出来るものを取り除いて、もう一度挑戦してみる。今度は上手くいった。

 残ったものは貰った手提げ袋に詰めていく。と、羽織の懐に忍ばせていたとある存在をモクマは思い出した。差し込んだ手のひらに茶色がかった薬瓶のようなものが現れ、数刻前の記憶が連想的に呼び起こされる。一ヶ月分の売上金をひったくりに奪われて、間一髪正義のヒーローに救われたモクマと同年代の居酒屋の店主。モクマの帰りを待つチェズレイのためにとどんどん仕込まれる料理に、あんただけ特別にと手渡された小瓶。


「こいつはあれだ。二人で使えば、今晩は天国に行けちまうやつ」


 妙にやにさがった顔だった。指先でつまんで目前で眺めると、瓶の中の液体が揺れる。大きな亀に似た生物から採取されたエキスが、精力を増強するのだとかなんとか。

 モクマとチェズレイは深い絆で結ばれた相棒なのだけれど、実のところはそれ以上の関係だったりする。最初の一歩を踏み出したのはチェズレイの方で、薄々自身の気持ちにモクマが気づきかけていたところをあっという間に捕まえられた。お前さんのことは気に入っているけど、その、と言い淀むモクマの唇をチェズレイが軽く奪い、迷えば迷うほど逃げ道がなくなりますよと高らかに宣う。もう一度腕を回され口づけられて、ぷつりと理性が切れて後はなし崩しだった。

 とは言うものの、二人が体を重ねた回数はそれほどでもない。いくらなんでもこういうのはまだ早すぎるだろうとモクマは思う。なんせ未だにチェズレイを抱くとなると、妙な緊張感を伴うのだ。お互いそれなりに道ならぬ道を歩んできたくせに、変なところで二人とも幼さを隠せない。大人になってからねという言い訳もきかない年齢なので、大人しく諦めてモクマは閉じた冷蔵庫の扉を再び開いた。下手な場所に隠すよりかはこの場所の方がよっぽど安全だと、料理の隙間に押し入れた。今の時間にチェズレイが冷蔵庫を開けることは滅多にないし、開けたとしても何とでも誤魔化し通せるだろう。ぱっと見れば調味料だと錯覚しそうだし。

 一瞬シャワーを浴びているだろうチェズレイの姿なんかを想像し、体が無意識に反応しそうになってぱぱっと振り払った。だから駄目だって。今晩はそういう日じゃないの。いわゆる天国、に興味がないわけじゃないけれど、今夜だけは絶対駄目。………だってその、昨日もしたばかりだし。

 つまりモクマは恋人の体調を十分に気遣っての判断したのだが、そんなモクマの配慮を台無しにしてくれるのがチェズレイ・ニコルズという男である。入れ替わるようにバスルームに入ったモクマが、濡れた頭をがしがしとバスタオルで搔きまわしていると、ツインのベッドの片方にゆったりと座って寛いでいるチェズレイの姿が目に入った。

 何かを企んでいるようなとびっきりの良い笑顔だった。狼狽えてモクマが視線をチェズレイの手元に落とすと、見覚えのある物体が握りしめられている。

「お待ちしておりましたよ、モクマさん」
「……お前さん……一体なんでまたそんなものを見つけちゃったの」
「フフ……モクマさんが私に隠し事をするなんて、百年早いですよ」

 項垂れて溜息をつくモクマに、してやったとばかりにチェズレイは楽し気に笑って見せた。どうしてその存在に気づいたのかとかその上で何故モクマを意気揚々と待っていたのかとか。気になることは多々あったが、どうせモクマが問い詰めてもきっとチェズレイは答えまい。

「中身が少々気になりまして、先に香りを確かめさせていただいたのですが」
「お前ね、それが毒劇物だったらどうするつもりだったの?」
「あなたがそんな危険なものをあんな場所に隠すとは思えませんが」

