チェズレイは一瞬、自分が何処にいるのか分からなくなった。

 とある喫茶店の開放的なテラスには、いくつかの丸いテーブルが置かれている。中心部の差込口からはラウンド型のパラソルを通して、眩しい太陽光の代わりに濃い影をチェズレイの手元に落とした。近くには大きな通りがあり、せわしなく車と人が行き交う。休日ということもあるのだろう。家族連れが多いなとチェズレイはティーカップを手に取り少し冷めた紅茶に口を付けた。

 果たしてチェズレイは一体何のためにここにいるのか。緻密な計画を立てては正確に遂行していくチェズレイにしてはありえない疑問だった。そうだ、人と会う約束をしていたのだった。思い出してチェズレイは顔を顰める。どうもおかしい。チェズレイがここにいるという事実が先行し、理由がまるで後から追ってくるような奇妙なちぐはぐさを感じる。自身の違和感を証明するかのように誰かとここで会う約束をしていたチェズレイは、その誰かの名前を未だ口に出せずにいた。

 どこからか視線を感じて、ティーカップをテーブルに置くと共に顔を上げる。チェズレイと同世代くらいの、疲れた表情の女がこちらを見ていた。彼女の片手に繋がれた七、八歳くらいの小さな子供が、道端で佇む女の顔を不思議そうに見上げている。おそらくチェズレイは彼女と待ち合わせていたはずで、なのに喉まで出かかっている女の名前が思い出せない。

 女と子供がチェズレイに距離を詰める。見覚えのある懐かしい顔だ。


 どうか一日だけ預かってください。


 そう言うと女はチェズレイに向かって深くお辞儀をする。何と答えれば良いのか、チェズレイには分からなかった。それどころか口の中がからからに乾いていて、一言も声を発せなかった。



 息苦しさにチェズレイが目を覚ますと、モクマが大きく口を開けて眠っている最中だったので、その呑気さに思わず脱力した。昨晩眠りにつくのが遅かったせいか、それとも日々の疲れが溜まっていたのか。随分とおかしな夢を見たものだとチェズレイは思う。バイオリズムを計算して設定した起床時間よりも大分早い。もう一度眠るにしては微妙な時間だし、かえって体調を崩しそうだ。チェズレイが静かに体を起こすと同時に、モクマが大きく寝返りを打つ。相変わらずの豪快な寝相だなと考えていると、毛布の中にモクマとは違ったふくらみが盛り上がっていてチェズレイはぎょっとした。

 対抗組織の刺客という可能性が瞬時に脳をよぎったが、となればチェズレイが無傷であることはおかしい。それはモクマも同じで、いくら就寝中といえどもあからさまな侵入者に何の反応も見せないということなどあるものか。いくつかの疑問が浮き上がったものの、チェズレイは躊躇いなくベッドからブランケットを引きずり下ろした。


 正体を現したそれが、僅かに蠢いた後にむくりと起き上がる。


 チェズレイが想像していたよりはるかに小さい身体だった。……子どもか?眠そうにおっとりと目元をこする様子は、送り込まれた刺客にしてはいくらなんでも無防備がすぎる。かちりと子どもの眼差しとチェズレイのそれが重なった。


 チェズレイは驚きのあまり声を失って目を瞠る。


「……チェズレイ?まだ起きるにはちょいと早すぎない?」

 寒さを感じてモクマも目覚めたらしい。ふああと欠伸をしながら背伸びをするモクマだったが、縋るような四つの目に流石に不審に感じたらしい。ベッドに座ったままでチェズレイの顔を凝視し、次いでモクマにとっては全く面識のない子供の姿を見留てぴたりと動きが止まる。

「えっと、チェズレイ。見たこともない子どもが紛れ込んでるみたいなんだけど、お前さん何か知ってる?」
「存じませんよ。大体子どもの扱いはモクマさんの方がお上手でしょう。気になるのなら直接伺ってみればよろしいではありませんか」

 チェズレイ自身が動揺していたせいもある。棘のある言い方だったが、モクマもそれどころではなかったようだ。それもそうかと必死に自分に言い聞かせている。それでも気を取り直したようにモクマは、よくヒーローショーで見せる表情を作りながら、今の今まで一言も喋らなかったその子どもに優しく語りかけた。

「おじさん、モクマ・エンドウっていう名前なんだ。ミカグラっていう歓楽で有名な島があって、そこのマイカの里っちゅうところから世界中を旅している最中だ。それでこうして君にも出会えたんだろうけど、是非ともお友達になりたいから、まずは君の名前を教えてくれないかい?」

