罠
「好きなんですが」
モクマの反応が一瞬遅れたのは、シチュエーションに似合わない言葉の奇抜さが理由でもあった。朝食を取るチェズレイの真向かいで、モクマはずずりと味噌汁を飲み込んでいる最中だ。ん?何?聞き取れなかったからもう一度。当然のようにチェズレイに促せば、彼は空になった椀を静かに置き。
「私、モクマさんのことが好きなのですが」
と言い放つ。その時のモクマの思考回路はちょっとおかしくなっていて、チェズレイがしっかりと主語をつけていたにも関わらず、「モクマさん」が「モクマさんの作ったお味噌汁」にすり替わった。冷蔵庫にあった残り野菜を投げ込んだだけの味噌汁は中々に上出来で、統一性も何もないただただ具沢山な味噌汁もこれはこれで好きだなあ、なんてことを直前までモクマが考えていたのも原因の一つだった。
「そりゃあ良かった。ありがとね」
「いいえ、どういたしまして」
食べ終わった二人分の食器を片付けるチェズレイに、モクマは手伝おうかと声をかけた。
「いえ、結構ですよ。今日の食器洗いの当番は私ですから。それよりモクマさん。もう出かけなくてはならない時間ではありませんか?」
「あー、もうそんな時間か。ごめん、悪いけどお願いする」
「どうぞお気になさらずに」
玄関を出ると、少し肌寒い空気がモクマを包んだ。ちょっと前まではうだるような暑い日ばかりが続いていたのに、季節の変わり目なのだなあ、とモクマは呟く。冷たいものではなく、そろそろ温かい食べ物が恋しくなってくる頃合いだ。今晩は身体があったまるような料理を作ろうかなあ。さっき食べた味噌汁みたいな。朝の記憶を思い出しながら軽い足取りでてくてくと道を歩いていたモクマだったが、しばらくしてぴたりと足を止めた。
で、さっきのチェズレイの台詞は一体何だったの?
***
どうもモクマはチェズレイに告白されたらしい。
らしい、などという言葉で語尾を濁すのは、モクマの中でどんどんその確証が薄れつつあるからだ。モクマの記憶が正しければ、確かにチェズレイはモクマのことを好きだと言ったはずなのに、ここ数日間彼はそんな素振りを一切見せない。
「‥‥‥…モクマさん。洗濯物は小出しにせずにまとめておいてくださいと、私は以前にあれほど申し上げましたよね」
小言も絶好調である。
チェズレイがモクマに対して異様なまでの執着を持っていることは知っている。でもあれは、恋愛感情の類ではなかったはずだ。恋に例えることがあっても、決して恋ではない。恋愛ではないからこそ恋愛に比喩出来るのだ。
相棒としてミカグラ島から発って以降、二人の間に変化があったとしてもそれは些細なことばかりのはずだった。変わりのない日々。態度の変わらないチェズレイ。変わるはずもない二人の関係性。
やっぱりあれは聞き間違いか何かだったのだ。多分、状況から察するに、モクマさんの料理の腕が好きなんですけど、とか。ああ、うん、それなら納得出来る気がする。大体あの時の味噌汁は本当に良い出来だったし。
「ご自分の衣類はご自分で責任を持ってくださいね」
「はいはい。分かってるよ」
「返事は一回で十分です。それと、モクマさん」
「うん?」
「好きなんですが」
チェズレイから受け取った服を矢先からモクマはつい落としそうになった。呆気に取られたモクマを、チェズレイは一瞥しただけでさっさとその場から立ち去ろうとする。空いた片手で、モクマは咄嗟にチェズレイの腕を掴んだ。
「ちょっと待って、チェズレイ。俺の聞き間違いじゃなけりゃ、今、お前さんから愛の告白を受けた気がするんだが」
「ええ、言いましたね。それがどうかしましたか」
まるでモクマの方がおかしいとでも言いたげなチェズレイの台詞に、モクマはぐううと唸る。あの朝の件についてはやっと自分なりの落とし所をつい先程つけたばかりなのに。モクマの心境を知らずにチェズレイは、本当にどうかなさったんですか、モクマさん。頭でもぶつけましたか。それともお年のせいですか?と失礼極まりないことを真剣に聞いてくる。‥‥どうかしましたかって、どうかしてるのは自分の方なのか?モクマは一瞬自分を疑いそうになる。
モクマはぶんぶんと首を振った。いや違う。絶対にそうじゃない。
心配そうに顔を歪めるチェズレイに、モクマは腹を決めて問いかけた。
「お前さんの中でどういった経緯でそうなったか、おじさんにはさっぱり分からんのだけど」
「奇遇ですね、私もです。確かモクマさんのどうしても気に障る部分について熟考していたはずなのですが。その流れで何となく。ついうっかり」
告白って、ついうっかりしちゃうようなものなの?そういう時代の流れなの?ごめん。おじさんにはよく分からない。ついでに、さり気なく俺への悪口言ってない?いや、尋ねたのはモクマであって、チェズレイはそれに答えただけなんだけど。‥‥‥‥でもやっぱりひどくない?どう考えてもひどい。