 痛い指摘だ。モクマが言葉に詰まっていると、チェズレイがおもむろに小瓶の蓋を開けた。モクマが止める間もなく、チェズレイが液体を一口飲み込む。チェズレイの白い喉が艶めかしく波打つのをモクマは黙って見届けるしかなかった。

「残り半分。あなたが嫌だとおっしゃれば、私は一人でこれを飲み干して寂しくあなたの隣で自身を慰めるしかないのですが……どうなさいます?」
「どうなさいますも何も」

 実質選択の余地がないではないかと、モクマはチェズレイに近づいて瓶を取り上げた。一気にぐいっと飲み干すと、あァ……潔くて実に良いですねェ……とぱかりと口を開けて長い舌をチェズレイは惜しげもなくモクマの前に曝け出す。すかさずチェズレイの髪の中に指を滑り込ませ、強引に引き寄せて絡めとった。


 効果は想像以上だった。


 まず何と言ってもチェズレイの反応が良い。モクマが指先で触れる度に、ぴくりと肌が小刻みに揺れる。何処を触ってもそんな反応を見せるチェズレイの姿に、モクマの欲望も併せて固く膨らんでいた。左手で尖り始めた粒に戯れるように摘まんでは引っ張り、一方ではモクマの舌で輪郭をなぞる様に舌をぐるりと這わせてむしゃぶりつく。ふ、と息をこぼすチェズレイの頬も肌も、上気して薄紅に染まる。腹にあたる感触でチェズレイ自身が興奮しているのも丸わかりだった。

 胸を弄んでいた手を落として、昂りを主張するチェズレイにそっと触れる。先端から零れ出る蜜を塗りこめて、モクマのものと一緒に上下に揺すった。

「……あっ…モクマさっ……も、イッ……!!」
「………チェズレイ…そんなに気持ちいい?」
「い、いいっ…!!きもち、い……」

 やはりいつもより感度が良い。それは一緒に飲んだモクマも同じで、無理やり欲望を叩き起こされたように数秒も経たずに高みに昇りつめてしまう。ぬとりと飛び散った体液の感触。息が乱れたままに、互いの舌のやわらかさを味わう。しなる背筋のラインをモクマが軽く撫でると、くすりと濡れた唇でチェズレイが笑い、更に体をくねらせる。思わぬ視覚の暴力に、じり、とモクマの体が燃えていく。

 甘くねだるチェズレイの誘惑に抗えず、大きく割り開いた足の中心にモクマは亀頭を押し当てて、ぐ、と重心をかけた。狭い道の中を突き進むモクマを、眉根を寄せながらぎゅっと目を瞑ってチェズレイは受け入れる。窮屈で苦しくて、それでいてねっとりと絡みついて熱い。昨晩も散々荒らしまくった内部は、モクマの形をすっかり覚えていてすぐに馴染む。モクマが動き始めると、ひくりとチェズレイの足が動いた。

 チェズレイは浅いところを僅かな間隔で小刻みに擦られるのが好きだ。

「……う…んっ…あっ…」

 求めるように伸ばされた両腕をモクマの背中に回すように促す。近くなった距離を更に詰めるように、モクマはチェズレイの首筋に吸いついた。これが昨日の分でこれが今日の分。異なる色合いを残す朱の跡に満足し、モクマは激しく腰を打ち付けた。チェズレイががくがくと仰け反る。収縮する中の動きに、モクマは負けじと歯を食いしばる。

 チェズレイは浅いところを優しく攻められるのが好きだ。けれど、深く奥を抉るように突かれるのはもっと好きだ。

 そしてモクマは、チェズレイが自我を手離してとろとろに蕩けきる瞬間が一番好きだ。チェズレイの瞳はモクマだけを映して、ひっきりなしに声をあげて、心も体もモクマだけでいっぱいになって、体の境界なんかなくなるみたいに曖昧になって一つになって。

