5.


  昨晩は随分と冷え込んだらしい。昨日の日中は陽が差して大分穏やかな天候だったと思う。その証拠に一度は解けたはずの雪が再び凍って、帰りに使う道がスケートリンクのようになっていた。そろりと警戒するように一歩ずつチェズレイが足を進める。横に並んで歩くモクマの視線がやや気になったが、無視を決め込んだ。正直それどころではなかった。  案の定足を捕られたチェズレイの身体は、ものの見事に雪面に衝突した。小さく呻きながら座り込むチェズレイに、だから言わんこっちゃないとモクマが渋面を作る。それを見てチェズレイは、一体誰のせいだと心の内で文句を言った。普段のチェズレイならば、こんなところで転倒するなどという馬鹿げた失敗などしない。全部モクマのせいじゃないか、とチェズレイのイライラは積もる。モクマが、昨日一日中チェズレイを離してくれなかったから。件の天候についてだって、らしい、とか思う、とか、曖昧な表現になってしまったのは、それを直接チェズレイが確認していないからだ。つまりチェズレイとモクマは昨日一歩も別荘から出ずに、二人で不健全な行為に励んでいたわけである。  無体を強いられてチェズレイの身体はぼろぼろだった。足腰はちょっと動かすだけで激痛が走るし、なんならあらぬところに関する違和感が強い。痛みだけなら隠し通せる自信はあるが、両足から力が抜けてがくがくと震えることだけはどうしようもなかった。チェズレイの視線に合わせてしゃがんだモクマが、チェズレイの目の前に手を差し伸べてくる。ぱしりとチェズレイは叩き落とした。その手を取ったものなら、どんな手段を使ってチェズレイを運んでいくか分からないからだ。チェズレイにだってそれなりの矜持がある。

「私の体を傷物にした感想はどうですか?」
「………素敵だったよ。傷があるから余計に。ずっと見ていたいくらいだった」

 困らせる意図で尋ねた質問に対するモクマの回答は、どこか聞き覚えのあるものだった。同じ口説き文句を同じ相手に二度も使うなんて論外で、普通ならば通用しないものだとチェズレイは思う。但し、チェズレイ以外には、という困った補足がつくのが難点だ。顔に朱を浮かべて言葉に詰まるチェズレイを、モクマは表情を緩めながら覗き込む。いつもとは逆にモクマの掌の上でころころと転がされているようで、チェズレイとしては大変面白くない。

「最初からそのつもりだったんですね」

 咎めるチェズレイの言葉に、モクマは困ったように笑って答えない。けれど答えないことが答えだと、チェズレイは知っている。チェズレイがどういう目的を持ってモクマと一緒に故郷に訪れたのか。チェズレイの目論見をモクマは分かっていながら、自分自身の計画に取り込んだのだ。ずっと我慢していた、というモクマの発言を鑑みるに。

「だってさあ。お前さんとの折角の初めてを、誰かの代わりだとか償いとか。そんなものにされちゃあたまんないよ」

 そんなのは俺が無理だ、と明け透けにモクマは言った。なるほどモクマの主張である無理という言葉は、そういう意味だったのだ。自分勝手な言い分に腹を立てそうになったが、ふと考える。実際この国に来ないまま、モクマと体を繋げていたのならどうなっていたのだろう。おそらく、チェズレイ自身も後悔したのではないだろうかと簡単に予測出来た。純粋な好意からではなく、後ろめたい気持ちを抱えて。きっとそうして、肌を重ねる度に痛む心に目を逸らして。ああ、それは無理だなとチェズレイは思った。そんな悲しい繋がり方はチェズレイにとっても無理だし、耐えられそうにもない。

「お前さんはこういう昔話を知ってる?罠にかかった鶴を助けた村人の男の所に、鶴が人間の女に化けて恩返しにくるやつ」
「耳にしたことはありますが」

 一切脈絡のないモクマの言葉に、何の話だとチェズレイは不思議そうな顔をする。

「本当の姿を見られたくないっていう気持ちはよく分かるよ。俺もそうだった。隠したい事実を暴かない優しさだってあるけれど。でも俺はやっぱり知りたいと思う。好きだから。見なければ気づけない何かもあるだろうし」

 それに、とモクマは言葉を続けた。

「恩返しってだけで、生涯を共にする約束なんて出来るものじゃないよ。ずっと一緒にいることも、いたいと思うのも。例え本当の姿を知ったところで、お前さんに対する気持ちも変わらない。絶対に」

 何故断定出来るのだ、と問い返したかったが、出来なかった。零れそうになる涙を堪えるので精いっぱいだった。冷たい空気を吸って、吐いて。チェズレイは心の調子を必死に取り戻す。