 流石は人たらしのモクマだとチェズレイは思う。例え子どもであろうとも、するりと相手の懐に入るのが上手い。証拠に、不安そうにきょろきょろと瞳をしきりに動かしていた子どもから、怯えや緊張が消え去ったのが分かる。

「……レイ」
「ごめんね~。おじさん最近耳が遠くて。もうちょっと大きな声で言ってくれると助かるんだけど」
「名前はチェズレイ・ニコルズ。北の国の、ヴィンウェイっていうところに住んでる」

 おじさんはヴィンウェイっていう国のこと知ってる?と首を傾けて尋ねるその子どもを前にして、モクマが完全に固まっている。それもそのはずだ。だってそんな情けないモクマの様子を眺めているのもチェズレイ・ニコルズであって、心配そうにモクマの顔を見上げる子ども同じくチェズレイ・ニコルズだから。

 私のことは私が一番よく知っている。

 チェズレイが夢だと信じて疑わなかった世界で出会った女。この私がその顔と名前を忘れるなんてあり得るはずがなかった。彼女の名前はサティア・ニコルズ。やつれ切った姿であっても見間違えようもなく、チェズレイの母だ。

 とんでもない事件や事故に巻き込まれることは生業柄二人にはとてもよくあることだ。だが、ここまで前代未聞で厄介なパターンはモクマやチェズレイですら初めてだった。

cradle song



 こめかみにつきりと電流のような痛みが走り、思わずチェズレイは目を閉じた。起き抜けの空っぽの胃に鎮痛剤を流し込むような苦行を強いることは出来ず、チェズレイは静かに呼吸を整えることによって頭痛をやり過ごす。占有する形でリビングのソファに全身を預けていると、かちゃかちゃと食器の触れ合う音がかすかに聞こえる。ついでに明るい二人分の笑い声も。

 洋風の格子窓から射す陽光は眩しく、低気圧が原因の痛みとは考えにくいだろう。頭痛の原因は分かっている。チェズレイという名の幼い頃の自分と瓜二つのあの子どもだ。チェズレイの日常は所謂一般人からしてみれば非日常にカテゴライズされるものだが、それにしたってあの子どもの存在はイレギュラーがすぎる。

「チェズレイ、調子はどう?朝食は取れそうかい?」
「……ええ、何とか」

 キッチンから上半身だけ壁から出しながら声をかけるモクマに、瞼を持ち上げてチェズレイは応える。同時に、エプロン姿のモクマの陰からはあの子どもの姿が。

「お前さんもお腹がすいただろう。もう間もなく出来るからね」

 今のは大人のチェズレイではなく子ども姿のチェズレイに告げたものだ。うん、と嬉しそうに頷いて、ぎゅっとモクマの服の裾を掴む。モクマはモクマで楽しげにその子どもの頭を掻き撫でて、そんな二人の様子に何故かチェズレイの胸がざわついた。




 これは一体どういうことなんだ?


 三つ巴のままベッドの上での硬直状態が続き、耐え切れなくなったモクマが目でチェズレイに訴える。説明を求められても、明確な答えなどチェズレイは持ち合わせてはいない。唯一の心当たりと言えばチェズレイの夢のことになるのだが、荒唐無稽すぎて果たして信じてもらえるかどうか。けれど信用してもらえるかはさておき、伝えるべきことではあるのだろうとチェズレイはかいつまんで夢のあらましをモクマに説明する。

「ちゅうことは、お前さんはお前さんのおふくろさんの子どもを預かったと」

 お前さんもおふくろさんの子ではあるんだけど、不思議なこともあるもんだねえとあぐらをかきながらモクマは相槌を打つ。意外にもモクマがすんなりと納得してくれたことにチェズレイが怪訝な顔をしていると、表情で察したのかモクマがだってさと両肩をあげた。

「赤の他人が同じ布団を使ってたらいくらなんでも俺だって流石に気づくよ。でもさ、お前さんも見てたから分かると思うけど、お前さんが布団をひっぺがすまでおじさんぐっすりだっただろう?この子が本当にお前さん自身だって言うんなら、それにも説明がつく」

 モクマがチェズレイと一緒にいるときだけは警戒心が解かれていることを暗に仄めかされ、チェズレイの口元が嬉しさについ緩んでしまう。それを察したモクマがえへへと笑った。

「約束が一日だけなら、とりあえず今日はこのまま様子を見てみんかい。もし一日たっても状況が変わらないのなら、その時はその時にまた考えればいい」
「モクマさんは懐が大きいのか、それともただの鈍感なのか。……おそらく後者だな」
「おーい、聞こえてるよチェズレイ。そういうのは心の声で言おうか」
「おや。それではモクマさんに私の気持ちが伝わらないではありませんか」
「何でもかんでも言葉にすればいいってもんじゃないからね」

