3.


 飲み過ぎた、と気づいたのは随分遅く、チェズレイはうとうととしかけていたらしい。はっと気づいた頃には、時計の針が十二時を回っていた。テーブルの上には食べかけの料理と酒がそのままになっている。おもむろに上体を起こすと、ブランケットがかけられていた。視線を流せばモクマもソファーに横たわりぐっすりと寝込んでいる。チェズレイにだけブランケットを用意して、自分はそのままなのはあまりにもモクマらしかった。ずり、とソファーから転がるように落ちて、這いずるような形でモクマに近づく。持っていたブランケットをモクマにかけてやると、心なしかモクマの表情が穏やかになった。

 じいっと部屋に灯され光に映えたモクマの顔を見つめる。胸の奥底から、激しい何かが燃え広がっていくのが分かった。

 欲しい。どうしても、この男が、欲しい。

 もてあました感情をどう抑えていいか分からず、チェズレイは衝動に促されるようにモクマの顔に自分のそれを寄せた。触りたい、触れたい。そろりとモクマの頬に手を伸ばす。モクマの息遣いが震えとなってチェズレイに届く。途端、たまらない気持ちになって、ゆるゆるとモクマの唇に自分のそれを寄せていく。


 今にも触れそうな、寸前だった。

「チェズレイ。駄目だ。止めてくれ」


 ぴしゃりと撥ね付ける声音だった。


 チェズレイは驚愕に目を見開き、そこでいつの間にか起きていたらしいモクマと視線がかち合う。びくりと体を引き剥がして、は、とチェズレイは息を吐く。そんなつもりではなかったという言い訳じみた台詞は、喉につまってうまく声に出せない。

「ごめん、チェズレイ。やっぱり、俺には無理だ」

 明確な拒絶だった。チェズレイは全身に冷や水をかけられたような気持ちになって、息が止まった。寒くもないのに、体がかたかたと震え始める。

「…………だったら、こんな場所に来たいだなんて、言わなければ良かったのに」

 責めるような口調でチェズレイは言う。立ち上がって威嚇するチェズレイをモクマのただ見つめたまま、何も言わない。何も言ってくれない。軽く絶望してチェズレイはモクマに背を向けた。

「それとも、これもあなたの言う恩返しの一貫ですか?」

 返答を待たないまま、チェズレイは部屋を飛び出した。そのまま自分の荷物が置いてある部屋に引きこもり、鍵をかける。ドアに背を預けた途端、力が抜けていく。かくりと、膝が床についた。


 こんなはずでは無かった。


 チェズレイは唇を噛み締めた。


 決してこんなふうに、傷つけあいたかったわけじゃないのに。


 瞼が熱くなる。こぼれ落ちそうになる涙をどうにか堪えてチェズレイは膝を抱えて丸くなって、顔を埋めた。どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。チェズレイには分からなかった。モクマと共にこの地に訪れるのをあんなに心待ちにしていたのに。あの瞬間までは、本当に楽しい時間を過ごしていたのに。チェズレイには、何一つ分からなかった。

 分かるのは、どんなにモクマと一緒にいたくとも、チェズレイは結局最後まで一人きりだということ。

 冷えた心が、粉々に砕けていった。寒くて、痛くて、跡形もなく壊れてしまった。


***


 冷たくて動かなくなった亡骸を、チェズレイは茫然と見つめていた。驚愕に満ちた嘆きも、助けを求める声も、すがる手も、今はもう過去のこと。嵐が過ぎ去った後のように、鋭い爪痕を残して、辺りは静かだった。静かすぎるくらいだった。

 冷め切った表情で自分の父親だった男がその命が尽き果てていくのを、眺めていた。じっと待っていた。

 チェズレイはほっとしていた。これで世界からチェズレイを苦しめるものがなくなったと、心底安堵していた。自ら命を絶った母を懸命に繋ぎ止めておくことも、母の為に父に愛想笑いすることも、これからもうやらなくていい。チェズレイは、なあんだと呟いた。誰もいない空間で、誰にも聞き取れないような小さな声で、チェズレイは息を洩らす。


 こんなに簡単に出来るなら。


 もっと早く殺せば良かった。


***


 まどろみの中で次第に意識が覚醒していき、チェズレイはそこで初めて自分が疲れ果て、眠ってしまっていたのだと気づいた。辛うじてベッドまで辿り着いたものの、そこで力尽きてしまったらしい。こめかみのあたりがずきずきと痛む。アルコールを摂取したといえどもチェズレイにとっては許容量の範囲内だったはずだ。頭痛の原 因は勿論他にあって、深く考えれば尚更痛みは増していく。

