カウントダウン

 危ない、という言葉と共にルークが走り出したのは一瞬のことだった。一緒に買い物に出かけた帰りのことで、荷物はアーロンが担当し、その分ルークが身軽だったことも原因だろう。おい、と声をかける間もなかった。前方に駆けだしたルークの前には大きな公園があって、休日だからか家族連れも多く、ぽかぽかとした陽気に浮かれ気分もあったのだろう。兄弟或いは友達と遊んで興奮してか、とある子供が木登りをしていて。うっかりと手を滑らせたところを買い出し中のルークが偶然に発見したという展開だった。結果としてルークは間に合った。滑り込みというか、体を張ったスライディングで何とか子供の体を受け止める。周囲の奴らは驚いて一目散に逃げだして、対照的にその子の母親であろう女性がルークに対してぺこぺこと謝罪とお礼を繰り返した。

「ああ、アーロンごめん。突然びっくりしたよな」
「今更テメエのことで驚くことがあるかよ」
「うーん、それもそうだ」

 母親と子供がようやく去ってからアーロンが近づくと、ルークはけらりと笑う。ルークの手首を何気なく見やれば健康的な肌色に、鋭く走る赤い線。眉間に皺を寄せてアーロンは、そうやってまた軽率に怪我をして、馬鹿じゃないのかとつい小言を吐きそうになる。言い淀んで迷って、ようやく口を開きかけた時、折れちゃった、とルークが言った。

「テメエの骨はそんなに軟弱だったか?」
「違うよ。折れたのはこっちのほう」

 ひょいっと地面からルークが何かを拾いあげる。それはおそらく、木登りをしていた子供が落ちた際に、ぱきりと折れてしまった。つい先日に七分咲きから満開になった、桜の木の先端だった。

「どうしたらいいかな?」
「どうしたもこうしたも、折れたもんは仕方ねえだろ」

 一メートルを超えないか否かで切り落とされた枝を、けが人にでも応じるかのようにルークはそっと掌で扱う。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿という言葉をアーロンはどこかで聞いたことがあった。それは木々の剪定方法に由来する諺で、桜は無意味に折ってしまえばそこから弱り腐って、終には枯れてしまうのだ。そのことをルークは知っているのだろうか。考えたもののアーロンは結局伝えなかった。いずれにせよ、折れてしまったものはどうしようもないという結論には変わりなく、だからアーロンはんなことよりとっとと帰るぞ、とルークに声をかける。

「あ、ちょっと待ってくれ、アーロン!!」

 踵を返して帰路に向かうアーロンに、ルークは慌てたように追いかける。ようやく隣においついたルークを、アーロンは怪訝な表情で見下ろした。ルークの手元に、あの無残に切り離された桜の枝があったからだ。何か言いたげなアーロンの視線に気づいたらしいルークが、言い訳のように呟く。

「折角だから、僕の家に飾ろう」

 折れたって言ってもこんなにも綺麗なんだし、と告げるルークにアーロンは心底呆れた。別にルークが折れた桜の枝にどんな感慨を持ってもいい。どういった思考でどういった結論に至ったかもどうでもいい。気にくわないのは、最初からきっとルークの中では答えが出ていたことで、それなら何でオレに聞いた?

 丁度いいサイズの花瓶がないからという理由で、桜の枝の器にはビールジョッキがあてがわれた。あからさまにちぐはぐな組み合わせだが、アイデアを出した当の本人はやっぱり家に花があると違うなあ、と上機嫌だ。決して幼くはない成人男性二人が暮らす家に、淡い薄桃色の小さな桜が咲き誇っている、と誰かに知られたら驚かれそうだ。誰かって誰だ。アーロンは自問自答する。例えば泥棒とか。泥棒はオレだけど。

 ジョッキの八分目当たりまで水を入れて、活けられた桜の花を見るに、植物に痛覚がなくて良かったとアーロンはソファーの上でふと思う。人間だったらとてもじゃないがそうはいかない。手や足をもしも折られて身体から切り取られてしまったら、施しがなければきっとそのまま命を失う。それに痛みや感覚がない分、植物は生きる。自身が切られたことも分からずに忘れて、大輪の花を咲かす。大切なものを失うという痛みも絶望も人にはあるから、だからすぐに追い詰められて腐り果てる。身に覚えのありすぎる経験だ。

「ルーク」
「ん?どうかしたか、アーロン」
「今日行った店が気に食わねえから、今度は違う店にするぞ」

 隣に座っていたルークの体がぴたりと止まって、次の瞬間ルークはけたけたと笑い始める。何が可笑しいと、アーロンが睨みつけてようやく、目尻の涙を指先で拭って、だって、と言葉を続ける。

「そんなに心配しなくても。たとえあの桜が枯れて無くなっても、僕はそんなに悲観しないよ」
「………知ってたのか」
「それくらいは」

 勿論あれはアーロンだけの真実や秘密ではないので、ルークが知っていてもおかしくはない。

「君は隠しごとがうまいからな。わざわざ店を変えて遠回りしてまで、あの木を見せたくないっていう君の気持ちは嬉しいけど。でも、それくらいで僕は簡単に折れたりはしないから」

 少し体を動かして、ルークはアーロンの瞳を真正面から見る。懐かしい、と思った。昔よく見た、幾度もアーロンが絶望の淵に立たされたときに思い出した目。決して失いたくなかった眼差し。

「絶対にないとは思うけど、それでももし僕が折れそうになったらさ。アーロン。君が僕を支えてくれよ。可能性としては低すぎるけど、君の心が折れたその時は。僕がアーロンを支えるから」

 ぬけぬけと図々しいことを言う、とアーロンは鼻で笑った。考えておく、という台詞だけで精一杯だった。ルークは少しだけ微笑んで、視線をあの桜の枝に移した。折れてしまったものをどうしたい、とあの時アーロンに尋ねたルークの真意が今、少しだけ分かる。

「けど、他の誰でもなくアーロンが僕の心を折ったなら、それは本気で立ち直れなさそうだ」
「折らねえよ」

 人のことを何だと思ってやがると言えばルークは僕の相棒だよ、と平然と答える。ルークは強い。だからアーロンは、折れないものを折るつもりもないし、そう簡単には折れないだろうし、折りたくもないし。腐っていても失う痛みを知っている分だけ、それほど馬鹿でもないのだし。


アロルクワンドロワンライ参加作品。

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