2.


 きっとこれは走馬灯のようなものなのだ。チェズレイは自室に籠りながら、ベッドの上で一人膝を抱えた。チェズレイの記憶が正しければ、つい先刻まで自分はモクマと一緒に小さな国いたはずだった。出国を前にそうしてモクマと離れた少しの時間、いつの間にかチェズレイだけがこんな場所にいる。理解出来なかった。訳が分からなかった。どうしてチェズレイが幼少期を過ごしていた家にいるのか、どうして遠い昔に確かに命を失ったはずの母がこうして目の前にいるのか。

「お母様」

 力強い声を上げてチェズレイの幼い体は、自分の意思とは無関係に母親へと駆け寄る。先ほどまでは動かせていたはずの掌に全く自由が利かず、チェズレイは驚く。けれど母親の目にはいつもと変わらない子供姿のチェズレイ映っているのだろう。チェズレイの体を優しく受けとめて、しなやかな指が肩に降りる。

「昨晩、お父様とチェズレイと一緒にいる夢を見たの。きっと、今日はいい日になるわ」

 少しだけ嬉しそうな母親の台詞に、チェズレイは軽く眩暈がした。聞き覚えのある言葉だった。忘れられない。忘れるわけがない。この台詞を聞いたのは、彼女が自らの命を絶ったあの日の朝のことだ。

 まるで映画を見ているみたいに、チェズレイの体はちっともいうことが利かなかった。

 何とか母と父親を会わせないようにと画策したくとも、何も出来ない。人形劇の一部になったように、チェズレイは幼いチェズレイという容器に魂ごと閉じ込められて、強制的に舞台に立たされる。いやだ、いやだ。悲鳴を上げても声にならず、小さなチェズレイはただ無邪気に母親に笑って見せるだけなのだ。いつも追い詰められていた母の久しぶりに見せる微笑みが嬉しくて。それがすぐに永遠に失われることも知らずに。

 チェズレイの体が自由になるのは、母と父が会っている僅かな間だ。父の来訪をこの時のチェズレイは知らない。朝食を終えていつも通りに同じ階の子供部屋に返され、久しぶりに見た母の笑顔が嬉しいのに、あの時ばかりは胸をよぎる嫌な予感が消せなくて。急き立てられるように部屋を出たところで、チェズレイの自由は完全に無くなる。縋るように辿って、あのピアノのある部屋のベランダに佇む血の気のない母親の姿に、チェズレイはひゅっと息を呑む。直後にゆらりと風に揺れるように母の体がゆっくりと倒れ。あとはあの時の焼き直しだ。必死に母の足を抱き締めて、どうにか繋ぎとめておきたいのに、自分の手がどんどん力を失って。絶対に、絶対に手を離してはいけないのに、離してしまえば何もかもおしまいなのに、どんどんチェズレイの体から感覚がなくなって。母親の謝罪と別れの言葉を耳にした途端、するりと彼女の体がチェズレイの手から抜け落ちて。見下ろした地上にじわじわと広がり咲く赤い花に、チェズレイは泣きながら座り込む。

 何度も見せられている。壊れた映画を繰り返し。

 何も出来ないのだ。チェズレイだって精一杯力を尽くそうとした。でも、出来ない。唯一自らの意思で話せても、触れても。チェズレイが動けるのは、母親の死ぬ直前のひとときだ。でも、どうすることも出来ない。母親がチェズレイの前から消えた途端、唐突にチェズレイの意識はなくなって、赤い絨毯の上で呆然としていたあの瞬間に戻る。母親の最後を見届けたのは、もう両手では数えきれないほどになっていた。くく、とチェズレイは自分の膝を見つめて嘲笑った。


 こんなところで、自分は終わりなのか。


 チェズレイが考える以上に、人は簡単に死ぬのだ。勿論、殺しても死なないような人間も世界にはいるけれども、それはほんの一握りに過ぎない。あっけなく、ためらいなく。命はたやすく奪われる。人間に等しく死が訪れるように、チェズレイもまたそうだったというだけの話だ。打ちどころが悪ければ、それだけで単純に。知っていたはずだったのに。チェズレイは命を狙われる側でもあれば、奪う側でもあったのだ。自らの美徳を振りかざして、下衆であるという理由で何度も人を殺めた。その罪はきっとべっとりとチェズレイの体に染みついている。だからこの永遠に続く牢獄は、きっとチェズレイへの罰なのだ。現世の罪滅ぼしでは足りなかったから。何度も何度も人生で一番思い出したくない瞬間に、強制的に立ち会わされる。チェズレイは再び笑った。成程これは、チェズレイに見合った最上の地獄だ。

