I know

 この人の名前は「チェズレイ」というらしい。らしい、などと何とも曖昧な表現になってしまう理由については割と明確で、きちんとした自己紹介の機会がこれまで一度も無かったからだ。そして今後もそのチャンスが到来することはおそらくないだろう。

 それでも僕はこの人の名前を知っている。確定的な瞬間はなくとも、状況証拠を積み重ねさえすればこの世界のルールを知ることは意外と容易い。僕が存在する日当たりの良いこの部屋には、大きなテーブルが一つとそれを囲むように幾つかのソファーが並んでいる。ある時はテーブルの中央に、またある時はカーテンの揺らぐ窓際に。僕の居場所はその時々に集まる人の顔ぶれや、天候によって大きく左右される。居心地は決して悪くはない。むしろ仲間たちと一緒にいた頃よりもずっと快適だ。

 僕のことを一番お世話をしてくれるのは、「モクマさん」という人だ。この部屋には不思議と多くの人が入れ替わり立ち代わり現れるけれど、その中でも比較的に長生きしている人間のようだ。毎朝一番早く起きて僕の居場所を変えてくれるのも彼。おはようという朝の挨拶と共に、外の世界に最も近い場所で太陽の光を見る。時に恥ずかしがったお日様が僕たちの前に顔を覗かせない朝もあるけれど、どんなに空が灰色に澱んでいてもモクマさんはいつも笑顔で、僕と一緒に今日という日を迎えてくれた。

 凍える空気をいっぺんで溶かすような微笑みを浮かべるモクマさんは、まるで太陽みたいな人だ。

 朝の挨拶を済ませたモクマさんは、僕の乾きを満たすようにたっぷりと水をくれる。土に潜った根から存分に潤いを吸い取って満足する僕を抱き寄せ、夜を過ごした場所から移動させる。モクマさんの手によって置かれたテーブルの中央が、本日の僕の居場所らしい。ということは今日はモクマさんもチェズレイも「お休み」の日なのだろう。僕は少しだけ胸が躍った。僕が住むこの家はどんな場所であっても居心地が良いが、お休みの日はまた格別だ。普段は忙しそうにしている彼らが、珍しく揃ってこの家にいる。どちらか一人だけじゃもの足りないなんて思わないけど、やっぱり二人一緒の方が僕は嬉しい。

 お休みの日は決まって、モクマさんの方がチェズレイよりも早く起きる。二人の大差のない起床時間はこの時ばかりは大きく狂う。どちらかと言えばより早く目覚めるモクマさんが眠っているチェズレイを頑なに起こさないのが主な原因らしい。お休みの日は出来るだけ長く眠らせてあげたいモクマさんと、休日ぐらいは出来る限り一緒の時間を過ごしたいチェズレイはそのことでよく言い争いをしている。けれどそれは本気の喧嘩じゃなくて単なる二人のコミュニケーションの一種だから、僕はいつも静観を決め込んでいる。僕的には概ねチェズレイの意見に賛成なんだけれど、残念ながら勝率はさほど良くはない。

 僕のお世話を一通り終えたモクマさんは、僕の前で軽く肩を鳴らし両手をあげてうんと背伸びをする。軽いストレッチを何度か繰り返した後はいつものように羽のような足取りでキッチンへと向かった。 カチャカチャと調理器具や食器が擦れ合う音がキッチンから響く。じゅわあと何かをプライパンで焼く音と、僅かに漂ってくるこの空気はきっとバターの匂いだ。勿論僕には嗅覚なんてものはないから、完全に予想の域に過ぎないのだけど。でも彼らの食事に関しては夕食よりも朝食のレパートリーが少ないから、多分当たっているはずだ。

 モクマさんの料理の気配を楽しんでいると、部屋に続く廊下から微かな足音が聞こえた。もしかしてと確認する間もなく扉が開かれ、チェズレイが現れる。おはようと僕が声をかけるとチェズレイはすぐに僕の姿を見つけて、おはようございますと返してくれた。そしてモクマさんのいるキッチンへと向かい、二人は挨拶を交わすのだ。

 僕の側に戻ったチェズレイはいつもと変わらない服装といつもと同じような表情で体をソファーに預けているけれど、今はちょっと眠そうだ。

「チェズレイ、眠いの? もう少し寝てても良かったのに」
「……いえ、コーヒーを飲めばすぐに覚醒する程度の眠気ですので」

 キッチンから問いかけたモクマさんへのチェズレイの返事が想像通りだったので、僕はつい笑いそうになってしまった。とんとんと包丁がまな板を叩く音が伝わるなか、チェズレイが小さく欠伸をする。ゆっくりと瞼を持ち上げた彼は、とても近い距離で僕の姿を視界に捕らえて静かに微笑んだ。

 僕をこの家に連れてきてくれたのはモクマさんで、荒れ果てた野原で僕を見つけてくれたのはチェズレイだった。


 それは数日前だったかもしれないし、もしかしたら数ヶ月前のことだったかもしれない。


 僕には名前というものが存在しない。正確に言えば「僕たち」を表す名前があるにはあるのだけれど、ただの個体としての僕には僕を表現できる言葉がない。でも、それは僕たちから見た「人間」そのものも同じことかもしれない。人間の一人ひとりにはチェズレイとかモクマさんみたいに一つ一つ名前があって、けれど僕たちにはその違いが分からない。僕は僕で他の誰でもない僕なのだけれど、人間からしてみれば僕は僕たちであってそれだけの認識に過ぎないのだ。

