「お前さんの故郷に、一度でいいから行ってみたいもんだ」


 出掛けるモクマから玄関で見送る際に言われた台詞を、チェズレイが理解するには僅かな時間が必要だった。モクマの中で一体何がきっかけだったか分からない。扉を開けて入り込む冷気に身を震わせたモクマは、今日は一段と寒いねえという一言の後、前触れもなく告げたのだ。チェズレイは顎に指先を添えて、しばし考えた。

「……私の故郷について興味を持っていただけるのは光栄ですけれど、生憎モクマさんのご期待に添えるような面白味のある場所ではありませんよ」

 つれない態度だと自覚しつつも、事実なのだから仕方ない。モクマはそんなチェズレイの答えに驚くふうでもなく聞き流して、あ、あれ持っていたかな、と何かを思い出すかのように懐に手を差し込む。ちらりとむき出しの肌が一瞬見え、相変わらずの軽装っぷりにチェズレイは顔をしかめたくなる。本格的な冬が始まる前に、モクマにはきちんとした防寒具を与えなくては、とチェズレイが胸中でひっそりと決意した時、モクマは再度繰り返した。

「それでも俺は、やっぱり行ってみたいよ」

 チェズレイは純粋に驚く。その話は一旦終わったものだと思っていた。

「モクマさんにしては珍しく、随分食いつきますねえ」
「だってさあ、お前さんは俺の故郷に来たことがあるのに、逆に俺が行けないってのはなんか不公平じゃないか」

 それじゃ、ま、出掛けてくるね、と声をかけるモクマは普段通りだ。いつもと寸分違わないくらい。

「でもチェズレイがどうしても嫌っていうんなら、無理にとは言わない」

 お気をつけて、行ってらっしゃいという言葉をついつい伝え忘れたことにチェズレイが気づいたのは、家の中からモクマの気配がすっかりと消えた後のことだった。釈然としない気持ちのまま、チェズレイは玄関に背を向ける。気を取り直してリビングに戻りソファーに腰を降ろした。足を組みながら、膨大な量の書類の一枚一枚に目を通していく。

 ふう、と落ち着かない様子でチェズレイは溜め息をついた。全く集中出来ない。冷静さを保つため、いつもと同じルーティンをなぞってみたものの、案の定失敗だった。書類を所在なくテーブルの上に置き、背中を仰け反らせる。ぎしり、と鈍い響きを耳にしながら、右手の甲を眉の上に乗せた。

 途端、腹の中でぐるぐると渦巻いていたものが喉元に向かって這い上がる。先程のモクマの言葉を何度も頭の中で反芻した。…無理にとは言わない、とは一体どういうことだ。そう一つ呟いたのを皮切りに、チェズレイの胸に次第に苛立ちが芽生えてくる。


 チェズレイがモクマの台詞に怒るのには正当な理由があった。


 チェズレイとモクマは所謂相棒という関係だった。お互いの抱えた過去を精算する瞬間に立ち会い、乗り越え、共に生死の約束を交わすぐらいに、二人の繋がりは深い。他の誰の追随を許さないほどの強固な絆。それがいつしか相棒という名のくくりを越えてしまったことについて、チェズレイは不思議と疑問には思わなかった。いつの間にか夜が明け朝日が昇るように、季節がうつろうように、チェズレイにとっては自然なことだったのだ。


 それは、モクマとて同じで。同じことのはずだった。


 チェズレイがモクマに体の繋がりを求めたのは、今から二週間前のことだ。チェズレイにしてもその行為は流石に勇気がいったし、それなりに心の準備も必要だった。けれど胸中の葛藤や抵抗を凌駕するくらいに、チェズレイの中でモクマの存在が膨れあがり、今の関係性で十分だと思う一方で、モクマが足りないと欲する自分がいて。いよいよ目を反らせなくなった。抱いてほしい、とチェズレイが迫ったとき、果たしてモクマは何と言ったか。


「チェズレイ。そんなに無理をしなくていいから」


 無理。無理とは一体なんだ。


 じわじわと頭に血がのぼっていくのが分かった。過去の言葉と言われたばかりのモクマの台詞を照らし合わせて、相乗効果でチェズレイの怒りは増していく。モクマはチェズレイを気遣う体裁を見せて、結局は自分の要求を押し通しているだけじゃないか。実に腹立たしい。チェズレイは奥歯を噛み締めた。

 良いだろう。モクマがどうしてもというならチェズレイは、その願いを叶えてやらなくもない。但しそれはチェズレイの要求と引き換えに、だ。故郷に帰ることを、実はチェズレイ自身は気乗りしていないが、自分の望みを実現するために必要な犠牲なら呑み込めた。


 何が何でも、そこでモクマと一線を越えてやる。


 チェズレイは意を決して、心を奮い立たせた。


 無理にとは言わないという訳の分からないモクマの言葉など、チェズレイの知ったことではないのだ。

ever after located in the snow.