 モクマと二人きりになりたかった。それなのに今は。モクマと二人だけでいることが辛い。

 いずれにせよチェズレイに逃げ道はない。遅かれ早かれ、モクマとは必ず顔を合わせなければならない。チェズレイは無言のまま、おもむろに部屋のドアを開けた。別荘の中はしん、と静まり返っている。

 モクマにあてがった部屋にそっと聞き耳を立てた。思い切ってノックをする。中から返事はなかった。ノブに手をかけると、鍵もかかってはいない。そろりとドアを開けて部屋の中を覗き込む。人の気配が全くないその空間は、使われた形跡もなかった。モクマはあのままソファーで眠りこんでしまったのだろうか。

 チェズレイの予想に反してモクマの姿はなかった。昨夜の最後の記憶通りに、食べ残した料理と酒が散らかったままだ。モクマは何処にいったのだろうか。別荘と言えども、部屋には限りがある。視線と気配を併せ持って、チェズレイはモクマを探した。


 けれど本当に何処にも、何処にもモクマはいなかった。


 チェズレイは急に心細い気持ちになる。世界が一気に暗くなったように感じたのはその時だ。ざわざわと胸が騒ぐ。もしかして、と声に出すより早く、チェズレイは玄関へと向かった。扉を開ければ、外からの冷気が瞬時のうちにチェズレイを包んだ。

 消えた二人分の足跡。残された一人分のそれ。

 チェズレイは積もった雪の中、衝動的に駆け出した。昨日まで空を覆っていた灰色の雲はすっかり消え去って、眩しい陽光が一面の雪に反射する。目が痛い。足がもつれるくらいに走って走って。荒い息遣いがチェズレイの耳に響いた。風に舞い上がった雪が、鼻先を掠める。チェズレイの視界が、次第に歪んでいった。愚かだと思った。ついさっきまで二人でいることが辛いなどと考えていたくせに、いざ一人にされると、モクマがチェズレイの前から消え去ると考えるだけで、どうしたらいいか分からなくなる。

 モクマのものと思わしき足跡は、途方もなくどこまでも続いている。もしかしたら辿り着けないかもしれない。そう思うと胸が潰れそうなくらい、苦しい。


 ぴたりと、チェズレイは足を止めた。


 やはりモクマは、恩返しという義理だけで、これまでチェズレイに付き合ってくれていたのだろうか。指切りをしたあの時も、気持ちが通じあったと思っていたのはチェズレイだけで、実はモクマはそんなつもりではなかったのかもしれない。考えれば考えるほど、それが正しいような気がして。目の前が暗くなっていく。自分から言い放ったくせに、その台詞が鋭い刃となってチェズレイの心を突き刺し、傷つけていった。

「チェズレイ?」

 青白い顔をして俯いて、雪に覆われた地面を睨み付けていたチェズレイは、その声にはっとして視線をあげた。ずっと探していたモクマが何故か目の前にいる。

「……モクマさん」
「いや~雪が結構積もったから、ちょっと散歩をしてみたくなって。調子に乗って歩いてたら、随分遠くまで行っちゃったよ。悪いね。帰ったらすぐ朝飯の用意をするから。昨日は旅の疲れもあったけれど、今夜は雪見酒も楽しめそうだねえ」

 あまりにも呑気なモクマの台詞に、強張っていた全身から一気に力が抜け、へなへなとチェズレイは雪の上に座り込んだ。あれ?チェズレイ?どうしたの?お腹でも痛い?と無神経に聞くモクマの顔をチェズレイは見つめる。チェズレイの頭の中で何かがぷつりと音を立てて切れるのを感じた。
「…………モクマさん」
「ん?」

 相変わらず心配そうにチェズレイの顔を覗き込むモクマのコートを、両手で掴んで一度ひっぱり、体制を崩した所で押し倒した。モクマに馬乗りになる形で繋ぎ止める。チェズレイの髪がさらりと流れて雪原に触れた。

「……あなたって人は、本当にあなたって人は!!」

 その先の言葉をチェズレイは続けることは出来なかった。肩を小刻みに震わせて、唇を固く固く引き結び。睨むように瞼に力を入れて、けれどモクマからは決して目を逸らさずに。涙を零すことなく、チェズレイは全身で泣いていた。

 モクマは、そんなチェズレイの様子を固唾を呑んで見守っていた。二人だけが時を止めたように、凍り付いた世界にいた。張りつめた空気の中、それでも沈黙を破ったのはモクマだった。