 互いの名前を子供のように呼び合って、一瞬のうちに果てる。

 目の奥にちかちかと閃光が走った。眩むような眩しさの中、唇に笑みを湛えるチェズレイの顔が見える。モクマはそれを、心底愛しいと思う。

 年甲斐もなくモクマは若い欲望に応えるべく頑張った。妙薬の効果もようやく薄れ、モクマがふうと一息をついていると、チェズレイがモクマの頬をそっと撫でる。

「モクマさん……もう一回お願い出来ます?」
「あー……、悪いけどおじさん、お前さんと違ってそろそろ体力の限界でね」
「おや、そんなのはやってみなければ分からないではありませんか」
「チェズレイ。あんまり無茶は言わんでくれ」

 きっぱりと拒絶の姿勢を見せると、チェズレイの顔がみるみるうちに険しくなった。むす、と頬を軽くふくらませて、表情を隠すように寝返りをうちモクマに背を向ける。

「もしお前さんにその気があったなら、また明日にしよう」
「………カーテンが少し開いてます。ゆっくり眠りたいので、きちんと閉めていただけますか」

 やや棘のある言葉に、モクマはやれやれと頭を掻く。乱れたベッドからよいせとモクマは抜け出して、部屋の端に移動する。全面ガラス張りの窓からは、溢れるほどの街の光が見渡せた。反して、いつの間にか夜空は厚い雲で覆われていた。やはり不安定な天候なのだろう。黒で塗りこめられた空には、月どころか星一つ見えない。

 部屋の照明をついでに落としてからベッドに戻ると、チェズレイの体が中心を占拠している。何とも分かりやすい意思表示で、モクマにもう一つのベッドを使えというやつあたりに近いものだろう。チェズレイの誘いを断ったモクマだったが、睦みあった後に一人ベッドで寂しく眠ろうなどとは到底むなしすぎて出来るわけもない。残された狭い空間に何とか潜りこみ、ぴとりと背中を併せた。情事の残香としっとりと汗ばんだ肌。明日、明日の朝には。チェズレイの機嫌が少しでも良くなっていると良い。この狭さではモクマがベッドから転がりおちて目覚める可能性の方が高いだろう。ふと、息をついてモクマは瞼を閉じた。とくとくと緩やかなリズムのチェズレイの心音が背中越しに伝わってくる。







 次の瞬間、鈍い衝撃を体に感じると共にモクマの視界が一気に開けた。

 何が起こったのか。モクマには一瞬理解が追いつかなかった。

 モクマの記憶が正しければ、確か自分はホテルの一室にいてチェズレイと共に眠りについたはずだ。けれど今のモクマの目前には真っ青な空が大きく広がり、太い樹木の先端に鈴なりに並ぶ葉が風に揺れながら、濃い影を落としている。肌触りの良い清潔なシーツの代わりに柔らかな草がモクマの体を優しく受け止めていた。眩しい日差しと纏わりつく土の匂い。幻とは到底思えないほどその感覚はリアルで、モクマはますます自体が飲み込めなかった。

「モクマ!モクマ!大丈夫?怪我はない?」

 モクマの耳に聞きなれない高い声が響く。唐紅の着物を身につけた長い髪の少女が、眉を潜めてモクマの顔を覗き込んでいる。モクマは息を呑んでそのまま言葉を失った。心配そうにモクマを見つめる黒目がちの瞳に見覚えがあった。

「誰か保健室の先生を呼んできて!」

 ずきりと頭が痛む。思わず顔を顰めると、そのまま動かないでと少女に軽く咎められた。頭の奥の鈍い痛みに耐えきれなくなって目を閉じれば、モクマの中に濁流のように映像が流れこんでくる。この辺りでは見かけない突然現れた小さな白い猫。子猫には似つかない速さで草むらの中を走る姿を追う興味津々の少女達。追跡から逃れるように木の幹に爪を立ててすばやく猫は駆け上がる。そして案の定降りれなくなり、か細い声で鳴く子猫を仕方なしに助けようとしたモクマ。不安そうに見上げる少女。白い毛並みに触れたと途端、抗うようにモクマの掌を引っ搔いて逃げ出した白猫。後先考えずに手を伸ばし、バランスを崩してぐらりと傾いた体。甲高い悲鳴と、空白の間の後に訪れた衝撃。

 モクマの知らない出来事なのに、それがモクマの記憶であることがはっきりと分かる。

 木から落ちる?元忍者の、この俺が?

