「モクマくんには、誰か良い人はいないの?」

 事前にそう質問されるような雰囲気を醸し出すわけでもなく、あまりにも当然のように老婦人が尋ねてくるので、最初は単なる聞き違いかとモクマは思った。

「な、なんて?」
「だから、モクマくんには誰かいい人はいないのかしらって」

 そういうお年頃でしょう、と老婦人はテーブルの真向いで、餡のたっぷり入った饅頭に笑いながらはむりとかぶりつく。知る人ぞ知るその有名な和菓子は、どうやら老婦人の息子なる人物による贈りものだったらしい。ヒーローショーの仕事帰りにこの老婦人の家に顔を見せるのは近頃モクマのルーティーンになりつつあって、彼女の家の中で世間話に花を咲かせるのも最早日常だった。

 饅頭を勧められる過程で彼女の息子に話題が及んだとは、話の流れとして自然だった。

「来月にね、息子がお嫁さんと孫と一緒に帰ってくるの。抱えていた仕事がやっと落ち着いて、ようやくお休みが取れたみたい。もう楽しみで楽しみで」

 にこにこと喜色を顔に滲ませる老婦人の表情は、どこかモクマの母に似ている。いつも以上に腕を奮ってたくさん料理をつくって迎えてあげなくちゃね。息子とは違って孫は体を動かすのが大好きな子だから、この家で退屈しないように工夫しないと。モクマくん、今は子ども達の間で一体何が流行っているのかしら。折角だから孫とも楽しくお喋りしたいわ。矢継で飛んでくる彼女の言葉を受けとめながら、ヒーローショーで子どもたちと触れ合っている経験をおおいに活用にしたモクマがアドバイスをする。そうして十分に会話を楽しんで、一区切りついたところでの先の彼女の発言だった。

「たんなる年寄りの興味本意よ」

 ほっこりとお茶を飲みながら告げる老婦人のモクマに向ける視線が、まるで本当の母のように優しい。

「残念ながら」
「あら。みんな見る目がないのね」

 数十年の間、訳あって色恋沙汰とも親子関係とも縁が遠かったモクマだ。だからこんなふうに恋について親子の様な会話を交わすこと自体、モクマにとっても初めての経験だった。

「……でも。良い人はいないけど、良いなって思う人はいる」

 本音を明かした気恥ずかしさでつい目を逸らしてしまったモクマだが、それでも老婦人が穏やかに笑っているのを気配で感じて、妙にくすぐったい。

「そうなの」

 老婦人はそれ以上モクマに追及することはなかった。


 今度機会があったらその子を家に連れてきてね、という彼女の台詞はおそらく社交辞令だったし、モクマも当時はさほど気にはしていなかった。仕事のトラブルが発生したあの日の朝、チェズレイがモクマを見送ることになったのも、ふと彼女の台詞を思い出したのも単なる偶然だった。連れてくると言葉の意味を正確に捉えるなら、それはモクマと二人で一緒に来てほしいということだ。だからチェズレイだけを老婦人の家に差し向けたところで彼女にはきっと感づかれることはないだろうし、モクマはモクマで彼女との口約束をそれなりに守れたという既成事実が作れたのなら十分だった。

「チェズレイさん、とても良い人だったわ。モクマくんにぴったりね」

 けれど老婦人にその恋心を見抜かれたと知った時、モクマは驚愕のあまり狼狽えてしまった。なんで、という言葉が思わずモクマの口から滑り落ちる。

「モクマくんとの関係をチェズレイさんに尋ねたとき、仕事仲間なんて答えていたんだけど、ものすごく不服そうだったもの。黙ったままずっとモクマくんのことを考えていたみたい。その時の顔がね、好きな子がいるって教えてくれた時のモクマくんの表情とそっくりだったから。あの子、よっぽどモクマくんのことが好きなのね」