 しょげるモクマの姿についチェズレイは吹き出して笑ってしまう。それを了承と受け取ったのか、モクマが成り行きを黙ってみていた子どものチェズレイに手を伸ばしてくしゃりとその髪を撫でる。

「……モクマ、さま?」
「さまだなんて、そんな大層な敬称はいらんよ」
「じゃあ、モクマさん」
「うーん。高さは違うとは言えやっぱりチェズレイの声だから、同じ呼び方だと混乱しそうだな。……そうだ、おじさんのことはニンジャさんって呼んでくれるかい?」
「ニンジャさん」
「そう。そんでもってこっちの人は、ドレミさんって呼ぶと良い」

 またそんな適当過ぎるあだ名を。けれどモクマに憤慨するよりも前に、ドレミさんと嬉しそうに子どもがチェズレイの向かって呼びかけるものだから。チェズレイは黙って頷くしかなかった。




 幼いチェズレイは意外にもすぐにモクマに懐いた。

 とりあえず一緒に顔でも洗いに行こうかとモクマが声をかけると、子どもは一つ返事で頷いた。言われるがままにベッドから降りると、素直に洗面所に向かうモクマの後を追っていく。寝室から二人分の気配が消えて、チェズレイの体にどっと疲れが押し寄せてきた。狼狽と緊張。どちらも心当たりがあるものだ。子どもには隠し通せた自信のあるチェズレイの心境は、モクマには容易く気取られていたのだろう。全く。モクマの前だけでは仮面の詐欺師という二つ名も形無しだ。

 二人が用を済ました後に入れ替わるように洗面所にチェズレイが入る。鏡面に映った自分の顔が、一瞬夢の中の母の面影と重なってぎくりと体が強張った。チェズレイは母親に良く似ている。それは姿形だけではなく、おそらく内面も。ふ、と息を抜いて笑った。何を馬鹿なことを考えている。チェズレイはチェズレイであり、母とは違う。頭では理解しているのに、何気なくチェズレイは鏡の表面に手を乗せて、未だ戸惑いの色を浮かべるもう一人の自分に問いかける。



 あなたは誰だ?



「ドレミさん」


 ソファに深く寝そべったまま、ぱちりとチェズレイは目を見開く。気付けばあの子が、ソファの背面越しにチェズレイの様子を窺っていた。

「ニンジャさんが朝ごはん出来たよって、ドレミさんに伝えてきてほしいって」
「……おや、それはどうも。今行きますよ」

 チェズレイが回想にふけっている間にもおかまいなしに時間はぐんぐん進んでいたらしい。子どもに先に行ってもいいと促して、普段なら絶対に見ることはない自分の後ろ姿を見届けてからチェズレイは静かに立ち上がる。両頬をぱんと掌で叩き、しっかりしなくてはと自身を諌めた。

「レイ、美味しいかい?」
「うん。この出し巻き卵っていうお料理。甘くて美味しい」
「そんなに気に入ったんならおじさんのも一つあげよう。そら」
「……っ…いいの?」
「勿論だよ」
「嬉しい。ありがとう、ニンジャさん」

 子どもの扱いが上手いモクマのことだから、打ち解けるまでさほど時間がかからないだろうと予想していたがまさかこんなにも早いとは。はたから見れば完全に仲の良い父と子のやり取りではないかとチェズレイは味噌汁をすすりながら考える。子供用の椅子などこの家にあるわけもないので、いくつかのクッションを積み重ねてモクマはチェズレイを食卓の前につかせた。モクマの為すがままになっている子どもを見留てチェズレイは、果たして幼い頃の自分はこんなにも警戒心が薄かっただろうかと疑問に思う。そして、何より一番気になるのは。

「モクマさァん。その、レイという呼び方は一体どのようなご趣向で?」
「うん?ああ、これね。やっぱりチェズレイって名前の人間が二人いると呼びにくいと思って。この子は下の方の名前で呼ぶことにしてみたの。レイもそれで良いって言ってくれたし」

 それではモクマとチェズレイの呼称を変えた理由がまるでなくなるではないか。とは考えつつも、さすがに自分に自分のことをチェズレイさんと呼ばせるのは気が引けただろうから、結局はこれで良かったのだと思い込むことにする。レイっていう名前も素敵だよねと子ども相手に早速口説き始めたモクマを無視して、チェズレイは子どもの様子を隈なく注視する。来客用の間に合わせの食器は勿論大人用ではあったが、卒なく使いこなしているあたりマナーは完璧だった。

