息が苦しい。

 氷塊のように冷たく鋭い切っ先が、風になって皮膚を引き裂く。硬く喰いしばった歯から零れる息は浅く、閉じてしまえば二度と開くことのないだろう瞼を懸命に押し上げた。間に合わない。間に合わない。脳裏には激しい警告音がガンガンと鳴り響く。心臓が強く波打ち、全身の血が逆流したみたいに、熱い。肺にうまく空気を送れない。呼吸が出来ない。それでも食い込みそうなほど力強く、胸の中の仄かな温もりを抱きしめる。迫りくる地表に溢れそうになる何かを堪えて、掠れた声で祈るように叫んだ。


おねがい、おねがい。どうか。


このひとをたすけて。


ever after located in the sky.



 モクマとチェズレイが北西のとある国に降り立ったのは、今からおおよそ一年前のことだった。丁度あの日もこんな風に肌寒い天気だったなとチェズレイはふと思い出す。日中はぎらつく太陽のせいでそれなりに気温があがるが、なんせ寒暖の差が激しい国だ。寒さ対策の一環として一応着込んできて良かったなと思うチェズレイの一方で、モクマはタイミングを見計ったようにくしゃみをする。おそらく、寒さのせいで。

「やっぱり羽織るものを何か一つ持ってくれば良かった」
「生憎荷物は今頃全部船の中ですよ。残念ですが、乗船するまでは諦めてください」

 そっけない台詞を吐きつつもチェズレイは、首に巻いていたマフラーを外してモクマに手渡す。モクマの軽装はいつものことで、格段驚くものでもない。以前風邪でも引いたらどうする、と忠告したことはあるが、この方がいざという時に動きやすいのだと反論されて以降、チェズレイはモクマの服装に関してはおおっぴらに言及しないようにしている。言ってもモクマはどうせ耳を貸さないだろうし、なのにこうやって防寒具を差し出せば素直に受け取るところが、何となくチェズレイの心をくすぐるからだ。

 チェズレイとモクマは、世界を征服する為にこの国を訪れたと言っても過言ではない。長年の夢だったその目標にモクマを巻き込んで、そうして今二人はこの土地にいる。今回は特に、この土地を裏側から制圧するのは楽な方だった。それは勿論、チェズレイの交渉術や人心掌握術、時折催眠術をふんだんに使ったせいもあるが、傍らにモクマの存在があったことが何よりも大きい。本来なら数年かかる見込みだった当初の予定よりも、早くこの国を発つことになった。詳細は割愛するが、半分はモクマの功績によるものだ。

「出航するまでに、あと二時間はあるんだっけ」
「ええ。搭乗手続きが存外スムーズにいきましたので」
「んじゃあさ、ちょっくら散歩にでも行ってきてもいいかい?」
「構いませんよ。時間に遅れないようにだけしていただければ」

 了承の意味を込めて頷けば、モクマは右手をひらひらと振ってすぐに立ち去った。遠ざかるモクマの人影を見つめて、おそらくこの国で出会った人と別れの挨拶をする為なのだろうな、とチェズレイは何となく事情を察した。初めてであろうがなかろうが、特にモクマは人の懐に入るのがうまい。最初の頃はそんなモクマが癪に触って触って仕方なかったが、今はもう随分慣れた。チェズレイとの会話の最中、何度か名前があがったあの人だろうか、と心あたりはある。けれどいくらモクマの知り合いだと言えども、チェズレイとは挨拶をするような気軽な関係ではない。

 一人で過ごす最後の時間はこの街並みを目に焼き付ける為に使うことにしよう、とチェズレイは決め、ゆったりと散策を始める。薄藍色に広がる空には、ちぎれちぎれに白い雲が飛んでいる。ゆっくりと視界を下ろせば、おもちゃ箱のような白い石造りの建物が何層も連なる。きっちりとした等間隔で区切られた木々は、寒さのせいかきゅっと縮むようでいて、その青々とした緑が返って鮮やかに見える。元々あった山を切り崩して繁栄した街なので、坂道がとにかく多い。ゆるい勾配の道なりに架けられた石橋の下には、小さな川が流れ下っていた。チェズレイは足元に点々と潜む小さな赤い花を見つける。花屋では絶対に扱っていなさそうな道端の花は、勿論名前も知らないのだけれども、チェズレイの心を静かに和ませた。