 意識が霞む。これはもしかして夢なのか。モクマはそう思い込もうとしたが、ずきずきとした痛みだけが頭に響いて結局そこからの記憶は途切れた。


***


 ふっと瞼の裏が明るくなる。細く目を開いた先には、荒い木目の見慣れない天井。泡沫のようにモクマの意識が次第に浮上すると、モクマの周囲を四角に区切った白いカーテンが見える。白い布越しに何か物書きしているような人の気配と、つんと独特な薬品の匂いがモクマの鼻についた。むくりとモクマが起き上がる。パイプベッドの上に寝かされていたのだとようやく理解したと同時に、カーテンが遠慮もなしに開かれた。

「モクマくん。良かった。目が覚めた?」
「……先生」

 相手を認識するよりも先に呟きが声に出て、モクマは純粋に驚く。得体の知れない存在に身構えたのは一瞬で、警戒心が即座に消え失せる。そうだ、何を恐れる必要がある。ここはモクマの通っている学校の中で、この白衣を身に纏う眼鏡の女性は保健室の先生で、ここはそんな保健室の一角ではないか。

 そう納得出来るのに、納得したいのに、モクマの中には強烈な違和感がぐるぐると渦巻いて拭えない。何もおかしくないのに、何かがおかしい。目に見える客観的事実とモクマの中の主観的事実がうまく嚙み合わない。

「モクマくん。子猫を助けようとしたモクマくんが優しいことは分かるけれど、あまり無理なことはしてはいけないわ。何か困ったことがあったら、必ず先生や大人のひとに必ず相談してね」

 モクマが言葉に反応するよりも早く、保健室の扉からノック音が聞こえた。ああ、もう来てくださったみたいね、とカーテンが更に大きく開かれて、保健室の全体が良く見える。どうぞ、と先生が扉に向かいながら声を投げる。一つ結びにされた長い髪が白い背中に揺れていた。

「どうも。連絡をいただきましてモクマを迎えに来たタンバと申します。この度はモクマがご迷惑をおかけしまして、大変申し訳ありません」

 開かれた扉の奥から現れた人影に、喉の奥が引くついて声にならない。もはや見覚えがあるなどというレベルではない。見間違えるはずがない。間違えようもない。あの背姿、あの声。モクマの姿を優しく眇める眼差し。

 紛れもなく、タンバだった。

「木から落ちた時に咄嗟に受け身をとったのだと思います。軽い脳震盪を起こして、擦り傷も少々ありますが。意識もはっきりとしていますし、特に問題はないでしょう」

 ベッドで上体を起こしたまま呆然とするモクマを二人が見やる。

「ちょっとショックが大きかったかもしれませんね。モクマくん、自分で歩けそう?」

 問われているのが自分だと気づいて、モクマはこくこくと頷いた。何かに急かされるようにベッドから飛び降りる。そして見えた、部屋の隅にある大きな姿見。

 異様な光景だった。薄々と感じていたいつもより低すぎる視界。困りごとがあったならまずは周囲の大人を呼びなさいと、まるで子供相手のようにモクマに諭す先生。小さな足と小さな掌。鏡の中では年の割りに老け込みまくった白髪だらけの大人ではなく、真っ黒な髪のたれ目がちのあどけない少年が頼りない表情でこちらを見つめ返している。