 自室に戻る間際、母はいつもそっとチェズレイを抱き締めてくれる。最後だと知らずに。最後だとチェズレイだけが知っていて、それなのに留めておくことが出来ない。口の中に苦い味だけがいっぱいに広がって、虚無感がチェズレイをとめどなく襲う。鼻孔をくすぐる甘い香りも、触れる手の柔らかさも。感触は昔から何一つ変わらないのに、チェズレイだけが変わってしまって、途方に暮れる。行かないで。その一言さえ告げることも許されない。終わりのない拷問は、チェズレイの強靭であった精神をいとも簡単に壊していく。

 子供になった体をのそりと起こしてチェズレイは、力なく立ち上がる。見えた立ち鏡に映るチェズレイの姿は覇気がなく、顔は血色なく青ざめている。唇だけで笑ってみせた。鏡に映る自分は、当然のように笑顔だった。これは仮面だ。チェズレイが母親の為だけにつけた。チェズレイが生きた中で、最初につけた仮面。そっと鏡面に掌を乗せる。どこか綻び始めた笑顔を眺めて、また笑った。他の誰かは騙せても、チェズレイ自身の疲弊は誤魔化しようがなかった。

 部屋の端に移りチェズレイは、大きな窓を開けた。一人では絶対出ないようにと約束されたベランダの中を一人歩き、白い手すりにつかまる。下は、何の変哲もない庭だった。それでも人の命は十分に奪えるのだから不思議だった。前を見据えるとそこには記憶とたがわない美しい故郷の姿が映っていて、それなのにチェズレイ一人だけが取り残されている。気が狂いそうだ。


 どうしてチェズレイが大切にしていたものは、この手からいつもすり抜けていってしまうのだろう。


 知っていた。父が母に冷たくなったのは、チェズレイがいたからだ。チェズレイがもし父親の理想通りの息子でなければ、或いはチェズレイが二人の間に生まれていなかったのなら。今でも父と母はそれなりにうまくやっていたのかもしれない。母は穏やかに、ピアノを弾き続けていたのかもしれない。もしも、チェズレイがチェズレイでなければ、誰も彼もが幸せになっていたのかもしれない。


 なんだ、そうか。チェズレイは急に合点がいった。


 母を苦しめる存在が自分なら、消えてなくなるのはチェズレイだっていいのだ。


 こんな簡単なことにどうして今の今まで気づかなかったのか。母を失いたくないのなら、チェズレイが死ねばいいだけなのだ。奇抜な発想はそれでも、チェズレイにとっては素晴らしいアイデアだった。だって、もういいじゃないか。チェズレイは頑張ったのだ。この狂いそうになる地獄の中で、たった一人、母親の死にそれこそ何度も立ち向かったのだ。もういい。もう、頑張れない。これ以上、目の前で大切な人をずっと失い続けるなんて耐えられない。

 ここから落ちたら。頭から落ちたら、きっとチェズレイは簡単に死ねるだろう。ここが走馬灯の中なら、チェズレイは死んだも同然だ。一度死ぬのも、二度死ぬのも、きっと変わらない。落ちて、打ちどころが悪ければ、頭から、うまく、死ねれば。ぐるぐると頭の中で不穏な言葉が駆け巡る。気圧されるように、手すりをぎゅっと握りしめて前かがみになった瞬間だった。


「だったら、お前は死ねない。絶対に」


 その声は、チェズレイを引き留めるには十分だった。


…………どうして。


 チェズレイの顔がくしゃりと歪む。なんで。今、あの人の言葉を思い出してしまったんだろう。今にも飛び降りそうだったチェズレイの体は強張って、ぴくりとも動けない。心までもが幼くなってしまったからなのか、感情の制御が利かない。胸の底からせりあがってくる感情に、チェズレイはぎゅっと唇を噛み締める。