 モクマがチェズレイに向ける感情は、ひょっとすると一方的ではないのかもしれない。老婦人の言葉は、モクマがそんな疑いを持つようになる最初のきっかけだった。

 モクマは一体チェズレイのどこに惹かれたのか。時折モクマは、自分自身にそう問いかけることがある。見た目の美しさなんかも実はぴったりモクマのタイプだったりするのだが、勿論それだけが原因ではないのだろう。だって内実チェズレイは悪党であるし、泣く子も黙る詐欺師だし。以前のモクマだったら絶対に関わりたくない人種だったはずだ。

 それなのに。悪党のくせに誰よりも情が深く、詐欺師のくせに口約束を絶対に守る誠実さが、モクマの心を捕らえた。己を傷つける何ものからも絶対に逃げずに立ち向かう彼の心の強さにモクマが気づいてしまった時には、もうすでに手遅れだった。


 チェズレイが真っ直ぐに執着を向ける相手が、この先ずっとモクマだけなら良いのに。


 モクマが持ち始めたこの感情は、相棒としての範囲に留まらない。そしてチェズレイがモクマに寄せるものとは、似ても似つかないものだ。裏切れないとモクマは思った。あんなにも純粋な気持ちでモクマに心を預けるチェズレイのことを。相棒としてモクマを大切にしようとしてくれている彼の信頼を。モクマの欲で決して穢すわけにはいかない。どんなことがあっても隠し通すつもりだった。チェズレイがモクマ以外の相手を、相棒ではなく伴侶として選んだとしても。墓場までどころか来世すらも、彼に悟らせるつもりは無かった。

 でも、もしかしたら。

 モクマのほんの僅かな期待を後押ししてくれたのは、ナデシコだった。

「モクマ。悪いがこれをチェズレイに返しておいてくれないか」

 オフィスでナデシコからモクマが声を掛けられると同時に渡されたのは、大きな紙袋だった。袋の開いた口から何気なく中を覗き込むと、空のタッパーが幾つか重なっている。その大きさや形状にモクマは見覚えがあった。

「歌姫さんの分も一緒だ。返却するのが遅くなってすまないと伝えておいてくれ」
「これをチェズレイが二人に渡したの?」
「チェズレイから何も聞いていないのかい。何でも知り合いの家を訪問したら、お土産に大量に渡されたと話していたが」

 何となくモクマは合点がいった。チェズレイからも老婦人からも申告は無かったが、つまりはそういうことなのだろう。老婦人の方からはチェズレイについての言及があったのでただの伝え忘れか、若しくは彼女にとっては当たり前のことすぎてわざわざ伝えることではないと思ったのかもしれない。逆にチェズレイこそモクマには報告してきそうなことなのに。とモクマが首を傾げていると、ナデシコがふいに含みを持たせるような声音でモクマに言った。

「ところで、チェズレイのギャップの成果は出ているかい?」
「……ギャップ?」

 モクマがナデシコの言葉に思わず食いつくと、彼女は心底楽しそうに微笑んだ。

「実はその返却物の中身を貰った時、お礼として私と歌姫さんでチェズレイをお茶会に誘ったんだよ。その際にした恋についての話だ。気になる人に自分を意識してもらうには、積極的に普段とは異なる行為、つまりはギャップがとても有効だとな。その結果お前の目にチェズレイの努力はどう映ったのか。せっかく助言をしたやったのだから、どうなったのかくらいは知りたいだろう?」
「……ええっと」
「まあ、あの計算高い割には本気で心を許した者には詰めが甘いチェズレイだからな。モクマに気づいてもらえるどころか、逆にお前に翻弄されたりもしていそうだが」

 ナデシコのとんでもない暴露に、モクマは言葉を失ってその場に立ち尽くした。

「あの二人、これでいい加減にどうにかなるよね。それにしても、無言でモクマさんのことを考え込んでいたチェズレイさんは凄く可愛かったな。元々目も眩むような綺麗な人で、最初はちょっと怖くて近寄りがたかったけど、恋をするとやっぱり可愛くなるんだねと歌姫さんも言っていたぞ」

