闇の中

 ゆっくりと目を開けた視界の先には何もなかった。ただただ暗闇だけが途方もなく、ジェイスンの足元から四方八方に広がっている。当然のように果ては見えない。けれどジェイスンはここが何処であるかが本能で分かった。最後に残った記憶を辿るに、おそらく自分は命を落とした。今までジェイスンが生きていた世界ではない、それだけは確かだった。

 何もない。本当に何もない真っ暗な暗闇のなか、どうにかこうにか自分だけは知覚出来た。立ちっぱなしでいるのは何となく辛く、掌で地面と呼べるものに触れてみる。硬くて、冷たくて、ごつごつとした岩肌のような手触りを感じる。我慢して座れないほどでもない。そう判断して、腰を下ろした。

 ここが死後の世界なのか、とジェイスンは俯いて思考を巡らせる。だとしたら自分の想像とは随分違ったものだと感想を抱く。悪魔に鞭を打たれるだとか、灼熱の炎に突き落とされるだとか。幼少期に悪いことした戒めにと、親から言い聞かされていた地獄の様子とはだいぶ異なっている。正直、拍子抜けした気持ちだった。


……地獄。地獄か。


 振り返ってみるに、自分のこれまでが人に胸を張れるようなものではないことは自覚している。警官になりたての頃はそれなりの正義感を持っていたことは確かだったが、いつの間にかそんなものは擦り切れて失ってしまった。権力と圧力、少しばかりの虚栄心。大事にしていたはずの誇りは、世間にもみくちゃにされるうちに大切でもなんでもなくなり、むしろ邪魔だと言わんばかりに躊躇いなく捨ててきた。それがジェイスンの人生だった。

 ふと、脳裏に昔の同僚の顔が浮かんだ。名は忘れる訳もない。エドワード・ウィリアムズ。ジェイスンとは全く正反対の正義感に満ち溢れた、行き過ぎて命を失った愚かな警官だった。人を守った挙句に犬死した彼のことを、ジェイスンは心底、心底馬鹿な男だと心の中で罵った。

 彼はここには絶対にいないだろう。善良なるエドワード・ウィリアムズがいるべき世界は天国だ。上へ、上へ。彼はいつだってジェイスンの上を行く。ジェイスンは彼に近づきたくとも、下へ、下へと落ちていく。奈落の底。

 足音のようなものが聞こえた。自分以外の人の気配にはっとして顔を持ち上げる。闇の中だというのに、その人影は仄かな光を発していた。凝視して、心底驚いた。何故、何故だと悲鳴に近い言葉が漏れた。


 何故彼が、エドワード・ウィリアムズがここにいるのだ。


「こんなところで会えるなんて、思いもよらなかったな」
「何故、お前がここにいる!!ここは、お前なんかがいるところじゃないだろう!!」

 立ち上がって、思わずエドワードに掴みかかる。困ったような笑顔で彼は、ジェイスンを見つめた。その瞳の中に自分の姿が映っていることに、正直驚く。見えている。見えていたのだ。ジェイスンにエドワードが見えたように、エドワードにもジェイスンが見えていたのだ。

「そう聞かれても、弱ったな。実は心当たりしかないんだ」

 悪びれた様子もなく笑うエドワードの言葉を聞いた途端、ジェイスンの背中に冷たいものがすっと流れていった。彼の言葉が嘘ではない、と直感で分かったからだ。こんな奴は知らない。自分の知っているエドワードではない。ぱっと手を離して、じりじりとジェイスンは後退する。

 ルーク・ウィリアムズのことが頭をよぎった。彼の息子だった。警官であった頃のエドワードとよく似た、正義感が強くて、強すぎて危なっかしい父親思いの息子だった。自分の命を失うきっかけになったとはいえ、恨みはなかった。たとえルークがいなくとも、自分が此処に落ちるのは確定事項だったから。

「彼のことなら大丈夫だ。もっと先のことだろうけど、きっと上に行ける。俺とは違って」

 どういうことだと詰問しようとした矢先、エドワードが言った。

「俺の行くべき場所はもっと下だよ。お前とも違って。もっと下だ」

 途端、エドワードの身体がずぶずぶと暗闇の中に沈んでいく。慌てて腕を掴んで引き上げようとして、なのに振り払われた。

「良かったな、ジェイスン。これでお前は俺よりずっと上にいられる」

 気づけば、辺りは静寂に満ちていた。ついさっきまで掴んでいた腕の感触は覚えているのに、目の前には誰もいなかった。真っ暗だった。最初から何もなかった。全て虚構だった。ジェイスンが信じていたものも、信じようとしたものも。こんなふうにお前の上に行きたかった訳じゃないという言葉はもう永遠に届かない。成程。口ずさんでジェイスンは嗤った。


 成程、ここは地獄だった。



inserted by FC2 system