「一体どういうつもりだ! あのクソ詐欺師!」

 タブレット越しに響くアーロンの咆哮に、モクマはまあまあと何とか宥めようとする。普段ならいくらか吠えれば発散されるはずのモクマの相棒への愚痴だが、今回は勝手が違った。そもそもモクマとアーロンが連絡を取り合うのだって数ヶ月に一度程度で、なのにモクマの記憶が正しければ昨日も一昨日もこうやってアーロンの恨み言を聞いていたような気がする。

「でも、ハスマリーのみんなは喜んでくれているんでしょ?」
「別に物資を送ってくんなとは言わねえ。ただ頻度と限度を考えろってんだ」

 アーロンの至極ごもっともな意見に、モクマは苦笑いを浮かべる。アーロンの指摘通りここ最近チェズレイの様子は誰が見てもおかしかった。

 対象物も何もない空虚をぼうっと見つめては、唐突に意味もなく微笑んでみたり。日中にふらふらと一人で出かけてはどう考えても衝動買いしたと思われる大量の品物を持ち帰って、せっせとルークやアーロンへのアジトに送る準備をしてみたり。世界征服への道筋が順調な傍ら、特にアーロンやルーク達への物資の支援回数は異様なまでに右肩上がりになっていて、その事実にモクマも気づかないはずがなかった。

「……アラナのやつが詐欺師にちゃんとお礼を言ったのかって、しつけーんだよ」

 チェズレイがこうして四六時中くっついているモクマは別として、アーロン達にあれこれ理由をつけて贈り物をするのは何も今に始まったことではない。殊更アーロンに対しては貸し借り或いは嫌がらせという名目で、紛争地という呼び名から徐々に変わり始めたハスマリーに向けて、チェズレイは定期的に物資を送り続けている。彼なりのアーロンへの思いやりやら応援やらという内情が含まれているはずだが、当の本人は表立って伝える気はさらさらないらしい。

「詐欺師をなんとかしろ、おっさん。……なんなら手は貸す」

 昨晩ルークからも電話越しに似たようなことをお願いされたなあ、とモクマは思い返す。だがそれはアーロンほどひねくれてもいなければ、回りくどくもない率直な言葉だった。

「チェズレイに何か悩み事があるなら、モクマさんから聞いてもらえませんか? そのうえで僕の手助けが必要なら、いくらでも」

 心配しているのだと面と向かって言えないあたり、やはり悪党同士。素直じゃないところがそっくりだと、口には出さずにモクマは笑った。

 理由は知っている。チェズレイが奇妙な行動に走るようになったのは、数ヶ月前に突然現れた彼にそっくりの子供とお別れをしたときからだ。

マザーグースは聞こえない

 チェズレイ・ニコルズを長としたマフィアファミリーは、そこそこ上手く統制されているのではないかとモクマは評している。マイカの里で過ごした幼少期ですら、集団に属するのが大層苦手だったモクマだ。故郷を追われて以来は一匹狼のようにのらりくらりと世界中を放浪してきたからこそ、こうして物騒な集まりではあるにしろ集合の中の一員として身を置いていることに実はモクマ自身が一番驚いている。

 訳あって一度切り。極寒の北国にてチェズレイを追うマフィアの構成員として潜り込んだこともあるが、主の命令を疑うこともせずにただの操り人形のように悪事に手を染めるその下劣さに辟易としたことは今もよく覚えている。

 その構成員の一部が今はチェズレイが率いる組織の傘下に加わったわけで、チェズレイには決して言えずにいたが、当初モクマは結構冷や冷やしていたのだ。ヴィンウェイという抗争の絶えない国の裏社会で生き抜いてきただけあって、彼らには相応の実力がある。またいつ裏切るかも分からないというモクマの危惧を少しでも軽減するために、前もってその腹を探っておこうと積極的に飲みに誘っていたのだが。謀反の気配を察するどころか何だか意気投合してしまい、明らかに飲み過ぎた翌日に二日酔いのままチェズレイの前で並んで正座をさせられ、一緒に説教をくらうという羽目に陥ってしまった。

「今後は自分の行動にきちんと責任を持ってくださいねと」と諦観と侮蔑を含んだチェズレイの目は、彼らにとっては慈愛と優しさに満ちていたらしい。素晴らしいボスに巡り合えたと感激する姿は、到底反旗を翻すようには思えなかった。