「お父さん」

 タンバの大きな体の陰から、少女がぴょこりと顔を出した。あ、と思わず声が出そうになる。木から落ちたモクマを心配そうに覗き込んでいたあの少女だ。

「イズミ。お前は先に帰りなさいと言ったはずだろう」

「だって、モクマのことが心配で。私もお父さんとモクマと一緒に帰る」

「だが」

「あの子なら心配ないわ。一人でも大丈夫だからって、ここお父さんが来るまで待ってていいって私に言ってくれたもの」


………イズミ。


 うわごとのようにモクマはその名前を心の中で繰り返す。やはりそうだった。納得すると同時に、モクマの体から静かに血の気が引いていく。くらりと眩暈を起こしそうだ。

「やっぱりちょっと顔色が悪いかしら。幸い今日は金曜日で明日明後日はお休みですし、念の為しばらく様子を見て、あまり無理だけはさせないようにしてください」

 固まって動けないモクマにイズミが駆け寄る。モクマの手を取り、それなら早く帰りましょうと促すイズミから漂う懐かしい香りに、胸を掴まれたような気持ちになる。駆け足で今にも部屋を出ていきそうな二人の行動を、待て待てと慌てて制止したのはタンバだ。

「元気そうに見えてもモクマは一応怪我人だ。大事がないとは言えない。モクマをおぶって帰るから、イズミはモクマの鞄を教室から持ってきてあげなさい」

「………はあい」

 タンバの提案に渋々と納得したイズミは、掴んでいたモクマの手をぱっと離す。先に昇降口で待っているからと言いながら、名残惜しそうに保健室からぱたぱたと出ていく。イズミが廊下から姿を消すと、タンバがおもむろにモクマの前でしゃがみこんだ。

「ほら、モクマ。早く掴まりなさい」
「………でも」
「何を遠慮する必要がある?家族なのに」

 戸惑うモクマに、おんぶが嫌なら抱っこでもしてやろうかと言ってタンバが笑う。豪快な笑顔にモクマは唇を噛みしめて、おんぶで良いですと小声で答えた。

 久しぶりに見た恩師の背中は、昔と変わらずに大きかった。





 揺れる背に追われてうとうととしかけ、動きが止まった感覚にモクマはぱちりと目を開いた。隣で並びながら歩いていたイズミの、着いたよという声に促されるように、ここで降ろしてくださいとモクマはタンバに頼み込む。割とあっさりタンバの腕が緩んで、モクマはするりとそこから抜け出した。

 緩やかな勾配の坂道を少し上ったところに、赤い瓦屋根の屋敷が大きな門に囲まれていた。

 開いた正門からは点々と大きな石畳が玄関口まで連なる。左方に切り開かれた庭には大きな池があり、聳え立つ紅葉樹の葉が鈍色の水面にぎっしりと張り付いている。庭をいつでも望める縁側に、大きな柱が続いて平屋建ての広い屋敷を支えている。モクマの記憶とは少し異なる屋敷の佇まいだが、どこか既視感があった。

 庭の木々から感じる穏やかさも、モクマの頬をすり抜ける仄かな秋の風の匂いも。何もかもが昔のままで、幼少期に過ごしたあの時のように、タンバとイズミがモクマに笑いかけている。

 ずくりとまた目の奥が痛んだ。片手で頭を抑えると、モクマに寄り添っていたイズミが気にかけるようにモクマを見上げる。

「モクマ、大丈夫?やっぱりお父さんに病院に連れていってもらった方が」
「いいえ、大丈夫です。ちょっと立ち眩みをおこしただけで」
「先にモクマの部屋に布団の準備をしておこう。イズミ、モクマの様子が落ち着いたら部屋に連れてくるように」

 タンバの姿が引き戸を開いて屋敷の中に消えていく。後ろ姿が見えなくなっていくにつれ、妙な焦燥感が胸に湧き上がって止まらない。つきり、とまた頭痛がこみ上げる。

 耳の上で頭を抑えていたモクマの手に、温かい何かが触れた。イズミの手だ。

「痛いの痛いの、飛んでいけ」
「………イズミさま」
「モクマ。またイズミさまって言ったわね。さまはつけないでって、あれほどお願いしたのに」
「……申し訳ありません」
「敬語も止めてって伝えたはずなんだけどなあ。まあ、いいわ。私も家ではつい癖で、お父さんのことを父上って呼んじゃってるし」