「伝え忘れていましたがモクマさん。私、今日は帰りが遅くなりますので。夕飯のご用意は必要ありません」
「うん。どっかで食べてくるの?」
「ええ。夜に人と会う約束をしていまして。それでそろそろ外出したいので、お話がお済みのようでしたら、腕を離していただけると有り難いのですが」
ああ、悪い悪い。言いながらチェズレイの腕をモクマはぱっと離す。私の帰りを待たずにどうぞお休みくださって結構ですからね。言い残して部屋を出ていくチェズレイの背中をモクマは見送る。持っていた服を洗濯機に放り込んで、モクマはどかりとソファーに体を預けて横になる。天井をじっと睨んで静かに考え込む。
それで結局、何一つ問題は解決していないな。
そもそもチェズレイの意図がいまいち掴めない。モクマのことを好きだというチェズレイ気持ちは認めるものの、そこからの要求が一切ないのはなんなのか。好きだから付き合いたいとか、触れ合いたいだとか。普通はそういう感じのがあるんじゃないのとモクマは思う。考えて、すぐに打ち消した。なくていいのだ。この場合は。だってモクマはチェズレイのことは好きだとしても、それは人間的にであって恋愛感情のそれじゃない。モクマはチェズレイの気持ちには応えられない。だとするなら、成程チェズレイの行為には一理ある。好きだと告げるだけで相手にそれ以上は求めない。そうやって吐き出して、吐き出すだけで感情をいつしか昇華出来るなら。
おじさんなんてやめておけ。お前さんにはもっといい人がいるよとモクマは小さく呟く。
チェズレイの後ろ姿を頭に思い浮かべる。部屋で別れた時の最後の台詞も、ついでのように再生された。
モクマは慌ててがばりと起き上がった。
あれ、さっきチェズレイは一体何と言っていたっけ。ああ、そうだ。人と会う約束をしているから、今夜は帰りが遅くなるとか。夕飯が要らないということはつまり、その約束の人と食事を共にする訳であって、もしかするとモクマがいつも眠るような時間にまでそいつと一緒にいる可能性があって。え、誰それ。おじさんチェズレイから何も聞いていないんだけど、とモクマは呆然とした。職業柄、裏表のどちらにも顔が広い二人だが、だからこそ人付き合いの情報は互いに共有しあっている。なのに、今宵のチェズレイの待ち人については一切知らされておらず、モクマはあからさまに動揺した。
いやいやいや。お互いに子供じゃないんだし、チェズレイが誰と付き合おうと彼の勝手ではないか。モクマだって何もかもを全て洗いざらい話している訳でもないし。
そうやって自身に言い聞かせるも、胸の奥がちりちりと焼けつくように痛んだ。モクマよりもチェズレイにはもっといい人がいる、なんて物わかりの良い大人みたいな台詞を吐いたくせに、もしチェズレイが本気でそういう人を連れてきたらどうしようとモクマは想像する。というか、モクマとチェズレイの間には、並大抵ではない絆があるのだ。チェズレイがモクマに執着しているように、モクマだってチェズレイをとんでもなく大事にしている。そんじょそこらの適当な奴に大事な相棒を渡してたまるか、とモクマは息巻く。モクマとの間柄を割いてまでチェズレイに近づきたいなら、モクマと戦って易々と勝てるような奴ではなければ認めない。そんな奴はこの世界にそうそういないけど。しかも、チェズレイは俺のことを好きだといっているし。なら、そういった状況は簡単には訪れないかとモクマはほっと胸を撫でおろした。安堵して、ふと我に返った。
チェズレイに対して恋愛感情を抱いていないと答えを出しておいて、これだ。
モクマは深く溜息をつきながら項垂れた。
チェズレイの言葉通り、どうかしているのはやっぱりモクマの方かもしれない。
***
「おや。まだ起きていらしたんですか?先にお休みになってもいいと、私はお伝えしたはずですが」
結局チェズレイが帰宅したのは、深夜十二時を回る頃だった。お帰り、と言ったきり深々とソファーに座り込んで動かないモクマを、チェズレイは僅かに訝っているようだ。チェズレイ、と小さな声で名前を呼んで、ちょいちょいと掌で手招きする。ぽんぽん、とそのままモクマの隣の空いたスペースを叩けば、チェズレイは大人しくモクマの隣に座った。
ぎしり、とチェズレイの重みを受けとったソファーが鳴る。
「あのさ、チェズレイ」
「はい」
「さっきの、お前さんの告白についてなんだけど」
真横に座っているチェズレイの顔はモクマからは見えない。けれど今はそれが逆にありがたかった。
「…………前向きに検討するから、俺以外の奴は選ばないで欲しい」
でなければ、こんな恥ずかしい台詞をモクマが口に出来るはずもない。