 だってチェズレイは、モクマと約束をしたのだ。モクマを殺すのは自分だと。あの人を殺さない限りは、他の誰をも殺さないと。だから、チェズレイにはどうしたって出来ない。


 私にこの子は殺せない。私は私を殺せない。


 へたりとチェズレイの体が力なく倒れ込む。脳裏にモクマの顔が鮮明によぎった。


 モクマに会いたい。


 唇がふるふると震え、胸の中に抑えきれない激情が膨れ上がる。うわあ、と腹の底から絞り出した声を上げて、チェズレイは大粒の涙を零した。堰を切ったよう流れる気持ちが、涙が止まらない。会いたい。会いたい。モクマに会いたい。あの澄んだ眼差しでチェズレイを見つめる瞳に、あたたかなぬくもりのまま抱きしめてくれるその腕に。会いたい。あの人の、優しくチェズレイの名を呼ぶ声が聞きたい。


「………チェズレイ?」


 人の気配がした。沈鬱なまま、青白い顔をゆっくりともたげる。憔悴しきった幼いチェズレイに、母が小さな悲鳴をあげた。チェズレイに慌てて歩み寄り、幼い背中に手を回して両腕に強く力を入れる。ほろほろと涙を落としながら、チェズレイは母の体にしなだれる。チェズレイ、と名を呼ぶか細い声が耳元に響いた。

「チェズレイ、どうしたの?どうして泣いているの?」

 答えられない。言葉にならない。ただ、ひしと抱きしめる母の体温があまりにも優しくて、温かくて、チェズレイはなお一層さめざめと泣く。

「泣かないで、チェズレイ。どうか涙を止めて。あなたの涙を見ていると、私もどうしようもなく悲しくなる」

 全身に張り付くような違和感が、チェズレイを襲ったのはその時だ。予感めいた何かが胸の内を駆け巡り、チェズレイの中で次第に形になっていく。だっておかしい。チェズレイの記憶のチェズレイの記憶の中の母は、もっとずっと追いつめられていたはずだ。自分の命を顧みないくらい、チェズレイの掴んだその手を諭して振り払うくらい。いくらチェズレイが泣いていたからとしても、あの時の母にチェズレイの気持ちを汲み取って、優しく抱きしめる余裕があっただろうか。


 もしかして。


 一つの可能性が閃く。チェズレイはそして思い返した。魂を閉じ込められたチェズレイが過ごしたこの場所での出来事。その直前までモクマと一緒だったこと。昔の夢だった世界征服を二人で一緒に追うのだと約束したこと。心を許しそうになった唯一の相手に裏切られて、けれどその傷が相手に復讐しようとした過程で得た仲間によって癒されたこと。ようやく思い出した、母とのやりとり。濁ってしまった自分を許せず、愛しているのに憎くておかしくなりそうと自分を責め立てていた母と、それでも確かに過ごした幸せな時間があったこと。


 チェズレイが幸福な記憶を思い出せたのは、十数年分の時間があったから。


 でも、母には。それがなかった。なかったのだ。


 ああ、そうか。そうだったのか。チェズレイは大きく息を吸って、吐いた。懐かしい母の香りが、ほのかに漂っていた。腕を持ち上げて、母の服を強く掴んで。最後の気力を振り絞って立ち上がり、力いっぱい突き飛ばした。

「チェズレイ?」

 驚く母に、チェズレイは袖で涙を拭ってから、にこりと微笑んで見せる。

「ごめんなさい」

 告げて、さも当然のようにチェズレイは、手すりを越えて静かに小さな身を投げた。



 恐怖は感じなかった。窮屈だったあの世界が、くるりと視界の中で反転する。風の流れに身を委ねる。まるでスローモーションのようにチェズレイの体は、伸ばされた母の手をすり抜けて、ゆっくりとゆっくりと空の下へと沈んでいく。薄く開いた目の奥に、青空が広がって、綺麗で痛くて、泣きそうになって。でも、ぐっと堪えた。泣いてはいけない。泣いては駄目だとチェズレイは自分に言い聞かせる。どすりと自分の体に何かが圧しかかる。視界に影が映って、チェズレイの体が温かく包まれた。ぎゅうっとからめ捕るように抱きしめたその腕が、母のものであることはすぐに分かった。追ってきてくれたのだ。母が。チェズレイを助ける為だけに。

 押しつぶされそうな胸の痛みを感じながらチェズレイは、また、ごめんなさいと小さく囁く。

 だって、あんまりだ。チェズレイは楽しかった母との記憶を思い出せるようになったのに。ピアノを囲んで一緒に笑いあった日々をあんなのも鮮明に覚えているのに。母が命を失う最後の瞬間に見たものが、愛した子供の悲壮に満ちた泣き顔なんて、あんまりだ。