 そう言って屈託なく笑うイズミに、モクマの表情もつい緩む。


「痛いの、飛んでった?」

 イズミの意図にモクマがはっとすると同時に、背後からけらけらと笑い声が聞こえた。

「もう中学生だというのに、おぬしらは本当に可愛いことをする」
「……兄上!」

 モクマとイズミが振り返ると、着物姿のフウガが屋敷の門の前で立っている。モクマとさほど年齢の変わらぬ姿で、あどけない笑みを浮かべるフウガ。タンバとイズミの二人が現れた時点でおおよそ予想はついていたことだとモクマは思う。だが実際に目の前にすると、やはりその衝撃は大きい。

「お帰りなさい、兄上。今日はお迎えに行けなくてごめんなさい」
「いや、父上から事情は聞いていたからな。無理もない。それで、モクマの体は大丈夫なのか?」
「まだ少し痛みがあるようだけど、大きな問題は無いだろうって父上が」

 こちらに視線を向けたフウガとぱちりと目が合う。あたかも自然に、笑顔を向けたままフウガはモクマに近づく。モクマより少し身長の高いフウガが、モクマの頭をいたわるように掌で撫でた。

「また背が伸びたようだな。顔もちょっと大人びてきたか。ああ、でも子猫を助ける為に木に登るなど、その優しいところも無茶をするところも変わっていなくて安心した。久しぶりに会えて嬉しいぞ、モクマ」
「……フウガ」

 くしゃりとモクマの髪を掻きましたフウガの指先が、名残惜しそうに離れていく。

「モクマったら。兄上のことは呼び捨てにするのに、未だに私のことはさま付けで呼ぶのよ」
「モクマにとってイズミはずっとお姫様だからな。モクマの気持ちは分からなくもない」
「兄上は私とモクマのどちらの味方なの?あの子ですら兄上も私も呼び捨てなのに」
「まあ……、あやつは私に似ているからな」
「………そう言えば、あの子は?兄上を迎えに行ったはずなんだけど。もしかして会わなかった?」
「いいや。つい先刻までは一緒にいたが、今は近所のご婦人に道端で囲まれている最中だ」
「兄上。あの子を置いて逃げてきたわね」
「人聞きが悪い。あやつを可愛がりたいというご婦人方の希望に応えて、泣く泣く身を引いたというだけなのに」
「それを逃げたというのよ」
「まあ、あやつならうまく抜け出せるから大丈夫だろう。何といっても、この私ですら舌を巻くほどに口が上手いからな。………ほら、噂をすればなんとやらだ」

 唐突にモクマの頭の中に、怪しげな小瓶を押し付けた店主の顔が浮かびあがる。

「チェズレイ!お帰りなさい。兄上のお迎えありがとう」

 それなのに兄上がごめんね、とイズミが声を投げた方向に、モクマの視線も誘われるように動く。

 肩にかかるまでの長さの金色になびく髪。白い肌に、遠目でみても分かる紫水晶のような透明な瞳。きっちりと上のボタンまで閉められた白いブラウスに、膝上までの黒のパンツを履いた少年が、少し疲れた表情で門の前で立ちすくみながらこちらに目をくれる。

 心当たりのあるその顔には、独特の装飾も傷跡の一つも見当たらない。

 モクマはごくりと唾を飲み込んだ。寒くもないのに冷汗が止まらない。こんなのはありえない。ありえるはずがない。何もかもありえないはずなのに、異様な世界が抗えない現実としてモクマに容赦なく襲いかかる。


『こいつはあれだ。二人で使えば、今晩は天国に行けちまうやつ』


 あの時の店主の声が、モクマの脳にこだまする。そうか、とモクマは誰にも聞き取れない声で呟き肯いた。


 そうか。ここがモクマの「天国」か。



EVER AFTERシリーズの第三編目。二人の世界が広がるお話。

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