「気分転換にみんなで外出してみないかい」

 思いつきのモクマの発言はチェズレイを辟易とさせることが多いが、今回ばかりは妙案であった。なるべく視界に入れないようにと試みたものの、家の中という閉じた空間でやはりあの子という異質な存在感は大きい。鬱々とした気分でひたすら時が過ぎるのを耐えていたチェズレイには藁をも掴む気持ちだった。

 モクマが手配しただろう車に、三人で乗り込む。運転席にはモクマ、助手席にチェズレイ。そして後部座席にはレイと一緒に、いつの間に用意したのやら、大きなバスケット籠。まるで家族でピクニックにでも出かけるみたいだとチェズレイは呆れる。そういえばレイの靴はと思い当たると同時に、それも用意してもらったんだよと当然のようにモクマが言う。体や足のサイズぴったりの服や靴がそうそう簡単に手に入るだろうかとモクマが裏で手を回している気配を察したが、取り立てて困ることはないのでチェズレイは沈黙を貫いた。

 心地良い振動を感じているうちに、車の外の視界がどんどん開けていった。閑静な住宅街を抜ければ、ぽつりぽつりと自然の気配が見えてくる。バックミラー越しにレイの様子を伺うと、興味津々に窓の外を眺めている。初夏の季節を映し出したような青い空の下の一本道。何度通り過ぎても似たような景色が続くなか、それでもレイは楽しそうだ。運転席でハンドルを握るモクマはモクマで音を外した鼻歌を口ずさんでいるし。なんだこの奇妙な空間は。そしてその中で最も不思議だったのは、あれほど張り詰めていたチェズレイの緊張がいつの間にか緩んでしまっていたことだった。



「ここらへんでいいかな」

 モクマが数回に分けてブレーキを踏む。ドアを開けて外に出るモクマにレイが続いた。やれやれとシートベルトを外して、チェズレイも外に出る。出迎えるようにすこし冷たい風が、チェズレイの体を駆け抜けていった。

 一面が緑の大きな草原だった。住まいと呼べるような建物が何一つない、青い空と緑の海だけがただそこに広がっている。風に揺れてまるで本物の波のように草花がうねる。新緑と土の香りが、嗅ぎ覚えもないくせにどこか懐かしいと感じてしまった。

 ありのままの自然であっても、人の手が一切入っていないということではないのだろう。証拠に草原の中にはいくつかの小道があった。ところどころに公園の芝生のように草木が綺麗に刈り取られている部分がある。適当に見繕ったモクマが、おもむろにレジャーシートを広げた。

「ほらほら、チェズレイもレイも座った座った。何か飲む?それとも食べる?サンドウィッチをたくさん作ってきたから、好きなものをたくさん食べな。デザートにはフルーツもある」

 モクマの母を彷彿とさせる言い方に、チェズレイは思わず吹き出してしまった。

「残念ながらお酒は用意していないんだ。お前さんの分だけでもと思ったんだが、絶対に乾杯したくなっちゃうからね」
「結構ですよ。昼酒は大変に魅力的なお誘いではありますが、飲酒運転をするわけにもさせるわけにもいきませんから」

 白昼の下に正論を吐く悪党の姿がやけに滑稽だ。サンドウィッチを二つほど食べ終わったらしいレイは、うずうずとした様子で靴を履き、目的もないままに草原の中を駆けだした。慌てたようにモクマがチェズレイの後を追っていく。レイはチェズレイなのだから、そんなに焦らなくとも絶対にモクマの元に戻ってくるはずなのに。ぽつんと一人残されたチェズレイは、草の中にあっという間に消えていった二人の後ろ姿を見送って、なんの気はなしにぱたりとレジャーシートの上に仰向けに倒れこんだ。