 その一件がきっかけになったのかもしれない。業務以外には概ね自由な行動をチェズレイから許されている部下達は、ことあるごとにモクマにお勧めの店や場所を教えてくれるようになった。ここのお店の雰囲気がのんびりしていてよかったですよとか、あの居酒屋は魚料理が絶品ですよとか。中にはいかにもチェズレイが好みそうなお勧めのデートスポットをモクマに紹介する猛者もいた。モクマとチェズレイの深すぎる仲を公言したことなどは一度もないはずで、一体いつどこで感づかれたのやらとモクマは呆気にとられたが、け執拗な追及や揶揄もなくこうして気を回してくれていることを考えれば、つくづく良い部下達に恵まれたのだとモクマは思う。

 作戦の切れ間は数日後。運よくモクマにもチェズレイにも表立った予定はない。世界征服の息抜きにチェズレイを誘うには絶好のチャンスだった。潜入捜査に出向く直前にモクマはチェズレイに話を切り出す。

「今度お互いに空く日があるじゃない。折角だから二人でどこかに出かけないかい」
「素敵なご提案ですねェ。モクマさんが行きたい場所があるならば、是非そちらに」

 ううん、そう来たかとモクマは歯痒さを感じずにはいられない。普段のチェズレイならばモクマの台詞一つに、言葉の上辺だけでなく真意まであっさりと見抜いてしまうはずなのに。表面的には完璧な返事であっても、モクマの意図を何一つ汲み上げていないあたり、思った以上に重症だ。

 あからさまに本調子ではないことを部下に察せられ、折角ですからモクマさんがボスをどこかに連れて行ってあげてください、などと気遣われていることに思い当たらない時点で全くチェズレイらしくもない。

 世界征服を成し遂げる為の作戦は、まだチェズレイが正常であった頃に練り上げたものだ。現段階ではその遂行には支障はないが、以降の計画を考えればこの状況はあまり放置すべきことではないのだろう。

 今のチェズレイにはあまりにも主体性がなさすぎる。原因を知っているからこそモクマはチェズレイのことをのんびりと見守ってきたが、流石にこれ以上は見過ごせない。

 モクマはチェズレイの目を覚まさなければいけないのだ。



 その日は実に良い天気だった。鼻歌を口ずさみながら朝食用のスクランブルエッグを調理するモクマをよそに、チェズレイは優雅に椅子に腰をかけて窓の奥の青空をぼんやりと眺めている。久々の休日はモクマにスケジュールの全てを任せてほしい。朝一番のモクマの申し出はすんなりとチェズレイによって承諾された。

 二人で朝食を楽しみ、揃って満腹になったところでモクマはチェズレイに服を渡した。

「これに着替えて部屋で待っててくれる?」

 チェズレイは一瞬怪訝な表情を浮かべていたが、一切引く気のないモクマの様子をちらりと伺い渋々と受け取った。

 早々に食事の片づけをすませて自室へと戻ったモクマは、チェズレイに促したように自身も服を脱ぎ捨てて着替え始める。てきぱきと準備を終えたその足で、迷うことなく一直線にモクマはチェズレイの部屋を目指した。

 モクマの身なりを確認したチェズレイは、薄々は想像していましたよと呆れたように息をつく。

「これから二人で二度寝をします」
「フフ。……厳密に言えば二度寝ではなく昼寝ですけどね」

 真新しい寝間着はこの日のためにモクマが用意したもので、きっちりと着込んだチェズレイを腕に巻き込んでそのまま二人してベッドに倒れ込んだ。耳の傍で聞こえる彼の恨み言全てを、モクマは頑として無視を決め込む。

「今日はおじさんと一緒に自堕落の限りを尽くすの。もう決まったことだ」

 いざ夢の世界に。きっぱりとモクマが宣言すると、チェズレイもやっと諦めたらしい。頑なだった体からゆるゆると力が抜けていった。大きなブランケットで二人の体を覆って、もぞもぞといつもの定位置に移動する。チェズレイの頭をモクマの胸の中にえいっと押し込むと、苦しいですよとチェズレイが非難の声をあげた。ごめんごめんと許しを乞うように、モクマはチェズレイの顔を少し離して頭をさする。

 カーテンも閉めていない窓からは、部屋全体を射抜くように白い光が流れ込む。布団を干す時間も惜しんだモクマだったが、あたたかな光はガラス越しですらも太陽の匂いを感じさせる。艶のある金髪の中に差し込んだモクマの指の腹で、緊張をほぐすように何度も撫でた。

「少々くすぐったいですが、気持ちがいいですねェ」
「頭皮マッサージちゅうもんは風呂上がりがベストだけどね。こうしてリラックスしながら触るだけでも結構効果があるものなんだよ」
「流石は伝説の整体師の名を欲しいままにしてきただけありますね」
「人それぞれ、凝りかたは違うもんだがね。特にお前さんは思考が深いだけに頭を使い過ぎだ」