 美しい街だ。気候は一年を通してそれほど変わらず、変化は乏しいがそれでも確実に流れるゆるやかな時間。足任せに坂を上ると、かすかに川のせせらぎが聞こえた。昼間に比べて確実に人通りは少ないが、チェズレイと同じようにそぞろ歩きをする者は少なくない。時折聞こえる人の声が、何かの音楽を奏でているみたいだった。振り返れば、昔はこんなふうに街をゆったりと一望する心の余裕は無かったはずだ。モクマと出会う前は。今はもう遠い思い出になりそうだけれど。チェズレイはふと微笑む。先ほどモクマと別れたばかりなのに、もうモクマのことを考えている自分に気づいて。でも仕方ない。だってモクマはチェズレイにとってそういう存在なのだから。

 くつくつと笑ったすぐ後のことだ。遠くから女性の金切り声が大きく響いた。

「だっ…誰か!!子供が!!」

 聞き取れた声をチェズレイが理解すると同時に、坂の上で長い髪を振り乱した女性が叫ぶ。鈍い車輪の音。彼女が押していたであろうベビーカーが手元を離れて、意思をもったように高速で坂を下っていく。無意識にチェズレイの体が動いた。間に合わない距離じゃない。走って走って、ようやく手が届きそうになった瞬間に、ベビーカーの車輪が地面に跳ね、柵を越えて真っ逆さまに落ちそうになる。子供と、目があった。柵を乗り越えてチェズレイが身を乗り出す。持ち手の根本を捕まえる。重みにバランスを崩して、チェズレイの体が同方向に吸い込まれる。まずい、と思った。仕事で使うチェズレイの武器は、もう既に船の中だ。そして今は、モクマがいない。もうこの国を発つばかりだからと、油断していた。傍にモクマがいるからと安心していた。間に合わない。いくら考慮しても、地上までの距離が短すぎる!

 チェズレイには認識のない相手だ。助ける義理もない。だからチェズレイが諦めれば、諦めて手を離しさえすれば、自分だけは助かることも出来た。そういう選択肢だってあった。
 でも、チェズレイは、どうしても。

 出来なかった。

 来る衝撃に身をきゅっと硬直させる。視界から色鮮やかだった景色が消える。そして、暗転。

 想像していた痛みは、驚くほどに全くなかった。

 視界が開ける。チェズレイは固く閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。多少の怪我は覚悟していたが、どうやら無傷に近いらしい。激痛という激痛を感じない。ほっと胸を撫でおろしつつも、先ほどまでしっかりと握っていた感触は消えて、チェズレイはさっと青ざめた。あの子は、一体どうなった?元々チェズレイはあの程度の高さでどうにかなるようなたまではない。けれど、あんなに小さくて柔らかい存在がもしコンクリートに叩きつけられていたのならきっとただでは済まない。どうにかしたくても、でももうどうしようもない。意を決してチェズレイは目を見開く。

 チェズレイが座り込んでいたのは、コンクリートの地面ではなく赤い絨毯の上だった。ふかふかの糸がチェズレイの小さな指をくすぐった。鮮明になる視界の中、広がるのはあの穏やかだった外の美しい光景ではなく、大きな部屋の中だった。大きなソファーとテーブルが部屋の真ん中に鎮座していて、ぐるりと部屋の壁中に飾られた人物画が威圧的な瞳でチェズレイを見る。なんだここは。呆然としたチェズレイがそれでも気力を振り絞って立ち上がる。視線の高さに違和感。俯いて掌を眺めると、そこには決して大の男ではありえない小さな小さな子供の手。嫌な汗が背中をひたりと流れた。気づきたくない気づきたくないと心は拒絶しているのに、結局最後には気づいてしまう。部屋の隅にひそりと息づく、ピアノの存在に。

 唐突に足音が聞こえた。チェズレイはびくりと体を縮ませる。この部屋には、見覚えがあった。見覚えがあるなんてものじゃなかった。出来れば記憶から消し去りたかった。ぞくりと背筋が寒くなった。息遣いが、部屋の扉の外からかすかに聞こえる。何の慈悲もなく当然のように、重い扉が開かれる。

「おはよう、チェズレイ」

 呆然とするチェズレイの喉はからからだった。

 お母様、とだけしか口に出来ないくらいに。



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