 この永遠の牢獄に閉じ込められていたのは、チェズレイではなかった。後悔という枷がこの世界を作り上げただというなら、母をここに閉じこめたのはチェズレイだ。


 悪い夢に捕らわれていたのはチェズレイではなく、母の方だ。


 空に舞う中、母の体が震えている。チェズレイはその体に腕をまわして、静かに目を閉じた。そして、耳を澄ます。あの日をたった一人で何度も繰り返し、それでも唯一自由になれる最後のひとときでチェズレイを抱き締めてくれた、母の音を聞くために。



 息が苦しい。

 氷塊のように冷たく鋭い切っ先が、風になって皮膚を引き裂く。硬く喰いしばった歯から零れる息は浅く、閉じてしまえば二度と開くことのないだろう瞼を懸命に押し上げた。間に合わない。間に合わない。脳裏には激しい警告音がガンガンと鳴り響く。心臓が強く波打ち、全身の血が逆流したみたいに、熱い。肺にうまく空気を送れない。呼吸が出来ない。それでも食い込みそうなほど力強く、胸の中の仄かな温もりを抱きしめる。迫りくる地表に溢れそうになる何かを堪えて、掠れた声で祈るように叫んだ。

おねがい、おねがい。どうか。


この子を助けて。私はどうなっても構わないから。



 聞こえたよ。あなたの声。知っていたよ。最初から。



 だから、出来なかった。モクマがいつしか命を失いかけた瞬間も、チェズレイは諦められなかった。自分が助かる為だけに、見ず知らずの子供の手を離すことも。全部、すべて、チェズレイが母から譲り受けた優しさだ。母がチェズレイにくれた想いだ。ここにある。とてもあたたかくて、いつだっていつだってそれはチェズレイを救ってくれていた。母の想いは、チェズレイの中で生きている。

 そんなふうに優しかったあなたを、あの時助けてあげられなくてごめんなさい。最後の最後まで苦しめてしまってごめんなさい。


 でも大丈夫。もう一人で泣かなくてもいいから。


 だってあの人が、きっと迎えに来てくれる。


 白い光が一面に爆ぜた。体の中心に鈍い衝撃が走る。急激に意識を引き戻されてチェズレイは、苦し気に息を吐く。おそるおそる開いた視界の先には、広がる海と船が見えた。あの部屋の窓の外には決してなかった光景だ。

「………子供は」
「大丈夫だよ。チェズレイ。ほら、仲間達が助けてくれた」

 にわかに焦るチェズレイの頭上から、優しい声が降り注ぐ。見上げれば、そこに当然のようにロープを括りつけたままチェズレイを抱えるモクマの姿があった。呆然と見つめて、けれど騒ぎを聞きつけて街の人間がわらわらと集まり始める。チェズレイが掴んでいたはずのベビーカーはその手をすり抜けて、でも、地面に叩きつけられることもなく、大勢の大人を下敷きにしていた。その顔触れは見知らぬ者もあれば、見知った者もいた。前者は、言葉通りにモクマの仲間で、後者はこの街で出会ったチェズレイのファミリーの一員だった。

「………見送りには来なくていいと言ったはずなのに」
「はは。まあそう言いなさんな。最後に顔だけでも見たいっていうのも、お前さんが慕われている何よりの証拠だろう」

 するするとモクマの手によってチェズレイは地に降りる。泣きながら我が子を抱き締める母親とは対照的に、何が起きたのか分からずに目をぱちぱちとさせる子供の姿がおかしかった。

「無事で良かった」

 モクマの言葉にチェズレイは頷いた。安心感に全身の力が抜けて、思わず座り込んだ。何度も死闘を繰り返してきた自分なのに、こんな些細なことで体が震えるなんて。やっぱり自分もまだまだだな、と思ったところで、モクマが抱え込むようにチェズレイを包む。

 そうか、先ほどの台詞はチェズレイにも投げられたものでもあったのか。理解すると同時に、胸にどっと安堵が押し寄せてくる。モクマがどうしてチェズレイの危機を知って、どうやって助けてくれたかをチェズレイは知らない。でも、そんなことはどうでもよかった。やっぱり、迎えに来てくれた、という嬉しさがチェズレイの心をいっぱいに満たす。するりと背中に腕をまわして、モクマがモクマであることを確かめる。あたたかな体温、匂い、声。その全てを感じる。目頭に熱いものがこみ上げてチェズレイは、思わずモクマの肩に顔をうずめた。


