贈り物

 何べん探してみても出口が見つからない。

 突きつけられた現実が未だ信じられず、モクマは途方に暮れていた。周囲は見渡す限りの白い壁。幾度となく求めた助けを呼ぶ声も、無機質な空間に広がり消えていく。何がどうしてこうなった。疑問は一向に深まるばかりで、明らかになる兆しはない。

 モクマの記憶が正しければ、つい先刻までちびちびと酒を飲んでいたはずである。手製のつまみに、口触りのいいまろやかな酒。ペースは決して早くなく、度数がやや高い分じっくりと味わっていた。途中に異様なまでの眠気を感じたが、酒の席ではよくあることなのでモクマはさほど気にしなかった。ぐらりと視界が揺れて、あっと思った一瞬だった。

 次にモクマの意識が戻った時、視界いっぱいに広がったのは白い天井と白い壁。見覚えのない部屋の中、同じく白い大きなベッドに寝かされていた。勢いよく飛び上がったモクマは、すぐに幾つかの違和感に気づいた。一つ、この部屋の構図からするに、今モクマが暮らしている住居のいずれの部屋でもないこと。一つ、部屋の壁面に一切の扉が見当たらなかったこと。最後の一つ。テーブルを挟んで差し向かいに座って酒を酌み交わしていたはずのチェズレイの姿が同じくここにあって、呆然としたまま室内のある一点を凝視していたこと。

 追った視線の先に掛かる不自然な横断幕。

「これが例の『しないと出られない部屋』ですか」

 モクマの読み違いでないことは、相棒の台詞でいとも簡単に証明されてしまった。


 仕掛けが一切不明の、摩訶不思議な出られない部屋。裏社会にそんな噂がまことしやかに囁かれ始めたのは、一体いつだったか。扉のない部屋にある日突然放り込まれた二人の人間は、室内に存在するはずのたった一つの命令に従うしか脱出する術がない。問題はその命令たるものが、場合によってはとんでもなくえげつないこと。モクマの耳にも件の噂話は当然届いていたが、まさか自分が巻き込まれるとは思いもしなかった。

 頑丈な壁面は押しても叩いてみても、うんともすんともいわない。どでかいベッドがある以外は、物一つない空間。愛用の鎖鎌もなく丸腰なモクマは、壁一つブチ破ることも出来ないし、得体のしれないこの部屋を力任せも壊せない。モクマだけならまだしも、ここには大切な相棒のチェズレイもいるのだ。

 そうだ、チェズレイは。

 モクマがはっと我に返って部屋の中央へ振り返ると、チェズレイはベッドの端に腰掛けながら、つまらなそうにモクマの様子を眺めている。焦りに焦りまくって部屋から脱出することに夢中になっていたモクマとは対照的に、チェズレイはいたく落ち着き払っていた。モクマが目覚めてすぐに、お互い怪我や体に異常がないことは確認している。舐める程度しか酒を摂取していないかった彼も、モクマと同じく意識を失って気づけばここにいたのだと言う。何故こんな場所に閉じ込められてしまったのか。理由も詳細も皆目検討もつかない、とその時は困惑していたチェズレイだったが。

「お前さん、随分と冷静だね」
「ええ。モクマさんが慌ててくださった分、かえって頭が冷えましたので」

 それにしたってちと冷静すぎやしないか。モクマの意識を汲んだように、チェズレイが続けた。

「モクマさんが思いつく限りのことはしてくださいましたからねェ。こうなってしまいますと、もう残す手段は一つしかないかと」
「……あー」
「最後の手段、もとい最初の手段でもありますが」

 深いため息をつきながらモクマは垂れ幕を見上げる。この部屋に入った二人は、肉体関係を結ばなければ永遠に出られない。要約するとそういった意味合いになる言葉は、モクマの祈りもむなしく目覚めた当初から全く変わっていなかった。


「実際に出られない部屋が存在すると分かった以上、こう考えるべきなのが正解かもしれませんねェ。ありもしない噂が先行して発生したのではなく、閉じ込められ部屋から逃げ出せた人間がいるからこそこんな噂が生まれたのだと。因果関係の逆転と申しますか。まァ、裏の世界では良くあることですよ」
「こんなのが良くあること?」

 ぴくりとモクマの眉が動いた。私には初めての経験ですが、とチェズレイが肩を竦めて付け加える。

「それともモクマさん。相手が私ではご不満ですか?」
「いやぁ……不満っていうよりは」
「でしたら、モクマさんのお望みの姿に変装して差しあげますよ。生憎手持ちが最小限ですので、可能な限りという条件が付きますが」
「いや?わざわざ変装なんかせんでも、俺はそのままでいいけど」
「え?」
「え?」