 開け放たれた自然の中に、チェズレイは深呼吸を繰り返す。空が青い。こうやって寝転んでいると、まるでどちらが上でどちらが下か分からなくなりそうだとチェズレイは一人思う。空が落ちてくるような、それとも空に落ちていくような奇妙な浮遊感。時折風が運んでくる緑の匂いを感じながら、チェズレイは目を閉じる。遠くからモクマとレイの笑い合う声が聞こえたような気がするが、今朝のような胸を圧し潰すような感覚はなく、ただただチェズレイの心は穏やかだった。


 一体どれくらいそうしていただろう。


 瞼を落としても眩しかった光が唐突に陰る。白い雲が陽光を遮ったのか、とチェズレイは薄目を開けると、すぐそばにレイがいた。レジャーシートの上で無防備に寝そべるチェズレイをレイが座って覗き込んでいる。その光景に既視感を覚えたが、含み笑いを浮かべるレイにさては何か企んでいるなとチェズレイはすぐに感づいた。

 チェズレイの目の先、つまりは顔の上でレイは両手を重ねている。何を、と声に出すよりも先に一つになっていた指先は解かれ、ぱらぱらと何か小さな物体が容赦なくチェズレイ目掛けて落ちてきた。頬と首筋を何かが触れては擦り抜けていく感覚に、らしくもなく驚愕したチェズレイは勢いよく起き上がった。何だ、一体この子は何をしたんだ。首を振り動かしチェズレイは自分の体周りを確認する。その中に見つけたものは、根本から断ち切られただろう白い小さな花。

「これは」

 一つ拾い上げてまじまじと見つめていると、まあるく目を見開いていたレイが何も言わずににこりと微笑んだ。モクマが間に合わなかったかと肩をすくめて笑っているのが遠目で分かる。

「私に、ですか?」

 チェズレイの問いかけに、レイがこくりと頷く。

「あっちの奥の方でたくさん咲いているのを見つけてね。お前さんに持っていくんだってきかなくて」
「だってこの花、ドレミさんが好きそうだなって思って」

 レイの前でチェズレイは自分の好みを悟られる振る舞いをした覚えは一切ない。が、この子は他ならぬチェズレイ自身だ。そういうこともあるのだろう。花を幾つか集めると、小さな花束が出来た。それは昔チェズレイ自身が母親に贈った花を連想させたが、よくよく観察すれば姿形が似てはいるが全く違う種類の花だった。

「あなたにも似合いますよ」

 花の茎を指先で一つ摘まみ、チェズレイはレイの耳の上の髪の毛の中に差し込んだ。突然のチェズレイの行動にレイは驚いているようだったが、先ほど私を驚かせた仕返しですよとチェズレイが言うと、レイはくすぐったそうに照れ笑いをする。

 ほわりとチェズレイの心臓があたたかさで満たされていくような気がした。喜んでもらえて良かったねとモクマがレイに語りかけ、それにレイが心底嬉しそうに笑っている。いつの間にかチェズレイの唇にも笑みが浮かんでいた。

 帰路につくためにモクマとチェズレイが車に乗り込む頃には、レイは後部座席でぐっすりと眠っていた。あれだけモクマと一緒に走り回っていたのだから当然か。のわりに運転席にいるモクマは大層元気そうだ。某大怪盗にも劣らない体力おばけだという揶揄は勿論口には出さない。真っすぐに進行方向に視線を投げるモクマの横顔をちらりと盗み見ながら、少しだけお時間をいただけますでしょうかとチェズレイはモクマに訊ねた。

「荷物持ちなら任せておいてよ」
「おや。とても頼りがいのあるパパですねェ」

 仮初の家族ごっこをすっかり気に入ってしまっているモクマが少し可笑しい。けれどそれよりもっと不思議なのは、レイに対する後ろ暗い感情がチェズレイの中から霧のように消えてしまったことかもしれない。ハンドルを握るモクマの運転がやはりいつもより緩やかで優しいとチェズレイは思う。ひとたび瞼を閉じてしまえば、まるで揺り籠の中にいるみたいに、心地よくて今にも眠ってしまいそうだった。