何とも自分にとって都合の良い要求だということもモクマは勿論理解している。チェズレイと別れてからの数時間、モクマは自身がチェズレイのことをどう思っているかどうか真剣に考えたのだ。それこそ、チェズレイが帰ってくるまでずっと。食事をすることすら忘れて。それでもやっぱりモクマはチェズレイに対して恋愛感情があるとは思えなかった。だというのに、チェズレイがモクマ以外の誰かを選ぶ可能性があるという事実を、モクマは許せなかった。認めたくなかった。どうしても嫌だった。
今のモクマにはチェズレイと同じ言葉を返してやれないけれど。
それでも自分のことを好きだというチェズレイの気持ちにモクマは、こたえてやりたい。そう思ったのだ。今のモクマがチェズレイに対して抱く率直な感情だった。
優柔不断すぎる結論に、チェズレイはきっと怒るだろうなということも想像していた。でも、モクマは引くつもりはなかった。押しに押して、最悪土下座でもなんでもして、チェズレイに約束させるつもりだった。思い切ってモクマはチェズレイの方に顔を向ける。俯いたチェズレイの表情は長い髪で隠れて見えなかったが、肩がふるふると小刻みに震えていた。やっぱり怒らせてしまったか。モクマの視線に気づいたチェズレイが、ゆっくりと髪をかき上げる。
ふ、と空気の抜けるような音がした。チェズレイの唇がゆるやかに歪んでいる。細めた目は何かを堪えるように、それでも優しくモクマを捕らえる。
チェズレイはモクマに対して怒るどころか、どうやら笑いを堪えていたらしい。
その瞬間モクマは何となく全てが分かった。分かってしまった。
「…………嵌められた」
「人聞きが悪いですねェ」
「もしかして、今晩誰かと会う約束っていうのも」
「どなたがそんなことをおっしゃったんです?私には身に覚えがありませんが」
嘘つき、とモクマが文句を口にする。詐欺師ですから、と悪びれもなくチェズレイがくすりと笑った。
「嵌められた、なんて申しますがモクマさん。私はね、ただモクマさんに好意をお伝えしただけですよ。あなたが好きだと。それをわざわざ時間をかけてじっくりと掘り下げて、深い深い落とし穴を作って、自ら嵌まったのはモクマさん。あなた自身じゃありませんか」
正論すぎてモクマはぐうの音も出なかった。まあ、掘り下げる時間潰しはさせていただきましたけど、とチェズレイが言う。
「人の告白をないがしろにした罰ですよ」
「……お前さんは、いつから。いつから俺のことが好きだったの?」
「さあ?いつからでしょうねェ。ずっと昔からのようだったかもしれないし、つい最近のような気もします。なんせ私ですら、初めて口に出したあの時に自分の気持ちに気づいたくらいですから」
「そんな軽々しくていいのかい?」
「恋とはそんなものでしょう。だからモクマさんのお返事も、それぐらいで良いんですよ」
でも、まあ、とモクマの顔を見つめながらチェズレイは呟く。
「そのうちモクマさんはきっと私のことを好きになりますよ」
「……おじさん、まだ検討中って言ったはずなんだけど」
「それでも絶対、最後には私のことを好きになります」
にんまりと笑うチェズレイの表情には一つの陰りもない。
その自信は一体どこからくるのやら、とモクマは内心呆れる。そういえば初めて出会った頃からチェズレイはそうだったなあと思い返した。彼の成すこと、成そうとすること。その全ての意思は一本筋で揺るがない。その生き様が数十年罪から逃げ続けたモクマにとっては、傷を抉られるみたいで痛かった。そうだ。実はモクマは、最初はチェズレイのことが苦手だったのだ。嫌悪の感情を向けられていたのは知っていたし、モクマの嫌がることは平気でするし。なのに、暗い鍾乳洞の奥で死を覚悟していたモクマを追いかけてくれたのはチェズレイだった。モクマに逃げ道がないと分かっているのに、嬉々として穴の中に飛び込んで。さっさとご自分でお立ちになって這い上がりなさいと、体を張ってモクマに説教するような奴なのだ。他人の弱さには滅法厳しいくせに、その鋭さの中に優しさと深い情があることをけれどモクマは知っている。
「ちなみにあの朝は、モクマさんがお作りした味噌汁の具材の切り方が気にくわなくて。それで気づいたら、うっかり告白をしていました」
それは仕方ないだろう、とモクマは言い訳する。だって冷蔵庫の中の野菜を整理ついでにかき集めただけだし。痛んだところをそぎ落としたからああいう形になっただけだし。だいたいチェズレイは全てのものにこだわりが強すぎるのだ。食べ物一つについても、好みが激しすぎる。それプラスその難しい性格じゃあ、割と他人と共生するって難しいと思うよ。俺以外じゃほんと、無理。
それでもその文句を飲み込んで、モクマの作った料理をいつも美味しそうに食べきってくれるところ。逃げ癖のあるモクマに時間をかけて向き合うのを待っていてくれるところ。惜しみなくモクマに情を与えてくれるところ。モクマにだけ時折優しい笑顔を見せてくれるところ。
そういうところが。
「好きなんだけど」