 チェズレイの舐めるような視線を感じ取ったレイが、ふと顔をあげチェズレイを見やる。そして真っすぐにチェズレイを見つめたまま、ふわりと笑った。

 その笑顔を見た途端、チェズレイの中にごうごうと燃えるような感情が沸き起こった。と同時に、治まりかけていた頭の痛みがぶり返す。食事の手を止めてチェズレイが顔を歪めると、慌てたようにモクマがチェズレイがいつも愛用している頭痛薬を持ってくると席を離れた。慌ただしい中、真向いに座るレイは黙ったままチェズレイの顔を心配そうに見上げている。

 射抜くようなその視線が、またもやチェズレイの心臓をぎしりと軋ませた。



***



 しばらくして薬が効いてきた。

 頭を縄でぎりぎりと縛られるような痛みがようやく落ち着き、チェズレイは大きく深呼吸した。時刻を確認すると、朝の十時を過ぎる頃だった。少し休みすぎたか。とはいうものの、この地域を牛耳るにあたり今はまだ調査の段階なので、取り立てて忙しいというほどでもない。一時的であろうが子どもを預かるなどという悠長なことをモクマが言えたのも、この点が大きいだろう。

 朝食を終えると同時に籠っていた自室から廊下に出ると、玄関先から話し声が耳についた。普段、部下が定例報告にやってくる時間だった。体調のすぐれないチェズレイの代わりに進んでモクマが対応してくれたのだろう。チェズレイがモクマの場所に辿りついた時にはもう全てが終わっていて、部下達も丁度帰ってしまったところだった。

「もう少し休んでても良いんだよ」
「いえ、これ以上休養を取りますと私の体内時計が狂ってしまいますので」

 モクマがさりげなくチェズレイの体を労わってくれるのはありがたいが、それ以上に気がかりなことがあった。モクマが手にしている大量の紙袋だ。

「チェズレイの親戚の子どもを預かってるって伝えたら、何だかみんな色々用意してくれたんだよねえ」

 薄々察していたがチェズレイの知らないところであの子に更に勝手に設定を付け加えて、あまつさえそれを外部の人間にほいほい教えるだなんて。情報漏洩もいいところだ。

「あのくらいの年齢の子なら、いくつ服があっても足りないだろうしね」
「おや。私はそうそう服を汚すようなお転婆ではありませんが」
「飛行船や列車から飛び降りるのは、お前さんの中ではお転婆に含まれないのかい?」

 チェズレイの負けだった。むうと軽く膨れるチェズレイをよそに、モクマはがさごそと紙袋の中を弄る。

「パズルと絵本とお絵かき帳もある。クレヨンなんて随分懐かしいなあ」

 幼稚園児じゃあるまいしそんな子供だましの道具を嬉しがるはずがない。というチェズレイの予想をよそに、レイは突然のプレゼントをいたく喜んだ。おもちゃの入った紙袋を受け取ってすぐに、中身を広げてどれで遊ぼうかと吟味し始める。モクマは満足気だがチェズレイとしては妙に納得いかない。私は、私が幼い頃はこんな子どもだっただろうか。父の仕事に役立てるような大人顔負けの神童だった自分が、まるで子ども扱いされることを心底喜ぶような。

 モクマと違ってどうにもこうにもチェズレイはその子どもに馴染めそうにもなかった。何にでも変装し、誰にでもなれるはずのチェズレイが。レイの姿を視界に入れるだけで、途方もない不快感が全身にこみあげてくる。……不快感?ああ、そうかとチェズレイは思った。


 嫌いなのだ。チェズレイは、あの子どものことが。


 どうしてかは分からないが。あの子がチェズレイに笑いかける度に、嫌悪の感情が溢れ出て止まらない。見ているだけでおぞましさが背筋を這い上がり、吐き気すら込み上げてくる。

 夢の中の母との取り決めは、たった一日だけだ。そんな僅かな時間すら今のチェズレイには拷問のように感じてしまう。

 リビングの床にぺたりと座り込みながら嬉々としてレイが真っ白な紙面にクレヨンを滑らせる。上手だねえとモクマが褒めて、チェズレイにほらと出来上がった絵を見せてくる。いくつかの名画の模写の中、突如現れた異質な絵。赤い炎の中に黒い人影が躍っているような光景をモクマは、童話のワンシーンかなと笑ったが、チェズレイだけは黙って胸の内でそれを否定した。


 ああ、この子はやはり私だ。


 鏡を見るまでもなく、今のチェズレイはきっと酷い顔をしているだろう。



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