 止めの一言に、モクマは思わずぐうと唸った。

 心当たりはあったのだ。最近チェズレイがモクマに対して少しよそよそしくて、どこか上の空であったことを。先の潜入中に普段は警戒心たっぷりのチェズレイが珍しく隙を見せたことも、モクマの記憶に新しかった。その後はすぐにいつも通りのチェズレイに戻っていたので、さほど気にとめなかったのだが。けれどあれはつまりそういうことだったのだろうか。……となると、外出したモクマにあれこれと注意したチェズレイが、帰宅した後にば何処となく不機嫌になっていたのも、ひょっとすると。

「……ナデシコちゃん」
「何だ」
「そんな極秘情報を打ち明けられると、俺はどうにかなっちゃいそうなんだけど」

 胸元を握りしめてきっと真っ赤になっているだろうモクマの顔を眺めていたナデシコが、呆れたように言い放つ。

「岡目八目だな。お前達の関係をじれったいと思っていたのは、なにも歌姫さんと私の二人だけじゃないぞ。折角私が代表してつついてやったし、今もこうして焚きつけているんだ。むしろどうにかなってもらわないと本気で困る」

 ナデシコが困っている時はモクマは何があっても彼女に手を貸すと心に決めている。けれどその信条がまさかこんなふうにモクマを窮地に追いやるだなんて思いも寄らなかった。



 チェズレイが一体何を考えているのか。出会ってから間もなく付き合いの浅い二人だ。阿吽の呼吸とやらにはまだまだ遠いが、これからを共に歩む約束をチェズレイと交わしたのはモクマだけ。だからこそモクマにしか知りえぬチェズレイの真実がある。モクマが知りたいチェズレイの心がそこにある。

 は、と息継ぎをした途端逃げようとしたチェズレイの体を、咄嗟に立ち上がったモクマが腕を掴んでベッドに縫い付ける。じたばたと体を動かして抵抗するチェズレイに覆いかぶさったモクマが、顔を降ろして耳元で囁いた。

「こんなところを誰かに見られたら困っちゃうね」

 悪党ばりのモクマの台詞に、動きを止めたチェズレイはモクマを睨みつけたまま「下衆が」と悪態をつく。そうです、下衆ですとも。自分の恋心に臆病になって動けなくて、なのに確実な可能性が見えたら見えたで何が何でも手に入れようとするような、至極最低の。

 モクマの下で辛辣な言葉を吐き続けるチェズレイの顔が熟れたトマトのように真っ赤だったので、罵詈雑言には全く説得力もない。彼の言葉は最早モクマにとっては睦言にしか聞こえない。甘い言葉を全て噛み砕くように、その唇をモクマのそれで囲みながら覆うと、散々抗っていたチェズレイの体がようやく大人しくなった。

「チェズレイはさ、愛の告白って自分から言いたい方?それとも相手から言わせたい方?」

 退路を絶たれたチェズレイはいずれにせよモクマの手を取るしかない。唇を真一文字に震わせたチェズレイは卑怯な選択肢を提示したモクマに強い眼差しを向ける。紫色の瞳の中に宿るのは、モクマに対するごもっともな非難と僅かな期待だ。

 モクマは口元を綻ばせて困ったように笑った。本当にまいっちゃうよな。お前さんは俺に愛の告白を自分から伝えたいし、俺の愛の言葉をどうしても受け取りたいのか。好きだと言いたいし、好きだと聞かせて欲しい。相反する二つの欲求に葛藤して押し黙るチェズレイがモクマの心臓を鷲掴みにする。出来上がった料理を前に何故か落ち込んでいたチェズレイの話をルークから聞いた時にも思ったことだが、こんなの無理だ。モクマのせいであの雄弁なチェズレイが沈黙を貫き、モクマの為だけにこんなにも可愛くなってしまっているのなら。


 モクマはチェズレイのことを好きにならずにはいられないじゃないか。


「それならせーので一緒に言ってみる?」


 一瞬迷ったように目を泳がせていたチェズレイだったが、やがて諦めたようにこくりと肯いた。

 冷静沈着でいつでも凛とした姿のチェズレイが、モクマだけに見せる子どものような仕草に、蕩けきった表情でモクマを見上げるその瞳に。完璧であるが故の不器用さに、ギャップに。


 モクマはいつだってめろめろなのだ。



mellow mellow めろめろ。

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