「今回のモクマさんの行動は、恩返しと言うよりは仕返しに近いですね」
「お前さんの荒療治よりかは優しいものだよ」
「そういうところが下衆なんですよ」
「なんとでも」

 今度こそモクマの手を取って、チェズレイはよろよろと立ち上がった。当然のように抱きかかえようとしたモクマの行動を軽く制止して、チェズレイは言った。

「帰りに少し寄りたい場所があります」

 ふうん、と言いながらモクマはにやにやと笑った。チェズレイが何を告げようとしているのか、全て知っているかのような表情だった。

「是非とも、私達の仲間にしたい人物がいるので」

 それでもチェズレイがわざわざ言葉にしたのは、決意表明みたいなものだ。ここに来る道中で出会った、裏切りの記憶と共にあった男を、もう一度チェズレイのファミリーに加える。今朝には既に決めていたことだった。

 ファントムの変装を見抜けなかった部下に対するわだかまりはある。けれどチェズレイ自身にも原因はあったのだ。自分自身を他人に晒すことを恐れて隠して。だからあの時、本当のチェズレイではないなどと当然誰一人気づける者はいなかったのだ。今はモクマが隣にいるので話は別だが。知らないものは、どうしたって気づけない。だからチェズレイは自分のことをもっと周囲に伝えなくては、と考えを改めたのだ。

「私の姿と、好んでいた紅茶と菓子を覚えていたことは評価に値しますので。すぐに用意し私達を追って、あなたに渡した機転と行動力も」
「やっぱり気づいてたか」
「当たり前でしょう」

 目覚めにコーヒーではなく紅茶というチョイスからして既におかしかったのだ。チェズレイはそこまで鈍感でもない。自分以外からの好意を受け取ったチェズレイに、あんな菓子の差し出し方をしたモクマの嫉妬にも。とうの昔に気づいていた。

「間接的に誰かを介さなければ素直に与えられないし受け取れない。アーロンとお前さんが少し似ているって言ったのは、そういう意味だったのも知ってた?」

 チェズレイがアーロンに対して、本人ではなく敢えて彼のアジトに支援物資を届けていることをモクマは指摘しているのだろう。渡したいのなら、本人に直接送ればいいのに、と。

「そういうことは気づかなくていいし、気づいていてもそっとしておくのが優しさですよ」
「かもねえ」

 再び二人は、雪原の中の細い道を歩き出した。

「誰かを許すことが出来るのも、生きている人間の特権ですから」

 恨んでいますか?とチェズレイは率直にモクマに聞いた。後追いを決して許さないと言い遺したモクマの主を。どうだろうねえ、と答えてモクマは目を細めた。

「でももし俺が逆の立場だったら、多分同じことを言ってただろうな」

 空を仰ぎ見るモクマと一緒に顔を上に傾けた。冷たい風が二人の間を突き抜けていく。物寂しい感情が押し寄せて、流れ乱れた髪をチェズレイは静かにかきあげる。

 許したくて、許されたくてたまらない。やるせない気持ちを互いに抱えながら、これからも二人は生きていくのだろう。けれど不思議と、それが辛いとは思わなかった。

「機会があれば、また来ましょう。今度はあたたかくなってから」

 経緯はともかく、チェズレイの目的は一応果たせた。モクマと一線を越えるどころか何だかとんでもないものまで乗り越えてしまったような気もするが、それも当然だったのだろう。一人では成しえなかったことも、二人でなら。頷くモクマに、チェズレイは微笑んだ。

 唐突に思いついて、いつもより格段に歩くペースの遅いモクマの腕を掴んだ。歩みを止めたモクマにチェズレイは身を屈めて、唇をそっと重ねる。瞠目するモクマに、チェズレイは仕返しですよと言い放った。

「同じ思いをさせてやるって言ったでしょう?私に無体を働いたことについてはかなり業腹ですが。まあ、それ以上に、幸せでしたので」

 モクマは笑った。つられてチェズレイも。二人を包む冬の空気は、相変わらず穏やかだった。



 冷たい雪の中には、醜いもの、隠したいものが数多く眠っている。誰しもが少なからず影を抱える中、ひっそりと新しい息吹も潜んでいるのだろう。本当の自分と、新しい自分が折り重なって、あたたかな光に芽吹くのを今か今かと期待して。

 そう信じて、チェズレイは春を待つ。この先ずっと。モクマと一緒に。


 きっと、雪解けはもうすぐだ。



まさかドラマCDで本当にヴィンウェイに行くとは思わなかったんですよね……。

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