2.


 切符を車掌に手渡して電車に乗り込むと、一人しか通れないほどの狭い通路が表れた。このことを見通して、先に手荷物になりそうなものを送っていたのは良い判断だった。ほぼ手ぶらのチェズレイに対してモクマはあれよあれよと手提げ袋を増やしているが、いつものことなので特段気にしない。一等車にある決められた番号の室内に入り、小さなテーブルと向かい合う形の座席に、コートを脱いで座った。寒さを一切感じさせないくらい、暖房の効きが良い。通路への扉を閉めえしまえば、そこにモクマとチェズレイの二人きりの空間が生まれた。ほっと息をついたところで、出発の時刻を迎える。


「どれくらいかかるんだっけ」
「電車で三時間、そこから車で一時間、徒歩で数十分程度ですね」

 返事をしながら次第に移り変わる窓の外の景色を眺める。普段とは違う目線の光景だ。


「チェズレイ、少し疲れてる?起こしてあげるから眠ってても構わないよ」
「ありがとうございます。でも、生憎こういった場所で眠った経験がないもので」
「こういう時は目を瞑るだけでも結構違うもんだよ。長旅でどうしても時間をもてあましたときは、目蓋を閉じて生まれてきてからこれまでのことを思い出すと良いって、昔の仕事仲間に教えてもらった」

 それは正直自殺行為では?とチェズレイは訝しんだが、他愛のない会話の一種だとでも言うようにモクマただ微笑んでいる。過去を振り返るという条件だけは退いて、チェズレイは大人しく目を閉じた。

 ただでさえ使いたくもない乗り物の中にいる。帰りたいとも思わなかった故郷に戻ってきた。一切の情報を断ち切ってチェズレイは、一人きりの暗い世界に潜り込む。微かな振動とモクマの息遣いが、外界とチェズレイを繋ぐ唯一だった。


***


 チェズレイは許せなかった。

 目の前に一人の男が立っていた。男は幼いチェズレイの頭を柔らかく撫でながら、その優しさとは裏腹の心無い言葉を投げ捨てた。黙って受け入れていたチェズレイは、ぎゅっと手を握りしめる。男は、チェズレイの様子を気づくそぶりもなく、意気揚々と笑っていた。


 愛していなかったのか。チェズレイは男に尋ねた。


 男はなんと言ったのか。おそらくチェズレイが想像していたものと、さほど違いはなかったはずだ。


 そうか、とチェズレイは一つ頷いた。


 気づけば男は床の上に横たわり、既に息絶えていた。男に寄り添うこともせずに、冷ややかな視線を注いで立ち竦む。


 チェズレイは許せなかった。


 母を死に追いやったこの男だけは、どうしてどうしても許すことが出来なかった。


***


 ぞわりと全身の毛が逆立った。目をかっと見開き、大きく息をつく。霞がかった視界の中、瞬きを繰り返して意識をゆっくりと覚醒していく。ようやく現状を理解したところで、唐突に個室の扉が音を立てて開いた。

「お、お目覚め?コーヒーじゃなくて紅茶になるけど、一緒に飲まない?」
「…………いただきます」

 モクマが差し出してきたのは紙コップのうえにティーパックの紅茶だったが、素直に受け取った。手袋越しにも、じんわりとその温かさが感じられる。

 気づけば、電車が止まっている。この国の電車は駅にもよるが三十分程度停車することもある。窓の奥の世界は一面が白く埋もれていて、物売りの姿が蠢いていた。束の間の休息を漫喫するように、楽しげに散歩をしている家族を眺めて、チェズレイは息を整える。喉の奥に押し流した紅茶が、予想外に熱かった。

 昔の夢など、もう見ないものだと思っていた。やはりこの地に戻ってきた影響のせいか、チェズレイの調子が狂っている。

 落ち着け。ここには何の為にやってきた?チェズレイは自分自身に問いかける。ひとえに、モクマとの仲を深めるためだ。指切り以上に、モクマと奥で繋がりたくて。逃げられないように、逃がさないように、二人きりになれる場所を選んだのではないか。

 大体モクマもモクマなのだ。


 あの時大人しくチェズレイの要求をのんでいればよかったのだ。変なところで紳士ぶった過去のモクマへの態度に怒りの矛先が向く。けれど憤怒の感情が再燃したおかげで、掻き立てられるような焦燥感は次第に消えていく。

 かさり、とモクマが個包装されたクッキーの袋を破いた。

「食べる?」
「それは、結構です」

 粛然と断ったのにモクマは、クッキーを指先でつまみチェズレイの口元に寄せた。あ、と何かを促すようにモクマが大きく口を開ける。眉間に皺を寄せることで抵抗を示したチェズレイは、しかしすぐに諦めた。モクマに倣うように口を開けて、控えめに舌を差し出す。