 瞠目するチェズレイに向かって、指先で頬をかきながら照れくさそうにモクマは言った。

「だっておじさん、お前さん相手じゃないと勃たないし」





 ところでチェズレイは、モクマのことがとてもとても好きだった。

 第一印象は最悪で、モクマの一挙一動がチェズレイの神経を逆撫でしていたことを今もよく覚えている。癪に障りすぎていよいよ我慢の限界を超えた時、腰を据えて本気で向き合おうと決めたチェズレイから、こともあろうにモクマは逃げた。逃げて、追って、さらに逃げて、追いかけて、追いつめて。ようやく暴いたモクマの真実は予想通りの下衆であって、それ以上に見たこともないほど美しくて柔らかくて、優しいものだった。禍根に囚われ、ささくれだっていたチェズレイの心を、凪のように穏やかにするくらいには。

 チェズレイはモクマのことが好きだった。

 だから相棒として共に歩むことをモクマが承諾してくれた時は、今まで生きてきた中で一番、思わず涙が滲んでしまうほど嬉しかったのだ。

 きっかけはモクマの誕生日だ。

 相棒として初めて迎える誕生日の為に、チェズレイは当然意気込んだ。何を贈ろうかとしばらく思い悩み、結局モクマにそのまま尋ねることにした。自己満足と承認欲求の為だけの贈り物を数多く受け取ってきたチェズレイは、だからこそ本人の一番望むものを贈りたかったのだ。

「おじさんの欲しいもの?……うーん、今のところは無いねえ」

 モクマの返答にチェズレイは肩すかしをくらった気分だった。それこそモクマが望むのなら、国の一つや二つ、或いは世界すらも差し出すつもりだった。出来る限り、モクマがそれを希うというのなら。モクマに傾ける感情が相棒の域を超えていると、自覚したのもその時だ。ああ、これは相棒に向けていい重さではないと。

 気付いてすぐにチェズレイは、その恋を静かに諦めることにした。

 勘違いしないでもらいたいのは、チェズレイは元来貪欲な人間であるということだ。自分が欲しいと思ったものなら、何が何でも手に入れなければ気が済まない。けれど今まで本当に望むものだけが幾度もすり抜けていった経験が、チェズレイを大人にさせた。我儘な子供じみた執着がある一方、際限のない諦観の念も育ちきっている。二兎追うものは一兎も得ず。相棒という一兎を手に入れたチェズレイがこれ以上何を望むというのだ。

 チェズレイは既にたくさんのものをモクマからもらっている。その先を望むのは流石に強欲だ。相棒として一生を誓い合い、チェズレイの隣にいてくれる約束を結んでくれただけで充分すぎる。モクマがいなければ、本来チェズレイが手に出来たものはきっともっと少ない。

 ただ、思い出が欲しかった。

 モクマがチェズレイを見る目に、そんな気がないのは百も承知だ。つぶさにモクマを見つめ続けてきたチェズレイには分かる。思ったほど落胆はせずに、むしろ踏ん切りがついたくらいだ。

 幸せだった母との記憶がそうであるように、モクマと体を重ねたという思い出一つでチェズレイは生きていく。口の中で溶けた飴玉の甘味を幾度なく思い出して、消えるしかない苦い恋を慰める。

 モクマに抱かれるのだって、チェズレイの姿でなくても誰でもいい。互いに目隠しし合っても構わない。モクマが望むなら、記憶を消してやることすら厭わない。  いくつもの嘘を重ねて、誕生日を迎えるモクマからチェズレイはひと時を奪う。そうやって乱暴なまでに奪い、奪うことによって、モクマに永遠の相棒を贈り続けるのだ。  大丈夫。慣れている。大事なものを守る為に大切な何かを諦めるなんて、チェズレイには良くあることだ。  そう考えていた。なのに。



 緊急事態だ。



 チェズレイの両腕はモクマに拘束されてがっちりとベッドに縫い付けられている。何とかして逃げ出そうとするが、なんせモクマの力がすこぶる強くてびくりともしない。これはまずい。非常にまずい。チェズレイの焦る心境とは裏腹に、押し倒してくるモクマの表情はとびっきりの笑顔だ。

「なんだ~。お前さんもそうならもっと早く言っとくれよ」
「……わ、私は何も申しあげてはいません!」
「ん?そりゃあ口に出してはいないけどさあ。そんな顔されちゃあ、いくらなんでも分かるよ」

 チェズレイは悔しそうに唇を噛んだ。実際モクマの言う通りなのだ。モクマが望む姿のあらゆる選択肢を想像して準備していたくせに、チェズレイは自分自身が指名されるなんて予想もしていなかった。だから綻びが出た。モクマの体がチェズレイにしか反応しないという言葉を耳にして、返事をするでもなく誤魔化す訳でもなく、演技をする余裕もなくチェズレイは顔を真っ赤にしてしまったのだ。気づいた時には後の祭りだ。

