仮面

 気づけなかった、と呟くルークの心底悔しそうな表情が印象的だった。

 ベッドの上でのそりと上半身を起こし、サイドテーブルに置いておいたタブレットを手に取る。時刻はもう間もなく深夜十二時を迎える頃。メールの受信を知らせる光がちかちかと瞬いたことがモクマの睡眠を妨げた。隣ですうすうと寝息を立てるチェズレイを起こさないように、音を立てぬようそっと身じろぐ。穏やかな橙色のルームランプを付けっ放しにしていたのが功を奏してか、タブレットの画面の光で彼が目を覚ますことはなさそうだ。

 メールの送信者はルークだった。ミカグラ島だけならず全世界で活躍する歌姫のスイが、モクマとチェズレイを次のコンサートに招きたいと言っている。モクマがそうルークからタブレット越しに伝えられたのは数日前のことだ。ルークとアーロンはともかく、あの二人は本気で消息も連絡先も分からないから、と困り果てたスイがルークを頼った経緯はなるほど合点がいった。現在の届け先を伝え終わると、二人の会話は自然とスイの話になる。スイちゃんは今、絶好調みたいだね。ええ。でも、今回のコンサートの紹介写真では、ちょっと疲れて見えますよね?と主張するルークにモクマは首を傾げた。そうなの?と探りを入れるように尋ねると、ルークは苦笑いをする。よく気づいたねと、感心したようにモクマが言うと、ルークは首を横に振った。

「気づけなかったこと、ちょっと悔しかったので」
「……何を、気づけなかったの?」
「ほら。ミカグラ島でチェズレイがスイさんの変装をした時があったでしょう?あの時の僕は、あれが偽者だって見抜けなかった」
「……あー。でも、あれはまあ、おじさんの作戦のうちでもあった訳で。ルークが気にするようなことじゃないよ」
「相手を上手く騙せたという点では、結果的に良かったとは僕も思います」


 でも、と歯切れ悪くルークが言葉を続ける。


「……スイさんは、泣くときは自分の声を押し殺す子なんです。誰かに助けを求めるにしたって、きっと最後の最後まで泣かない。あの時だって泣き叫んで僕を呼ぶわけないって、冷静に考えたら分かるはずだったのに」


 分かってやれたのはルークだけなのに、気づけなかった自分が不甲斐なくて仕方なくて。


「だから今度こそあの子のことをちゃんと見て、気づきたいんです」


 ルークの言葉にモクマが思ったのは、ではあの時ちらりと見えたスイの泣き顔はいったい誰のものであったのかという一点だった。例えば演劇やモクマの知らない誰かの真似だったなら、それはそれで一向に構わない。チェズレイの変装は、演技力も含めて超一級である。本物と寸分違わない仮面をつけて、チェズレイはチェズレイではない誰かに成り代わる。正直、モクマでさえ彼の変装を見破る自信があるかどうかと問われればかなり疑わしい。助けを求めたあの時の姿が、もしかしたらチェズレイ自身の本質だったかどうかも分からない。だってモクマは、チェズレイが泣く姿をこれまで一度たりとも見たことはないのだから。

「……モクマさん?……どうかなさいましたか?」

 起き上がったモクマの気配を察して、チェズレイが目を覚ましてしまったらしい。何でもないと誤魔化す空気でもないので、ルークから件のチケットを送ってくれたという連絡があったと正直に答える。ああ、そうでしたかと納得したようにチェズレイが小さく頷いた。タブレットを元の場所に戻して、そのまま空いた掌をチェズレイの頬に当てる。うっとりとした様に、チェズレイの目が細くなった。

「なあ、チェズレイ」
「……何ですか、モクマさん」
「もしお前さんが泣くときは、俺の前でだけにしておいてくれよ」

 そんな台詞がつい口をついて出たのは、ルークの気持ちに感化されたものか、それとも単なる独占欲なのか。湧き上がったこの感情がどういった類のものかモクマにも上手く説明出来ない。それでも頭に思い浮かんだ言葉をそのままに伝えると、一瞬驚いたように目を見開いたチェズレイは、両腕を伸ばしてモクマの身体を抱き寄せる。唇から吐き出される息が、モクマの耳にかかった。

「先程まで散々したというのに。お年の割には本当にお元気ですよね、モクマさんは」

 ……これは勘違いをされている、とモクマは感づいたものの、すっかりその気になっているチェズレイを目の前にすると無意識に喉が鳴った。妖艶なチェズレイの微笑みが視界に映ると、決してそんなつもりではなかったのに、モクマもついついその気になってしまって困る。どうしたって不可抗力だと言い訳して、快楽に流されるチェズレイを組み敷いてモクマは思う。この姿なら、完璧に見抜く自信はあるんだけどなあ。この先チェズレイ以外とするつもりは全くないので、比較しようにもないのだけれど。


***


 二人分のコーヒーを用意する間、モクマは何度か大きなあくびを繰り返した。朝食を終えたばかりということも起因しているのであろうが、ちょっと夜更かしをしすぎたか。その割に優雅にソファーに身を預けるチェズレイにはその傾向が見受けられない。普段意識はしないようにしているが、これが年の違いかとモクマは自分の考えに静かに打ちのめされた。

 ありがとうございます、とコーヒーを受け取ったチェズレイが一口啜る姿を、モクマは座って真正面から眺める。

 なんというか、これも一種の仮面だよなあ、とモクマは思う。冷静かつ冷酷なクールビューティ。チェズレイが部下たちに密かにそう呼ばれているのをモクマは知っている。「冷」という表現をやたらめったら使いすぎでは?と指摘したくなるものの、言い得て妙だと感心もしている。落ち着き払った余裕のあるチェズレイを、モクマは決して嫌いではない。ただ、モクマの下であれだけ乱れていたチェズレイの姿を見ている自分としては、今の彼の姿と重ね合わせることが出来ずにその違和感を拭えない時だってあるのだ。


 昨晩はあんなに可愛かったのに。


 とモクマが考えた途端、珍しく音を立てて、チェズレイがカップをソーサーに置いた。何事かとモクマは思わず瞠目した。

「困りますので、お止めになっていただけませんか?」

 唐突なチェズレイの言葉を理解出来なくて、モクマは少し狼狽える。何のことだい?と恐る恐る聞き返すと、チェズレイは一瞬言い淀んで、意を決したように口を開いた。

「………モクマさんのお考えになっていること、全部顔に出ていらっしゃるんですよ」

 そういうの、本当に困るんです、と小声で告白するチェズレイにモクマは言葉を失った。心なしか、チェズレイの頬が赤く染まっている。

 チェズレイの鉄壁であるはずの仮面がこんなにも簡単に剥がれてしまったのは、主にモクマが原因である。なんだ、そうか。瞬時にモクマは理解する。モクマが自分自身を何も隠さないでいれば、チェズレイの仮面を剥ぎ取るのはきっと難しいことではないのだ。モクマはその事実にちょっとだけ嬉しくなりつつも、けれどもっと大きな問題も立ちはだかっていることにも気づいてしまった。

 二人の思考は互いに筒抜けで、つまり仮面を脱ぎ捨てて自分をさらけ出すってかなり恥ずかしい。

 羞恥心でいよいよ顔を二人で真っ赤にして、無言で見つめ合いながらモクマはチェズレイに胸の内で語りかける。


 一度剥き出しの自分を見せちゃうとさあ、それを仮面でまた隠すのって案外難しいね。


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