 指先から口の中にそれを受け入れる。

 濡れた唇に一瞬だけ、モクマの指先が触れた。モクマの意図したものだとチェズレイは気づいていたが、黙ってクッキーを噛み砕く。少し懐かしい味がした。目の前でモクマは、渋々とした表情のチェズレイをにこにこと眺めている。狭いテーブルの下でその足を幾度も蹴飛ばしてやろうかと思った。

 この男、絶対に私のことが好きなくせに。

 不貞腐れた顔で睨むと、モクマはさもおかしそうに笑った。

「やっぱりお前さんは、アーロンと少し似てるな」

 何故そこであの怪盗の名前が出てくるのか。チェズレイにはちっとも理解出来なかった。


***


 結局二人が目的地であるチェズレイの別荘にたどり着いたのは、陽も傾きかけてきた頃だった。昔馴染みの使用人にチェズレイが訪れることを伝えていたからか、別荘までの道なりは綺麗に除雪されていた。それでもモクマは、新しいブーツは履き慣らすように、楽しげに雪を踏みしめている。一回り以上年上だというのに、まるで子供みたいだ。ふと笑いながら吐き出した息が白かった。体を動かしているから気づきにくいが、やはりこの地は寒いのだ。

「使われていない別荘って聞いてたから、お化け屋敷みたいなのを想像してたけど。案外綺麗なもんだな」
「人のいない家はかえって傷みますからね。適度に人を入れて管理していただいています」

 モクマを別荘の中に押しやってから、チェズレイは振り返り外を眺めた。一面の銀世界の中、真っ直ぐにそびえ立つ木々がぽつんと孤立したこの別荘をぐるりと囲む。途中、ちらちらと舞い降りてきた雪が、チェズレイの髪に落ちた。変わらないな、というのがチェズレイの印象だ。昔ここに来た思い出と一切変わらずに、凍りついてそのまま時を止めているようだった。二人分の足跡の上に、雪が積もってゆく。明日の朝にはきっとその痕跡すらも消えてしまうのだろう。灰色の空に、つい呼び起こされそうになる記憶。チェズレイは首を振ってそれを切り離した。

 嫌な記憶は、塗り替える。何層にも重なって雪が世界を包むみたいに。誰にも気取られぬよう、それとなく真実を隠す。前にモクマの故郷を彼そのものだと揶揄したことがあるが、チェズレイ自身も似たようなものかもしれない。





 全くもってモクマの準備は完璧だった。最近では、ようやくモクマの手料理だけは口に出来るようになったチェズレイだが、食べれば食べるほどモクマの料理の腕が相当なものだと分かる。勿論チェズレイ自身もそれなりの料理は出来るけれど、レシピにそった通りのものだけだ。なんせモクマはアレンジが効く。ありあわせのものでもささっと一品を作ってしまう。この間は、甘いものを欲したチェズレイの為にどぶろくのケーキを用意してくれたので、予想外の組み合わせにチェズレイは心の底から驚いたものだ。

 トマトとモッツァレラチーズを合わせてオリーブオイルと塩だけで味をつけたカプレーゼに、残ったトマトをさっと炒めて卵で閉じたオムレツ。玉ねぎが丸ごと入ったオニオンスープは、忍ばせたパセリの匂いと合わさって、凍えた体を芯から温めていく。皮つきのじゃがいもを薄くスライスして、鶏肉と一緒な蒸し焼きにしただけの料理は、さっぱりして塩気がある分、いくらでも食べられて酒がぐいぐい進んだ。

 ゆったりとしたソファーにテーブルを挟んで向かい合い、とりとめのない談笑を続けながら緩やかに夕食の時間が流れていく。効きすぎた部屋の暖房は、少し暑すぎるようにも感じた。


 何気なく話が途切れたあと、モクマがチェズレイに尋ねた。


「なあ、チェズレイ」
「はい。なんでしょう」
「お前さんのおやじさんはどういう人だったんだい?」
「………マフィアのドンでしたね」
「へぇ。なら、お前さんの世界征服の夢は、おやじさんから引き継いだ夢ってことになるのか」
「さあ、どうでしょうね。まあ、もともとこういう世界にいたものですから。少なからずそういった野望はあったのかもしれません。野心がなければ、マフィアのドンなんて早々務まらないでしょうから」

 隠すつもりは到底無かった。チェズレイの母国に訪れた以上、おそらくは避けられない話題だったはずだ。聞かれた通りのことを、チェズレイは答える。何かを言い淀むように開きかけた口を閉じたモクマにチェズレイは肩を竦めて笑った。

 母と同じぐらいの時期に父も亡くなりましたよ、と言葉を続ける。

「私が、殺しました」


 モクマの顔が僅かに曇ったのを、チェズレイは見逃さなかった。

 見えた窓の外はどっぷりと陽が暮れて、闇に景色が霞んで見えた。室内の光に照らされた雪の破片は先ほどまでより一層大きくなっていた。予想以上にそのスピードは早く、これは積もるかもしれないと場違いなことを考えた。



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