モクマと同じ道を歩み始めてから気づいたことだが、モクマは自身の持ち物が極端に少ない。そういうチェズレイも通常携えている手荷物は多くはないが、それは有り余る物品から肌身離さず持ち歩きたいものを厳選している為だ。必要なものは然るべき場所に厳重に保管してあるし、そもそも取っておきたいものが物理的にほぼないモクマとは決定的に違う。

 けれどモクマのこれまでを鑑みてみれば、その行動原理は理解出来なくもなかった。自らに絡むありとあらゆる縁を切り捨てようとしていたモクマは、誰かとの強い繋がりを想起させる物はなるべく手に取らない。出会った頃に比べたらモクマの変化には目を見張るものがあるが、数十年染み込んだ癖はなかなかに抜けないのだろう。無意識に一度きり使える物ばかりを選ぶ彼は、そうして徐々に自身の心をも消耗品の如く静かにすり減らしてきたのかもしれない。

 そんな経緯があったものだからモクマの懐から見慣れないカードが零れ落ちたとき、チェズレイは純粋に驚いてすらみせた。不躾に追った視線にモクマは気を悪くするでもなく、ああ、これ? これはね、最近見つけたお弁当屋さんで貰ったポイントカード。うん、そう。お前さんも気に入っていたお惣菜のお店の、と笑いながらチェズレイに向かって説明する。一定価格以上購入する度に一つポイントを貰えるというそのカードは、四角形の枠が二十個ほど整列している。弁当屋のロゴと思わしき絵柄が埋まっていたのはそのうちの三つだ。

「ほら、ここに小さく書いてあるんだけど、これを全部貯めると素敵なプレゼントなんかが貰えるらしくてね」
「それはそれは。何をいただけるのか実に楽しみですねェ」

 実際のところそのポイントカードが最後の欄まで満たせるどうかは、チェズレイの世界征服の進行具合によって大きく左右される。しばらくはこの地に留まる予定ではあるが、状況次第では即刻この国から立ち去ることも可能性としてない訳でもない。だが敢えてそれを指摘せずにチェズレイはモクマの話に乗ったのだ。

 絶対に叶えたい夢の他に、子どものように実現出来るかも分からない絵空事をモクマと二人で語り合うのも悪くはないと思えたから。

 ある日のことだ。モクマが掌サイズの四つ折りにした厚紙をチェズレイに手渡した。中を見てみてと促されるままに開くと、これまでに何度も見過ぎたせいでチェズレイなら目を瞑ってでも描けそうな、何の変哲もない世界地図が現れた。唯一異なる点があるといえば、地図記号でも国旗でもない不可解なマークが点々と散らばっていることだ。目を凝らして確認したマークはどうやら二種類あって、それぞれ赤い紅葉と水色の花の形を象る輪郭がうっすらと滲んでいる。

「このマークは、私達がこれまでに制圧してきた国と関係がありそうですねェ」
「ビンゴ。改めて眺めると感慨深さとか達成感とかがあるもんじゃない?」
「フフ」
「そんでもってこれがお前さんの分で、これがおじさんの分ね」

 言われるがままにチェズレイはモクマから小さな木片を受け取った。人差し指ぐらいの長さの固い四角柱の底面には、地図の中に見たものと同じ花のマークが深く刻まれている。そしてモクマの手の中には赤い紅葉マークのものが。おそらくこれはモクマの手作りなのだろう。手先の器用さにかけてはチェズレイだってモクマには負けてはいないが、モクマの手がけたものはいつだって不思議な温かみがある。チェズレイの白い手袋を汚さないくらいに乾ききった水色のインク跡も、きっとモクマのなりの優しさだろう。

「世界中の国が俺とお前さんのマークで埋まったら」
「埋まったら?」
「チェズレイはきっと良いものが貰えちゃうよ~。楽しみだね~」
「フ……。ニンジャさん特製の世界に一つだけのポイントカードですか。有難く活用させていただきます」

 モクマが持っていた件の惣菜店のポイントカードは、タイミングが奇跡的に重なって全てが埋まったらしい。素敵な景品を受け取ったはずのモクマは、一体それが何だったかを問うチェズレイにはだんまりを決め込んだ。少し気にかかったチェズレイだったが、モクマの機嫌がすこぶる良かったので、そのにこにこ顔に免じて追及するのは止めた。訴えるようなチェズレイの表情にいつもたじろぐモクマと同じように、チェズレイだって嬉しそうなモクマの笑顔には弱いのだ。

 小さな箱の中に水色のインクとモクマのスタンプを押し込めて、チェズレイは常にそれを持ち歩いた。朝一番に地図を開いてはこれからの旅路に気持ちを奮い立たせ、或いはモクマと酒を酌み交わしながら思い出話に花を咲かせることもあった。嬉しかった。地図を見るたびにこれまで歩んできた二人の軌跡を実感出来て。幸せだった。この先もモクマと共にいる未来を約束されたような気がして。

just a moment, stamp here

 チェズレイがゆったりとソファーに腰かけていると、ふわりと紅茶のいい香りが漂ってきた。睨むように熟視していた書類から視線を外すと、部下の一人がティーポットからカップにこぽこぽと紅茶を注いでいるところだった。手で隠れているため確認は出来ないが、彼の握るティーポットの中ではくるくると茶葉が優雅に踊っているのであろう。前に一度その様子見せてもらった時のことをふと思い返していると、そろそろ休憩にいたしましょう、と部下が声をかけてきた。

「私はティータイムを設けた覚えはないのですがね」
「『チェズレイは放っておくと煮を詰めすぎるから適度に休憩を取らせてあげてね』と仕事で先程外出されたモクマさまより仰せつかっておりますので」