 強弱をつけ指を皮膚に押し込みつつ胸元に視界をやれば、チェズレイが気持ちよさそうにうっとりと目を細めている。モクマの為すがままにされているチェズレイは最初こそ軽口を叩いていたが、今はもう静かに体を預けていた。二人分の体重を預けたベッドがぎしりと僅かに軋む。

「こんなにいい天気の日に、このように無為に時間を使うなど。実に背徳感がありますねェ」
「深夜に突然目が覚めて、お腹が空きすぎてついつい夜食に手を出してしまうような?」
「……フフ。先日あなたがそうしていたのを黙って見逃してさしあげていましたのに。まさか自ら告白をするとは」
「誘導尋問かい?」
「ただ単にあなたが迂闊に白状したというだけですよ」

 モクマの手の動きをチェズレイの掌が止める。流れるようにモクマの掌がチェズレイの頬を包み、だから私も白状してみたくなりましたとチェズレイが微笑みながら言った。


 穏やかな時間は、否が応でも懐かしい記憶を想起させる。


 三人で一緒に枕を並べたあの日のような。


「いなくなってしまったあの子に、あなたみたくもっと優しくしてあげられていたら」


 良かったのに、と続けてチェズレイが唇を嚙みしめる。ああ、そうだろうなとモクマは思った。


 チェズレイの心はとても強くて、そして脆い。襲い掛かった厄災も悲劇もただの事実の一つとして、チェズレイは静かに受け入れる。悲劇が深く彼を傷つけても、その傷を強さに変えていつだってチェズレイは前を向いて生きてきた。けれどその傷は癒えることなくきっとずっと痛かったのだろうなとモクマは思う。誰よりも情の深い彼のことだもの。過去は過去、過ぎた時間は二度と還らないと分かっていても。それでもチェズレイは幾度となく振り返り、どうすることも出来なかった無力な自分を悔やみ続けていたはずだ。

 どうにもならない板挟みの感情を、チェズレイは未来の時間の中で慰めていたのだろう。アーロン達に贈り物をし続けるのは、渡せなかったあの子への想いを託すために。モクマの希望を何よりも優先するのは、あの子の願いを一番に叶えてあげたかったから。チェズレイの心の揺らぎがモクマには手に取るように分かるのだ。

 だがお前さんのそれは違うよとモクマは歯を軋ませた。それはチェズレイ自身の本心はなく、あるのは消えてしまったあの子の身代わりを探す母の心だ。だからモクマは暴いてみせる。母としての想いが確かにチェズレイ自身から生まれたものであったとしても、奪うことが正しくなくても。本当の彼を取り戻すために。



 チェズレイがもう一度モクマの隣で笑えるように。



「お前さんはそう言ってくれるけどね。俺があの子に優しく出来たからといっても、まったく心残りがないわけじゃないんだよ」

 薄い水膜を張ったようなチェズレイの瞳がモクマを見つめた。

「あの子と一緒にいれたのは一日だけだ。たった一日、俺なりに出来る限りのことをしてやったつもりだった。でもね、全然足りないんだ。もっとあの子を連れまわして、沢山遊んでやりたかった。今まで俺が胸打たれた綺麗な景色を一緒に眺めて、すごいねなんて感想を言い合って。美味しいものや珍しいものをたらふく食べさせて、もう満腹だから無理だよなんて弱音を吐くのを笑って受け止めたかった。あの子が欲しがるものなら竜の首玉でも月の破片でも、全て集めて手渡してやりたかった。あの子が眠れないときは、抱えきれないかわいいぬいぐるみをベッドの上にこれでもかと並べて、安心させてやりたかった。……でも、今目の前にお前さん自身がいても、俺はそうしなかった。何故だか分かるかい?」

 ふるふるとチェズレイは首を横に振った。

「お前さんは、あの子じゃないからだ」

 モクマの嘘偽りのない言葉に、チェズレイが息を詰める。唇を強く引き結び、今にも泣きだしそうな表情だ。そんな顔をさせたい訳じゃなかったと、謝罪するようにモクマはチェズレイの体を両腕で抱きしめる。モクマの肩に温かなものを感じたのは、おそらくチェズレイの体温だけが理由ではないのだろう。

「チェズレイがあの子に一番望むことは何だい?」
「……生きること。あの子が自分の好きなように、したいようにのびのびと生きて。誰かを愛して、誰かに愛されながら生きていくこと」
「さて、今のお前さんにそれが出来ているかな」