 そろり、と躊躇うようにモクマが片手でチェズレイの頬を包む。触れた指先は冷たいのに、優しくて。チェズレイ、と掠れた声が聞こえた。

「ずっと前から思ってたけど、お前さんは俺ともよく似ているね」


 チェズレイは鼻で笑った。どこが、と。


「そんな必要もないのに、必要以上に自分自身を傷つけて。自分を傷つけることで、いつだって他の何かを求めてる」

 にかり、とモクマが笑った。率直すぎる視線に、チェズレイはひゅっと息を呑む。やめて、という言葉は声にならなかった。

「チェズレイ。俺はお前さんの相棒であって、父親じゃない。だからお前の欲しがっているものは、俺には渡せない。渡せないんだ」

 いつからかは分からない。けれどきっとモクマは気付いていた。


 そんなつもりじゃなかった。チェズレイだってそんなつもりではなかったのだ。チェズレイの父とモクマでは、何もかもが似てもつかない。モクマはいつだってチェズレイに優しい。あまりにも優しいから、与えてもらえるのではないかと思ったのだ。チェズレイが父からずっとずっと欲しかったものを。モクマを身代わりにして、それでも欲しいと思ってしまった。モクマを好きになればなるほど、自己嫌悪でいっぱいになって。だから傷つけてほしかった。自分の体の深いところを繋げて全身を傷つけて、そしたら、その代わりになら。受け取ってもいいんじゃないかと思えたのだ。

「………あなたに、何が分かる…!!」

 絞り出した声は弱々しかった。薄い膜が目の中いっぱいに広がっていくのが分かる。一度それを突き破ってしまったら、チェズレイの中の何かが壊れて溢れてしまいそうだった。

 分からんよ、とモクマは答える。

「俺はお前のおやじさんでもなければ、お前さん自身でもない。だから本当のところ、多分俺自身は、俺自身のこと以外何も分かっちゃいないんだろう」

 すり、とチェズレイの顔からモクマの手がそっと離れる。チェズレイは動けなかった。逃げ出したいのに、出来なかった。

「けどな、感情って決して一人だけで生まれるものじゃないよ。お前さんが俺の中におやじさんを求めたように。チェズレイと一緒に過ごして、芽生えた感情にもしそれが含まれるなら。俺にもお前にかけてやりたい言葉がある」

 それが、チェズレイ自身が望んだものではないとしても。

「チェズレイ。俺は、これまでがどうあれ、お前さんが生きていてくれて嬉しいよ」

 モクマの掌が、チェズレイの頭を撫でる。ぽんぽん、と子供にするように、優しく優しく叩いて、大切な何かを守るように包む。

「今まで一人で、よく頑張ったな」

 吹いた風に流れるものがあった。チェズレイの涙だった。堪えきれなかった涙が堰を切ったように溢れて、ぽろぽろと零れていく。頬を伝って落ちたそれは、雪の中に音もなく消えていった。

 塗り固められた仮面は壊れ落ちて、やがて本当のチェズレイが現れる。

 もっと早く殺せば良かった、と。あの日のチェズレイは何度も何度も悔やんだのだ。もっと早く父親を殺していれば、少なくとも母は死ななかった。あの日父が家に訪れなければ、チェズレイはもっと母といられたのだ。


 許せなかった。


 愛していなかったのか?チェズレイがそう聞いた時、まるでおぞましいものを見たように顔を歪めた父親が。許せなかった。チェズレイはどうしても許せなかった。


 どうして父はチェズレイに捧げた愛の一遍すら、母にかけてやれなかったのか。


 愛していた、とたったひとこと。


 言ってくれさえすれば、チェズレイは父を許せた。


 大好きな母を追い詰めた父親を、それなのにそんな父を許したいと思った自分自身を。

 いつか三人で過ごせる日々を夢見たことを。

 チェズレイは、どうしても許せなかった。

 だからチェズレイは、モクマを父の身代わりにして。彼の手でチェズレイ自身を傷つけてもらうことで、欲しがったのだ。



 許しを。



 あの日チェズレイは、一人になることを、一人で選んだ。きっと永遠に一人きりだったチェズレイは、誰にも許されないはずだった。それなのに、大切な人が出来てしまった。大好きな人が出来てしまった。欲が生まれてしまった。

 こんな醜い自分を見られたくなかった。モクマにだけは知られたくなかった。

 モクマは泣き続けるチェズレイを力強く抱きしめてくれる。モクマはチェズレイを許すことは出来ないし、チェズレイはモクマから許してもらうことも叶わない。チェズレイの欲しかったものは、きっとずっと手が届かない。けれど、少なくとも。あの時のチェズレイが一番必要としていたものはここにあった。温かかった。


 前にも言ったけど、とモクマは笑いながら言葉を続ける。


「俺は決してお前さんのそういうところは嫌いじゃないけれど。お前さんのその熱量はお前を傷つけるもののためじゃなくて、幸せにするもののために使ってほしいって。今でもそう思ってるよ」

 モクマの台詞に、また涙が溢れた。強く抱きしめ返して、チェズレイはそれに応えた。



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