 彼の本来の雇用主はチェズレイであるのに、どうして同じ雇われの身であるモクマの言葉を優先するのか。常々疑問に思っていることだが、彼の絶対に引きませんよという笑顔がどことなくモクマに似ていて、チェズレイは反論する気力をいつも失ってしまう。

「それに、もうそろそろ彼もやってくる頃ですよ」

 誰がと問うよりも先に部屋の扉が豪快に開かれた。呆気にとられた表情でチェズレイが音源を見やると、これまた満面の笑みを浮かべたもう一人の部下が勇ましい立ち姿で出入り口を塞いでいる。

「チェズレイさま、おやつのクッキーが焼き上がりました! 出来立てですよ!今すぐにお召し上がりください!」

 チェズレイはとうとう諦めて、溜め息をつきながら手にしていた書類をテーブル上にぱさりと置いた。くつくつと喉奥で笑いながら部下が淹れたての紅茶をすっと差し出す。間髪入れずに小皿に入った出来たてのクッキーも。

 紅茶を準備してくれた部下は十数年前にチェズレイが率いていたマフィアの嘗ての部下で、チェズレイのためにわざわざクッキーを焼いてくれたのは数年前モクマが何処からか連れてきた青年だった。それまで二人共面識がなかったはずの彼らは、どうしてか妙に気が合うらしい。チェズレイがじっとりとした視線を送っても、互いに口裏合わせたように傍らに立ったままチェズレイを見守るばかりだ。

 持ち上げたカップから紅茶を飲み込む。一つクッキーをつまんで、未だ熱が籠もったままさくりと一口。なんの混じり気もない素朴な味だが、逆にそれが美味しい。二人共合格ですよとチェズレイが伝えれば、クッキーを焼いた一人は小さくガッツポーズを作っているし、もう一人は良かったなと一緒に素直に喜んでいる。チェズレイと年もそれほど違わず、今最も勢力のあるマフィアの構成員で、なおかつその悪の組織を統率するドンであるチェズレイの前だというのに。何とも呑気な。だがその悠長さが何故かチェズレイの母性をくすぐる。チェズレイの唯一で最愛であるボスとはまた違った意味で。

「それにしても、全世界を統制するまであとひと押しですね。さすがチェズレイさまです」
「フ……。決して私一人だけの力ではありませんがね。お褒めの言葉は素直にいただいておきましょう」
「世界征服を成し遂げた後はいかがするおつもりですか?」
「随分気が早いご質問ですねェ。まァ、単独の組織が全ての国を掌握するとなると、必ずどこかに歪みや軋みが現れ内紛が勃発するものですから。それらを抑えて組織を馴染ませていくことが最優先事項になるかと」
「……あのう、チェズレイさま」

 紅茶のおかわりを準備する部下と軽いやりとりをしていると、話の間を割ってもう一人の部下がおそるおそるといった表情でチェズレイを窺っている。

「お話の最中に申し訳ありません。後ほど改めて申告させていただくつもりだったのですが、こういう話は早めのほうが良いかと思いまして。……悲願達成の後には数週間ほどお暇をいただきたいのですが」
「あァ。そのことでしたら、元々私の方もそうさせていただく予定でしたよ。無論全ての構成員が一度にという訳にも参りませんから、調整の必要はありますが」
「チェズレイさま……! ありがとうございます」
「もちろんその中にはあなたも含まれているんですよ?」

 自分にはさも関係ないと言わんばかりに、空になったカップに再度熱い液を注ぐ部下にチェズレイが笑いながら指摘する。動作を止めて目をぱちくりとさせた後、ようやく事態を呑み込めたらしい彼に、「お前はどうする?」と休暇を先に願い出した部下が無邪気に尋ねる様子が実に微笑ましい。

「そうだな。新しい茶葉を仕入れたいから、問屋巡りでもしようかな」
「相変わらずの仕事脳だな」
「万年菓子づくりが趣味の砂糖脳に言われたくない。そういうお前はどうなんだよ」
「故郷にいる妹に会いにいくつもりだよ。かなり久しぶりだから楽しみだ」

 弾む会話を嗜めることもなく、ついついチェズレイも聞き耳を立ててしまう。

「そういえばモクマさんも、今の任務を終えたらずっとやりたかったことに挑戦するつもりだとおっしゃっていましたが。詳しい内容は教えてもらえませんでしたが、チェズレイさまは何かご存知ですか?」

 部下の台詞が投げられた瞬間、チェズレイの動きがぴたりと止まった。

「……いえ、存じておりませんが」
「そうなんですか? てっきりチェズレイさまもモクマさんとご一緒だと思っていたのですが」
「そもそも世界征服の後にモクマさんにやりたいことが存在するという話自体、私には初耳でして」

 チェズレイの返答に今度は部下達が固まる番だった。チェズレイから溢れ出る不穏な空気に耐えきれずに、そうだ他の奴から頼まれていたことがあったのだとこじつけめいた言い訳を残して二人がそそくさと部屋から出ていく。部屋にぽつんと残されたチェズレイは、二人の部下の様子がまるで極悪人にでも出くわしたような怯え方だったなと一人思う。事実チェズレイは、世界一の大悪党を目指しているわけであるけれど。それしたって今のチェズレイは酷い悪人顔をしているのは、鏡を見ずとも自覚出来た。無意識に頬がひくりと引き攣ったまま戻らない。

 モクマのやりたいこと?そんなのは知らない。モクマから何も聞いていないし、言われてもいない。

 全く持って寝耳に水の話だった。


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