 夕食はチェズレイたっての希望で、誕生日にモクマに作ってもらった例のスープがメインとなった。焼きたてのバゲットと一緒に卓上に並んだスープは、ほかほかと湯気を立ててディルの良い香りが辺りを漂う。チェズレイのスープだけ色合いが違うことにレイが顔を上げて反応する。

「駄目ですよ。このスープは大人にしか飲めないスープですので」
「うん。これはちょっとレイには早すぎるなあ」

 二人揃って諫めると、ぷくうとレイが頬を膨らます。自分の思い通りにならずに不貞腐れているようだが、チェズレイやモクマにとっては新鮮な姿に過ぎないので、思わず頬が緩んだ。

「大人になったら一緒に飲みましょうね」

 ほら、いただきますとチェズレイが号令のように声を発すると、納得したのかしないのか渋々といった表情のままレイはスプーンでスープを掬う。流し込んだスープの美味しさに、レイは今までのやりとりなどすっかり忘れたように、ご機嫌な様子で食事を進めている。

「……大人になったらね、か。大人になってもアルコールが苦手だったお前さんが言っていると思うと感慨深いねえ」
「私もまさかこういった台詞を自分が口にするとは思ってもみませんでしたよ」


 決して叶うはずのない約束をすることも。



 モクマとチェズレイが二人で夕食の片付けをしている最中、始めは大人しく一人遊びをしていたレイだったが、いよいよ退屈になってしまったらしい。ポーンとピアノの音がリビングから聞こえた時にもチェズレイは特には驚かなかった。チェズレイがあの年の頃には、もうそれなりの曲をいくつか弾けていた。思い当たる音楽の旋律を小さなレイがなぞっていく。自然とモクマとチェズレイの食器を拭くスピードも合わせて早くなった。

「ニンジャさんはピアノは全然なんだよね。三味線ならそれなりなんだけど、ピアノはドレミさんがすっごく上手なんだよ。レイも聞いてみたくない?」

 モクマお得意の誘導尋問だったが、チェズレイも割と乗り気だったのであっさりと承諾した。席を譲ろうとするレイに、一番近くで見てはみませんかとチェズレイは提案する。邪魔にならない?と伺うようにレイはチェズレイに訊ねたが、当たり前ですよとチェズレイは肯いた。

 大人のチェズレイには演奏出来て、今のレイにはまだ弾けそうにないもの。選ぶべき曲の見当はすぐについた。息を整え、耳をすます。ポーンと小気味のいい音が響いて、そのままにチェズレイは指を滑らせた。旋律を追うように、想いを乗せるように。心地よい穏やかなリズムにしばし没頭する。短い曲だ。しばしの余韻に浸っていると、興味津々といった形でレイが両手を鍵盤の上に掲げる。楽譜もないのにレイは見よう見まねでチェズレイの曲を諳んじて弾いてみせる。

「そう、そうです。とても上手ですよ」

 真剣にピアノと向き合うレイを目の前にすると、つい応援したいという気持ちが湧き上がってくる。そしてレイもそんなチェズレイの声援に応えるように、懸命に小さな指で鍵盤を弾く。たどたどしくも何とかレイの演奏が終わったと同時に、ぱちぱちと後方から乾いた音が響いた。

「ブラボー!!」

 途中から完全にモクマの存在を忘れていたチェズレイだったので、賞賛を湛える拍手が少し気恥ずかしい。一方モクマに褒められて素直に嬉しいらしいレイはにこにこ顔だ。

「思わず聞き惚れちゃったよ。いっぺん聞いた曲をここまで弾けちゃうなんて流石だ」
「フフ。まァ…この子は私の……いえ、私ですからねェ」

 うっかりおかしなことを口走ってしまいそうになり、チェズレイは慌てて訂正する。チェズレイの様子に二人は気付いた様子もなく、モクマはレイにアンコールをお願いしている。緩やかに通り過ぎてゆく時間が、いつの間にかチェズレイの心に安らぎをもたらしている。胸の内が何か熱いもので満たされていく反面、ああ、やってしまったなあとチェズレイの頭はとても冷静だった。



