レイが姿を消してから数日後、二人は相変わらず慌ただしい毎日を送っていた。近隣の諸国を後方から制圧していく準備も整い、侵攻も本格的になる。情報と策略を巡らせては繰り広げられる激しい肉弾戦と攻防。ヒーローズへの絶え間ない支援活動と裏のルートを開く為の数々の闇の取引。チェズレイとモクマにとってはすっかり元通りの生活だった。

 レイのことについてモクマと会話する機会も、今はもう大分減った。

 レイが使用した服や靴や枕はまだ残してあったが、いずれ処分するつもりだ。持って帰ってくれても良かったのにとチェズレイは思ったが、この世界で命が尽きた時に何一つ抱きしめていけぬように、きっとそれが道理なのだろうと納得した。母の時にもそうしたように、チェズレイは一つ一つの遺品を躊躇わずに消してゆく。

 レイが贈ってくれた花をチェズレイは一度は受け取ったが、そのままその場所に残してきた。同じ花が咲き誇るあの草原から、仲間や家族から引き離すのはやめましょう。少し悲しげな表情をしたレイにチェズレイは続けて言った。でも、あなたの気持ちは本当に嬉しかったですよ。心からのチェズレイの本音を感じとったのか、全身で喜びを表すレイの姿がひどく印象的だった。

 チェズレイという名は草地で戯れるという意味で母がつけてくれたものだ。幻のようなあの日の草原の中、駆け回るレイの姿がチェズレイの脳裏に淡く浮かぶ。その記憶もいつしか跡形もなく消え失せるだろう。数多の仮面を駆使するチェズレイは、自らの存在を残せないし誰の中にも残さない。そうやってチェズレイは生きてきたし、これからも同じ道を生きていく。

 本棚の整理に至ったのは、この地域を完全に制圧する目途がついたからだ。拠点としていたこの家からもそろそろ撤退の頃合いだ。世界を転々とするチェズレイとモクマは、常日頃からなるべく物を持たないように心がけているのだが、何にでも興味が尽きない二人だ。ついつい気になる書籍があろうものならすぐに手に取ってしまう癖が仇となった。

 必要なもの、そうではないもの。振り分けながらチェズレイは、棚にぎっちり挟み込まれた本を丁寧に取り出していく。モクマはリビングで天井近くの高い照明器具を掃除中だ。これはモクマが購入した本だから、処分の是非を後で彼に問わなければ。選別を始めてから数十分後、あともう一息で終わるというところだった。

 分厚い本と本の間に、ひそりと隠れるように親指ぐらいの背幅の白い冊子が見えた。なんだろうこの本は、と首を傾けながらチェズレイは紙の束を抜き出す。あっとチェズレイは声をあげそうになった。可愛らしい絵柄が表紙になったその厚みは、レイが二人の元にやってきたときに遊びに使ったお絵かき帳だ。レイとの思い出が残る物の中、ずっと探し続けて結局最後まで見つからなかった画帳。まさかこんなところに隠れていようとは。木は森に隠せとはよく言ったものだとチェズレイは少し苦笑いした。

 手袋越しに少しだけ懐かしむように、チェズレイは厚紙を捲っていく。現れたのは相変わらず本物の絵画の特徴をよく捕らえて描かれた絵だ。ピアニストの他にも画家という選択肢もあったのではないかなと、幼少期から芸術の才覚を持ち合わせていたレイのことを思い返す。決して有り得ない未来ではあるが、一人空想を抱くのは存外に楽しかった。一枚一枚大切に捲っていった先に、あの炎に包まれた黒い人間の絵が出てきた。けれど不思議と今のチェズレイはその絵を前にしても、苦々しい感情は沸き起こらなかった。

 記憶にある限りでは、レイが描いた最後の絵だった。

 その割にその白紙の表面にやや膨らみがかかって盛り上がっている。不審に思ったチェズレイは、ぱらりともう一頁、レイが残した画帳を捲った。

 そして、チェズレイの瞳に飛び込んできたのは一面の緑の草原だった。青々とした空の下に高く伸びる草の中、黄色い光の中に舞う天使の羽のようなものは、きっとあの時の白い花だ。いつの間にこんな絵を。驚きながらチェズレイは震える指でもう一枚用紙を捲る。

