ここが好き

 頬にあたるひやりとした感触に目が覚めた。驚きに見開いた目に飛び込む見知らぬ天井。おや、起こしてしまいましたか、と悪気もなく笑う男の、チェズレイの声を起点として記憶が脳に怒涛のように流れ込んだ。モクマが居る場所、厳密に言えば安静にしていろとこっぴどく医師に叱られて、言葉通りに体を横たえていた場所はミカグラ島一番の大きな病院の一室だった。

「先ほどまではボスと怪盗殿もお見舞いに来ていたのですが。ナデシコ嬢から招集が入りましたので、私だけがここに残る形になりました」
「怪我の程度はみんな同じようなものだったのに。面目ないねえ」
「モクマさんの怪我は蓄積に蓄積を重ねたものですから」

 ベッドから身を起こそうとしてチェズレイに止められた。いいから安静にしていてください、という制止の言葉に、じっとしていられない性分だからなあと答える。チェズレイなりの譲歩なのかどうなのか。室内のテレビに電源が入る。普段病院に、しかも個室なんかにお世話になることのなかったモクマは、その設備の豪華さに恐々としてしまう。モクマは、モクマ自身が他人からどう見られているかを知っている。特別な部屋には全くも似つかわしくない容貌のモクマがここにいることを周囲が見たらどう思うだろう。しかも、直近に常人なら出会うことのない大事故に巻き込まれて、担ぎこまれたばかりなのだ。この病院の医師や看護師には顔も名前も確実に覚えられているだろうし、妙な噂をされているかもしれない。

 という考えに行きつきそうになって、モクマは直ぐにそれを改めた。

「想像はしていたけど、思ったより大変なことになってるねえ」
「渦中にいた人間の一人だというのに、まるで他人事のように仰る」
「………はは。いや、ね。それは分かっちゃいるんだけど、まるで嵐のような出来事の連続だったから、実感するのに少し時間がかかっているのかもなぁ」
「それは、理解は出来ます」

 連日の爆破事件騒ぎに、ダムに沈んだモクマの故郷。燃え盛る城に、高く聳え立つビルに落ちるクレーンとその崩壊。再生を誓っての島をあげたお祭りは、しかし一番の功績者が全くの赤の他人が成り代わっていたことが暴露され。テレビを通じて一連の犯罪組織の暗部を知らされたミカグラ島の人々は、当然大騒ぎだ。それこそ、ただの一般人に変わりないモクマが重傷で何度も病院に運び込まれようが、誰も気にも留めないくらいに。

 ミカグラ島の傷は深い。それは一瞬や一時で傷つけられたものではなく、じわじわと劇薬を染み込ませて出来上がったものだ。今まで信じていたものの根本が足元から崩れ去る感覚。こういう結果になると、ナデシコからの頼みを聞いた時点で覚悟はしていたとはいえ、実際に向き合ってしまえばそれはそれでなかなか辛いものだ。つけた傷に見て見ぬふりはしない、そう決めた今でも。

 何処か遠い目でモニターの中の非現実的な現実を見つめていると、視線を感じた。チェズレイが何か言いたげな表情で、モクマの様子を窺っている。

「モクマさん。実感がない、とはおっしゃいましたけど、よもや私との約束まで幻にしてしまうつもりではないでしょうね」
「まさか」

 即答すればチェズレイは、ああ、それなら良いんですと平然を装うそぶりでいて、ほっと安堵していることにモクマは気づいている。あんなに情熱的に交わした約束は、忘れたくても忘れられない。伝えればチェズレイは間違いなく盛り上がってしまうだろうから、あまり口には出来ないが。

 あからさまに機嫌のよくなったチェズレイを見て、随分と表情が豊かになったなあとモクマは思う。最初に出会った頃、貼り付けた能面のような笑顔と鬼気迫るような狂気じみた表情を見せていた時とは雲泥の差だ。困ったように眉根を寄せるチェズレイの表情にも弱いが、優しい目でモクマを見つめるその顔はもっとだ。だから、チェズレイの顔をずっと見てきたモクマだからこそ、気づけた。


 なら、あなたにも騙されていただきたいものです。


 時計塔で泣き腫らしたスイを前に、チェズレイの特技をもって涙の跡を隠した。その鮮やかな手捌きにその時は素直に感嘆していたが、一度気づいてしまえば駄目だった。そうやって、そうやって今までチェズレイは、涙を流したことを誰にも悟られぬよう、ひた隠して生きてきたのだろう。あの時、身を挺してチェズレイを庇ってモクマの命が危険に晒された時だって。チェズレイはきっと、一人で肩を震わせて泣いていたのだ。

 誰にだって知られたくないことの一つや二つはある。チェズレイによるモクマへの荒療治は勿論それ以外に方法が無かっただけだと分かっている。二人とも本来は他人の秘密を暴く趣味はない。失ったものの大きさに恐れて悔やんで、悪夢にうなされて年がらもなく泣きながら目が覚めたことだってモクマにも何度もあった。気づいている。眠っていたモクマの頬に、チェズレイが濡れたタオルで拭き取ったのは汗などでなくて、きっと。

 仮面の下でずっと泣いていたのは、チェズレイだけではなくモクマも同じなのだ。

 暴かないのは、意味がないから。騙されたふりをするのは、優しくしたいから。

 お互いに抱えた傷は深い。けれどそれはきっと癒えていくものだとモクマは信じている。故郷を失った家族に差し伸べられた手のように。誰かと一緒に繋がりを結んでゆけば。失った過去は戻らなくても、これから二人で手にしたい世界がたくさんあるのだ。

「早く退院して、お前さんの夢を叶えなくちゃね」

 泣いている相手を安心させるには、笑うことが一番の良薬だ。悪夢を見たモクマに対して、チェズレイが先ほどそうしてくれたように。だからモクマは、穏やかに笑ってみせる。いつか、仮面なんかなくたって、ずっと二人一緒に笑っていられるように。

「そうですよ。モクマさんにはバリバリ働いてもらうつもりですよ。なんといっても、世界を牛耳るわけですからね。仕事はいくらでも」
「チェズレイ。お前さん、本当に野心家だなあ」
「おや、こういう私はお嫌いですか?」

  モクマは首を横に振って微笑んだ。今更。今更すぎる話だ。


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