「あなたが私に好意がある素振りなんて、一切うかがえませんでしたが」
「まあ、おじさんもおじさんなりに考えがあってね。そういうのを隠すのは慣れてるし」
「……それにしたって、あなたの態度は変わらなすぎだと思いますけど」
「態度が変わるも何も、ほとんど一目惚れだったからねえ。最初から俺はずっと俺のままで、他に変わりようがないもの」
「……ちょっとお聞きしたいのですが。一目惚れ、というのはモクマさん」

 モクマの言葉をなぞりながら、チェズレイは初めてモクマと出会った時のことを思い返す。飛行船の中で最初にモクマと接触したのは変装時の自分であり、真のチェズレイの姿を曝け出したのはもっと後で。

「どっちに」
「どっちも」

 恥ずかしさのあまり二の句が継げないチェズレイの唇に、モクマが食らいつく。軽く開いた口から舌がぬるりと入り込んで、逃がさないとばかりにチェズレイに絡みついた。くちゅりと卑猥な音が内側からも耳に響く。駄目だ。気持ちいい。チェズレイの抵抗はますます弱くなる一方だ。

 このままだと本気でモクマに手籠めにされてしまう。本来の趣旨に逸れてはいないが、主導権が自分にあるのとモクマにあるのとでは全然違う。

「……っ…あなたっ……、私とそうしなければならないと分かったとき、一目散にこの部屋から逃げ出そうとしたくせに!」
「当然だろう。何が悲しくて好きな子と義務的な行為に及ばにゃならんのだ」

 好きな子、という文言のあたりでチェズレイがぴくりと震えたのをモクマは見逃してはくれなかった。ああ、そういえばちゃんと言ってなかったねと、モクマはチェズレイの耳元に口を寄せてぼそりと囁く。決定的な致命傷だ。

「そういうのはいいです」

 まるで恋人同志がするやりとりのような、そんな甘言は。羞恥心で泣きそうになるチェズレイにモクマは笑って、良くないよ、と首を振る。

「お前さんが俺に愛されていないと思い込むのは、ちっとも良くない」





 真白の空間が次第に色彩を取り戻していく。じわりとキャンパスに水彩具が滲み出ていくような様子を眺めて、なるほど時限式かとモクマは頷いた。何をどうしたらこんな暗示をかけられるのやら。お前さんは本当にすごいねと、安らかな寝息を立てるチェズレイの頭をそっと撫でる。疲れ切ったしっとりとした表情に、汗で冷えた肌。二人熱く絡み合った光景が脳をよぎり、モクマは思わず緩みそうになる口元を咄嗟に掌で抑えた。

 まさかこんなにうまくいくとは。

 音を立てぬようベッドから降り、床に落ちていた自分の服をひょいと羽織る。勝手知ったるチェズレイの部屋を忍び足で出た。鍵はかかっていなかった。

 リビングに足を向けると、そこはすっかりとモクマの誕生日を祝うパーティ会場になっていたので、思わず笑ってしまった。ルークやアーロンからと思われるプレゼント箱と、ナデシコやスイからの花束。シキとそしてミカグラ島の各々からのメッセージカード。

 誰に命を狙われるか知らないこの世界で、だからこそ誰にも所在を明かさない二人なのにどうやってチェズレイはこれらを受け取ったのか。チェズレイの労力ははかりしれないし、モクマがきっと聞いても教えてくれない。でも、そういうところが好きなのだとモクマは思う。

 何が欲しいかと問われても、モクマにはピンとこないのだ。だって全てを持っている。足りないものなど何一つない。唯一じっくりと時間をかけたのがチェズレイであって、それも甲斐あってようやく手に入れた。けれどそもそもチェズレイはモクマのだから、逃げようとしたところを捕まえた、という表現が正しいか。  意外と自由奔放で猪突猛進型のチェズレイは、ちょっと目を離すと何処に行くか分からない。今はモクマに夢中だからいいものの、今後どうなるかは予測不能だ。だからモクマは教え込まねばならないのだ。チェズレイがモクマに愛されていること。彼が帰る場所はいつだってここなのだと。何処に目を向けようと、どんなに遠く離れようと、チェズレイがモクマの隣に必ず戻ってくるように。

 コップ一杯の水で喉を潤し、何も見なかったとばかりにモクマはリビングを後にする。部屋に戻り扉を閉めて、何食わぬ顔でチェズレイの傍らに潜り込んだ。チェズレイの寝顔をそっと眺めて、モクマは微笑む。


 モクマは昔、鳥に憧れていた。枷もしがらみもなく、どこまでも青い空を自由に羽ばたき続ける鳥になりたかった。


 大空を突き進む飛行船の中でチェズレイと出会って、今はこうして世界中を二人で飛び回って。だからこのぬくもりは、止まり木のような安らぎのような、ここが愛の巣。


愛の巣箱=プレゼントボックス。モクマさんのお誕生日おめでとう話。

ちょうど越境でチェズレイが失踪していたので、チェズレイにもモクマさんを巻き込みたくないから身を引くという弱さもあるのかな、と思いながら書きました。完全に騙されました。

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