 度数の低いアルコール瓶を窓の近くに一晩置いていたら、寒さでガラスごと割れてしまった。という逸話の効果か、モクマがすんなりと防寒具を受け取ったことについて、チェズレイは大層ご満悦だった。勿論チェズレイの話に嘘偽はないが、それは随分と昔の話で、今の窓ガラスは強化されたものが代替しており、内実はそうそう簡単に窓が割れることはない。親が子供に昔々の童話を伝えて、危険やタブーを教える行為にそれはよく似ていた。

 チェズレイが買い与えた帽子付きの黒いコートを羽織り、モクマは意外とあったかくて着心地がいいねえなどと感想を伝える。抵抗する割には受け入れるのがモクマは早いという判断を下して、チェズレイも灰色のロングコートの襟を正した。

 今にも雪が降り出しそうな厚みがかかった雲の隙間から、陽の光がはしごのように差し込んでいる。見渡した町は雪の痕跡はほとんど残されていないものの、一面が凍り付いたような印象だった。二人で白く息を吐いて肩を震わせる。

 結局二人がチェズレイ故郷であるヴィンウェイに訪れたのはあの会話があった日から一ヶ月も過ぎていた。出来ればもっと早くという気持ちもあったが、焦りは相手に伝わりやすい。ただでさえモクマは目敏く、慎重にするに越したことはない。ただ一つの難点と言えば、今が極寒の冬真っただ中にあるということ。けれどそれも致したかない。仕事ではなくあくまで旅として、チェズレイはモクマと既成事実を作ることに燃えていた。

 一応チェズレイなりにあの手この手を考えているが、油断はならない。なんていっても相手はあのモクマだ。丹念に練り込んだチェズレイ計画をいとも簡単に潰してくる。結果そのおかげでチェズレイは今モクマと一緒にいるわけなので一概に駄目とは言えないが、計画を遂行する上で厄介なことには変わらなかった。


 思案に耽っていたところ、ふと隣にいたモクマの姿が消えていた。


 目を離すとモクマはすぐにチェズレイの前から姿をくらます。本来ならリムジンで目的地まで向かう予定だったのが、ヴィンウェイは大きい国だ。運転手の都合が途中までしか折り合わず、結局電車で付近まで行くことになった。公共機関の乗り物をチェズレイは快く思ってはいないが「たまには電車を使うのもいいじゃない。旅って感じで」というモクマの台詞ですぐに妥協した。何度も言うが仕事ではなく、旅というところが重要な点だ。これはオフィシャルではなくプライベート。チェズレイがモクマに要求しようとしているものはおそらく後者の類になる。モクマの提案を受け入れれば、だからこっちだって要求しやすくなる。


 という算段だったのだが、やはり失敗だったか。


 辺りを見渡すと、数メートル離れた場所にモクマらしき人物の姿を捉えた。駅近くにあるこの場所は、とりわけ人出が多い。遠くから様子を見るにモクマは、初老の女性に声をかけられているらしかった。大体の事情を察してチェズレイは肩を竦めて、モクマの元へと足を向ける。

「モクマさん。探しましたよ。どうかなさいましたか」
「お、チェズレイ。丁度良かった。この奥方さんから道を聞かれてな。お前さんが分かるなら、代わりに教えてやってくれないか」
「それくらいお安いご用です」

 美術館に行く予定だったと告げる女性に、道なりを懇切丁寧に教える。周囲には大勢の人がいるというのに、何ゆえその中で縁もゆかりもないモクマを選んでしまうのか。頭の隅で考えつつ、けれど答えが出ない訳でもない。モクマは不思議と人を惹き付ける力がある。それはチェズレイもまた持ち得たものだが、性質は全く異なる。チェズレイは自身の魅力を理解し今まで散々利用してきたが、生憎モクマは自分のそれについて気づいているのかも怪しかった。

 丁重な礼を返され、さあ今度こそ出発だと思ったところで、モクマは既に目に入った駅前の売店で商品を物色している。油断も隙もない、と呆れて、モクマを呼び戻そうとした時だ。


「……チェズレイ様?」


 掠れて微かに聞き取れる程度の音だった。反射的に振り向いて、声のした方に視線を投げる。チェズレイよりも少し年上らしき青年が立っていた。身長はチェズレイのそれよりも低いが、やせ形のせいかダウンコートを着ていてもすらりとして見える。ショートカットの黒髪と同じ色の大きな瞳。何でも見透かしてしまいそうな深色のその目に、チェズレイは見覚えがあった。

「やっぱり、チェズレイさ」
「失礼ですが、どちら様ですか?」

 言葉を遮るように冷たく言い放つと、その男は身を強張らせてピタリと動きを止めた。

「おそらく人違いだと思いますよ」

 その男の顔がさっと青ざめていく様子をチェズレイは何の感情も出さずに見届ける。縋るような視線が煩わしくて、更に決定的な言葉を投げつける間際、モクマのおーいという呑気な声が聞こえて、意識は途端にそちらに向く。失礼、とだけ言い捨てて、踵を返す。

 手を振り上げながらチェズレイを待っていたモクマは、知り合い?と小声で問う。さあ、どうでしょうねぇ、とらしくもなく曖昧に答えた。

「それよりも、モクマさん。ちょっと買いすぎではありませんか?いくら長旅とは言えど、そんなに食糧が必要とは思えませんが」
「え~?そう?まあいいじゃない。チェズレイも一緒に食べようよ。お前さんの好きそうなものもいくつか見繕ってきたからさ」

 ぱっと表情が明るくなるモクマに、仕方のない人ですねと言いながら唇だけで笑ってみせる。

「さあ、行きましょう。そろそろ電車が出発する時間ですから」

 そう言ってモクマを促す。背中にまだ視線を感じていたが、チェズレイは無関心を貫いた。この場所は、チェズレイの故郷だ。幼少期から生まれ育ったこの土地は、チェズレイを知る人も多い。それを卒なく躱すことなどチェズレイにとっては容易いが、相手によっては無視を決め込むことも多い。今の男もそうだ。

 昔々、チェズレイがこの国でファミリーを率いていたときの部下の一人。ファントムによる作りものの主を偽りだと見抜けずに裏切ったあの時の。自然に調和した見事な景観も、彩られた芸術も。故郷を深く慈しむ人の心も、何もかもが美しいこの国をチェズレイは手放しで好きにはなれなかった。



 この地には、嫌な記憶が多すぎる。



inserted by FC2 system