 少し意地悪くモクマが言うと、二の腕を指先で軽く捻られる。痛いと思わずモクマが口に出すと、涙声でチェズレイがくすりと笑った。

「この私にカウンセリングの真似事ですか」
「うんにゃ、俺は俺のしたいことをしただけだ。惚れ惚れするぐらい格好良くて、すこぶる頭が切れる大事な相棒に、おじさんの隣に早く戻ってきてもらいたいだけ」
「……言いますねェ。でもその努力が功を奏してか、少し目が覚めました」
「あれ、そうなの?でもねえ、今日は絶対に惰眠を貪るっておじさん決めちゃったからねえ。悪いけど付き合ってくれる?」
「フフ……仕方ありませんね」
「子守歌もサービスしてあげちゃう」
「いつぞやの潰れた蛙のなき声以外でお願いしますね」

 体を少し離して、モクマがチェズレイの前髪の分け目に軽く唇を落とす。モクマの行為に実に不服そうに、チェズレイが眉根を寄せた。

「おや。こちらにはしていただけないんですか?」
「悪いが、好きな子の親御さんにするもんじゃないんでね」

 仕返しするように、チェズレイがモクマの頬に口づける。モクマさんの意見は一理ありますので、今はこちらで我慢してさしあげます。静かに瞼を閉じる刹那、チェズレイが名残惜し気に囁いた。

「おやすみなさい、モクマさん」
「ああ。おやすみ、チェズレイ。良い夢を」


 おやすみのキスは勿論額に。目覚めのキスは今度こそ唇に。



 爆炎から間一髪逃れたモクマは、チェズレイの姿を見失って一瞬焦った。落ち着けと自身の動揺を宥めすかしてモクマは、周囲に全ての気を集中させる。上か、とモクマが視線を上げると同時に、暗闇の中にひらひらと蝶のように舞う紫色の羽を視界に捕えた。両腕を伸ばした直後にどすりと受け止めた重力を、モクマは奥歯を食いしばってなんとか耐える。モクマの踏ん張りを全身で感じているはずのチェズレイは、何故だか酷く楽し気だ。

「お前さん、いくらなんでも無鉄砲がすぎるだろう」
「何をおっしゃいますか、モクマさん。お楽しみはまだまだこれからですよ」

 チェズレイの瞳は爛々と輝いていて、敵に囲まれまくったこの危機的な状況を心底楽しんでいるようだった。子供のように無邪気な様子に、全く彼はどうかしていると思った。それでこそ自分の大好きなチェズレイだと内心喜んでいるモクマもモクマで大概だが。

「予定は少し狂いましたが、きっと成果に大差はないでしょう。私とあなたなら」
「予想してた十倍ぐらいは、敵さんの数が多いけどね」

 モクマの腕の中にいたチェズレイが徐ろに身じろぎし、マスク越しにモクマの唇を奪った。チェズレイが空から降ってきた時よりも比較にならないくらいに驚愕したモクマは、危うくチェズレイを落としかける。それを察したチェズレイはするりと軽快に体を翻し、すたんと地面に両足をつけた。

「……チェズレイ、お前さんね」
「私は申し上げましたよね。お楽しみはこれからですと。どの程度時間を確保できるかは全てモクマさんの手腕にかかっておりますので。期待していますよ」

 随分軽く言ってくれるじゃないかとモクマは悪態をつく。長期戦を前提としたこの潜入作戦は予想外にモクマの体力を奪って、実は結構疲労困憊気味だ。だからこそチェズレイのこの焚き付けはモクマの気力を奮い立たせるには十分だった。布越しではないチェズレイの唇の柔らかさを唯一知るモクマだからこそ。触れたくて肌を重ねたくて堪らなくなる。

「あァ……剥き出しのあなたは、いつ見ても昂りますねェ」
「本当に。寝た子をわざわざ起こしちゃうタイプだよね、お前さんは」
「ええ。モクマさんの真の姿を引き出すためなら、何度でもどんな手段を使ってでもあなたを叩き起こしますよ」

 お陰様でモクマの目はいつだって冴えまくりだ。あの墓場とも呼べる地の底で永遠の眠りにつきかけていたモクマの本心を、チェズレイが強引に目覚めさせたあの時から。

 それは互いにきっとこれからも。二人が共にある限りは続いていくのだろう。途方もない未来の話に、ついついモクマは肩を竦めて苦笑いする。不思議そうに首を傾げるチェズレイを見上げる形でモクマは言った。


「今夜は、二人とも眠れそうにないみたいね」
「当然ですよ。私はそう簡単にあなたに子守唄をうたっては差し上げませんからね」


マザーグースは聞こえない。
マザーグース=子守歌。cradle songも子守歌という意味なので本編時にどっちをタイトルにしようかなと悩んでいたのですが、両方好きな言葉なので後日談を含めてどちらも使うことにしました。満足!

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