 あ、と小さな声がチェズレイの唇から零れ落ちた。

 大きなピアノが画用紙の中心になって、真ん中の椅子にはレイとチェズレイが一緒に並んでいる。何故か後ろ姿で描かれた二人は、その表情は良く見えないものの、レイが真剣に鍵盤を叩いている最中だと分かった。ひたむきなレイに視線を落としたチェズレイの唇が、僅かに微笑んでいる。そしてそんなチェズレイとレイのすぐ傍らには、優しい瞳をしたモクマの姿が。

 薄い水膜がじわりとチェズレイの目に浮き上がって、次第に視界がぼやける。唇を噛みしめながら堪えたチェズレイは、紙面の間からはらりと落ちた何かを掌で受け止めた。

 白く小さな花だった。押し潰されて形が幾ばくか変わっていたが、分かる。レイがチェズレイに贈ってくれた、チェズレイがレイに差し出したあの花だ。

 ぽたりと水滴が落ちて紙面がじわりと滲んだ。ぽたり、ぽたりと優しい雨のように、チェズレイの瞳から堪えきれない涙が零れた。これではレイから貰った花をわざわざあの場所にやっとの想いで残した意味がないじゃないかとチェズレイは嘆いた。

 こんな大事なものを手元に残したら、絶対に泣くと分かっていたから置いてきたのに。

 ぼろぼろと大粒の雫を頬に滑らせるチェズレイの前に、掃除を終えたらしいモクマがやってきた。へたりと床に座りこみながら涙を流すチェズレイに気づき、慌てた様子でチェズレイに近寄る。モクマさん、これを、と声にならない声でチェズレイはモクマにあの日の記憶を差し出した。

 チェズレイには内緒にしてほしいってレイからお願いされていたから黙っていたんだけどね、と優しい声音でモクマが打ち明ける。

「あの世界のみんなは、誰もお母さまに優しくしてくれないから嫌い。でもニンジャさんはドレミさんに優しくしてくれるから、好き。ドレミさんは少しお母さまに似ていて。ニンジャさんと一緒にいるとドレミさんは笑ってくれるから。優しいニンジャさんも笑顔のドレミさんも、大好き」

 レイはチェズレイに優しく笑いかけていたモクマだからこそ、あんなにも心を許したのだ。

 夢の中で出会った母の姿が瞼の裏に蘇る。あの時の彼女の言葉の真の意味が、今のチェズレイには分かった。チェズレイが母から預かったのは、レイの存在だけじゃない。


 チェズレイが本当に彼女から預かったのは、母の心そのものだ。


 あの頃の母は本気でチェズレイのことを疎ましく思うこともあったのだろう。その証拠にチェズレイは、モクマの心と目を奪うレイに心の底から嫉妬した。モクマの気を引くレイのことが羨ましくて、憎らしくて。レイはチェズレイにずっと心を傾けてくれていたのに、それを受け止められずにその手を払いのけてしまいそうな自分が、醜い自分が嫌で嫌でたまらなかった。

 板挟みの葛藤の中、それでもチェズレイがあの子のことを愛しいと思ったことも真実だ。レイの笑顔が好きだった。心を満たすようなあの柔らかな表情でずっと笑っていて欲しくて、小さな掌を握っていたくて。レイの小さな体をきつく抱きしめて温かなぬくもりをもっとずっと感じていたかった。

 憎らしくて愛しくてないまぜになった胸の中で悲鳴をあげて泣いていたチェズレイに、子守歌をうたってくれた優しいあの子とひと時だって離れたくなかった。あの子を手放したくなかった。

 お別れなんて本当はしたくなかった。

 それでも縋る小さな手を振りほどいた母の中に、確かに愛はあったのだと。

 過去の母がチェズレイの抱いたはずの感情を、今のチェズレイには痛いほど理解出来るのだ。


 なんだ、ちっとも元通りではないじゃないかとチェズレイはモクマの腕の中で泣きながら笑った。預かっていた心を返したはずなのに、こんなにもやるせない感情を残していくなんて。心残りを置いていくだなんて。掌の中に小さな花をそっと包んで思う。それでも胸がはちきれんばかりの優しくて幸せな思い出が確かにあったから。だから願わずにはいられない。

 きっと困難が待ち受けるだろうあの子の未来に、それでも溢れるくらいの幸福が降り注ぎますように。

 私はあなた。世界中の誰より我が子を愛したひと。あの子は私。私が誰より愛してやまない母の子だ。



 チェズレイが肌身離さず持ち歩いている物の一つに押し花がある。大切な人から貰ったその宝物は、つい最近二つに増えた。



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