 ピクニックの帰りがけに寄った大きなショッピングモールでは、レイの為に枕を一つとパジャマを購入した。いくら気が利く部下とはいえ、きっとそこまでの用意はしていないだろう。受け取ったモクマも、そういえばとすぐに得心した。パジャマはチェズレイが、枕はモクマとレイが一緒になって選んだものだ。

 モクマに抱きかかえられて出てきたお風呂上りのレイの髪を、チェズレイが櫛で梳きながら乾かしていく。何が楽しいのか小刻みに動く姿は、まるで金色の子犬がじゃれているみたいだった。

「ドレミさんみたいに髪を長くしてみたいなあ」
「おやおや。綺麗な髪を作るには栄養のある料理と、適度な運動。そして何よりも睡眠が大切なんですよ」

 まだ眠くないとぐずるレイをチェズレイがそれとなく説得する。レイがチェズレイの髪を美しい宝石にでも触れるみたいに優しく触って、それなら我慢して寝る、と意を決したように宣言するものだから。良い子ですねとチェズレイはまだ少し熱を持つレイの頭を優しく撫でた。

 二人では少し大きすぎたベッドも、三人で使うには丁度良かった。左端にモクマ、右端にチェズレイ。そして真ん中にはレイが。今日は楽しかったかい?とモクマが訊き、楽しかったとレイが肯く。また三人で遊びに行きたいと無邪気に告げるレイに、行けたらいいですねェとチェズレイが答えた。

「どうしよう。楽しみで眠れなくなってきた」
「それならばニンジャさんに子守歌をうたってもらえばいいですよ。大変お上手ですので」
「またそんな無茶ぶりを。……さてはお前さん、さっきのことを根に持ってるね?」
「さァ……何のことでしょうか」

 分かりやすく惚けるチェズレイにモクマは苦笑いをしながらも、リクエストに応える。車の中で耳にしたものとは違って、今度はちゃんとした歌詞も音程もあった。曲調から察するに、おそらくモクマの母から昔聞かされた曲か何かだろう。微妙に音を外しては歌詞をうたい直すモクマに、くすくすと笑っていたレイがこれまた出鱈目な歌を合わせていく。何という不協和音。眠気がおとずれるどころか飛び去ってしまいそうな不思議な音楽を聞きながら、それでもいつしか意識が途絶えるようにチェズレイは眠ってしまっていた。

 初めて耳にしたはずのその不出来な子守歌は、とても優しい音色をしていた。





 チェズレイはもう、自分が何処にいるかを知っていた。

 丸いテーブルの上には、空のティーカップがやっぱり一つだけ残されていた。はっとしてチェズレイが顔をあげると、見えたのは少し遠くに立つ母の姿。いつの間にか隣で大人しく座っていたはずのレイが、母の姿を見つけて立ち上がり一目散に走り出す。横から温かなぬくもりが風の様に去っていくのをチェズレイは肌で感じていた。

 レイが母親に嬉しそうにくるくるとまとわりつく。しゃがみこんで小さな子どもを全身で抱きしめた彼女には、あの時のような悲壮な表情はもうなかった。母は静かに立ち上がり、もう二度と離すまいというようにレイの手を握る。彼女の明るく穏やかな微笑みが、チェズレイの胸を小さく打った。



 預かってくれてありがとう。



 最初に出会った時と同じように、再び彼女はチェズレイに向かって深くお辞儀をする。母親の所作を真似して頭を下げ終えたレイが、屈託のない笑顔を浮かべたまま、チェズレイにひらひらと手を振った。

 夢は、そこで途切れた。



 チェズレイが次に目を覚ました時に、やっぱりモクマは呑気に眠っていたし、それはいつもの光景で二人のいつもの日常だった。たた一つ違うのはチェズレイとモクマの間には持ち主のいない小さな枕が残されていて、子ども一人分の空間がぽっかりと空いていたことだ。



inserted by FC2 system