怖かった。


もう二度と会えないかと思った。


***


 少し前にちょっとした事件があったというのに、世界は驚くほど早く平穏さを取り戻す。まるで何事もなかったかのように、景色が、人が、時間が日常に戻っていく。出航した船の甲板に一人佇んで、次第に遠くなる街をチェズレイは眺める。頬をかすめる潮風が強くて、けれど不思議とチェズレイの心は穏やかだった。

 坂の上から落ちた時間、チェズレイが見たのものは何だったのか。本当にあったことなのか、もしくは夢や幻だったのか。ほんの前のことだというのに、すでに輪郭はぼやけ初めて、砂のようにするするとチェズレイの記憶から零れていく。けれどそれを無理に押し留めようとは思わなかった。過去に終わったことは、消えた命は、必要のない限りは暴かないのがチェズレイの主義だ。自らの死を持って美しい箱庭を完成させたのなら、チェズレイはそれ以上に母に何かは求めない。彼女は彼女の出来る限りのことをやったのだ。故にチェズレイは、ひたすらに静かに彼女がいない世界を当然のように受け入れて、生きてきた。今までも、きっとこれからも。

 だからこれはただのチェズレイの我儘だ。幼い記憶にあてられて、誰に求めるもなく、ただ心情を零すだけの。伝えるつもりもない、叶える必要もない、ただの独り言。

 チェズレイは、母のことが大好きだった。出来ることなら、もっとずっと一緒にいたかった。二人で笑いあいたかった。狂気に追い詰められて、自分のことを愛しているのに憎くて堪らないと伝えた彼女のことを、チェズレイを傷つけようとしたことに傷つく優しい彼女が、それでもチェズレイは好きだった。大切だった。愛していた。たとえ仮面をつけていたって、彼女を笑顔にしたかった気持ちはだけは本当だ。

 世界を征服する夢だって、もともとは母の為でもあったのだ。もし世界中がチェズレイの、母の味方になってくれたなら。守れると思ったのだ。母を傷つける全てのものから。守りたかった。最初の一歩を踏み出した時には、もう何もかも遅かったけれど。

 手段であった夢が目的を見失って形だけが先行して。亡き母の姿を追って、また失って。でもやっと、チェズレイにもすべてをかけて守りたい人が出来たのだ。幻の中で、空まで母が迎えにきてくれたように。チェズレイ自身にも。

 もしまた悪い夢に追い詰められた彼女が、再び空の下に落ちるようなことがあったなら。躊躇いなくチェズレイは、空まで迎えにいくだろう。今は一緒に飛び込んでくれる人がいる。例えチェズレイの手をすり抜けたって地上で受け止めてくれる仲間がいる。チェズレイはもう小さな子供でも、一人でもないのだ。誰かを助けることも出来れば、誰かに助けを求めることだって出来る。

 そういえば、一番最初に「おじさんたちが受けとめてあげる」となどと発言したのはモクマで、その頃は「たち」という言葉に疑問しか湧かなかったけれど。本当に「たち」と呼べるぐらいの大家族になってしまったなと世界中に散らばる仲間達の顔を思い浮かべて、チェズレイは一人くすりと笑った。



 チェズレイは、自分の心臓にそっと掌を乗せて、目を閉じる。柔らかで、確かな鼓動を感じた。



 大丈夫だ。ここにある。



 あなたがくれた心は音色となって、今も私と共にある。



 遠くでチェズレイの名を呼ぶモクマの声が聞こえた。振り返って笑いながら、チェズレイは歩き出す。

 母のもとに自分が辿り着くのは、きっと随分先のことになるだろう。闇を統べ、光のヒーローと手を取り合い、多くの仲間と家族を作って、チェズレイは母に会いにゆく。一緒に過ごせなかった隙間を埋めるように、モクマを筆頭にたくさんの人を時間をかけて紹介するつもりだ。


 だから、それまでは。


 チェズレイは心をこめて祈る。


 どうか、のんびりと待っていてくださいね。



悪夢にうなされていた空の楽園のお姫さまは、今度こそ幸せな夢に包まれて永遠の眠りにつきました。

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