 不満だと感じたこともなければ、不可解さに考え込んだこともない。例え同じ世界を生きていたとして僕は僕の世界しか知らないし、知りようがない。

 彼らと出会う前の僕は、僕たちが一同に集まる場所から少し離れたところで静かに暮らしていた。どういった経緯で僕が僕たちからはぐれるように育ってしまったのかは分からない。人間は僕の姿を見る度に独りぼっちで可哀想だの孤独に生きる姿に逞しさを見出したのだの思い思いに感想を述べてはいたものの、僕にとってはどうでもいいことだった。僕も僕たちも生まれてくる場所を自分では選べない。無残に千切られ、踏みつぶされ、青々しかった大地が人の手によって夕陽のように染まりながら焼かれたとしても、僕には何も出来ない。

 ただ迫りくる赤い空気はとても熱く息も出来なくて、苦しいなあと僕が思った瞬間だった。真っ赤だった周囲の景色が急に開けて、氷のように冷たくて軽い風が吹き付けたのだ。

 見も知らぬ人間だった。苦しかった呼吸が急に楽になったのは、僕らの何十倍もの背丈を持つ彼が、根の潜む土ごと僕を引き抜いて持ち上げたからだ。

「チェズレイ。近くの人達は全員避難させたよ。火の回りが思ったよりも早い。俺たちもそろそろ戻ろう」
「モクマさん。……ええ、そうですね」

 気配を感じることなくもう一人の人間がいつの間にか現れて、僕の体をそっと包む「チェズレイ」に語りかける。「モクマさん」のかけた言葉にチェズレイは返事はするものの、一向に目を合わせようとはせずに僕だけをじいっと見つめている。

「チェズレイ、もう行こう。……その子も一緒に」

 呼吸を止めたように微塵も動かなかった彼が、モクマさんの台詞に弾かれたように動き出した。

「あなたがそれを許してくださるのなら」

 チェズレイと呼ばれていたその人は壊れ物を扱うように僕を静かに胸に寄せ、モクマさんはそんな彼の体を難なくひょいと持ち上げて、僕が気づいた頃には炎に燃え盛る故郷はあっという間に遠ざかっていた。


 僕の体にぴったりあった鉢植えを用意してくれたのはモクマさんで、ことあるごとに僕に水や栄養を与えてくれるのもモクマさんだった。けれど僕に一番語りかけてくれるのはチェズレイだった。

 この「チェズレイ」という人は不思議な人間だ。以前、僕はこのチェズレイが本来の彼ではなく全く別人の姿になったのを何度か目撃したことがある。僕たちも成長の過程で姿形が変わることはあるけれど、彼のような極端な変化じゃない。正直初めて見た時は心臓が飛び出るぐらに驚いた。モクマさんはチェズレイのその姿を「変装」と呼んでいたが、それは普通の人間が簡単に出来るようなものではないことは人間の世界に疎い僕だって知っていた。


 「人間」は僕にとって理解しがたい生きものだ。


 僕は生まれた時から僕であり、僕以外にはなれない。それは僕だけではなくこの世界に生を持つあらゆる存在が縛られる真理だ。僕が真っ赤な薔薇の花になれないように、猫が月になることは出来ないし、魚が星になることもない。そもそも僕は、僕以外のものになれるだとかなりたいだとかを考えたことすらない。けれど人間は、いつだって「人」だけが自分以外の何者かになりたがる。

 チェズレイ。君は僕によくこう語りかけるね。私達はいつだって何者でもないからこそ何者にもなれると、何度でも変われると。でも、君がまるで別人のように振る舞う度に僕はこう思うんだ。


 本当は自分以外の何者にもなれないことを一番よく知っているのは君なのにって。


 他の何者にもなれない僕たちは、この世界に存在するどんな生き物よりも圧倒的に弱い。だからこそこの世界で生き抜いていく為の術が僕たちの中に全て刻まれている。人間が言葉や文字を使って過去や今の世界を知るように、僕たちは僕たちのネットワークを使ってこの世界に根を下ろし続けている。

 時に君は君によく似た女の人の姿になって、一人長い間僕を見つめ続けることがあった。優しく穏やかなのに少し悲しそうな視線にはどこか懐かしさがあって、僕は何気なく僕たちの中にその記憶を探った。今よりもうんと昔の、この場所よりも遥か遠い場所でのことだった。清々しいほどの青空の下で小さかった頃の君はその女の人と手を繋いで、僕たちに囲まれて楽しそうに笑っていたんだ。君は見も知らぬ誰かなんかじゃなくて、ずっと君だった。だから僕は君が君以外の誰かになる理由がほんの少し分かった気がする。


 それはきっと僕が君の姿を見つける為で、君が君自身を見つける為だったんだね。


「聞いてくださいます? あの人、また私を起こしてくださらなかったんですよ。酷いでしょう?」

 窓から零れる光を浴びたチェズレイの長い髪がさらりと流れる。その目映さを一身に受け止めながら「モクマさんは忙しくて疲れている君を出来るだけ休ませてあげたかったんだよ」と僕は答える。

「チェズレイ。そういう文句はおじさんに直接言ってほしいなあ」
「おや、聞こえていらっしゃいましたか」

 奥のキッチンからモクマさんが当然のように現れて、出来立てのコーヒーをテーブルの上にそっと置く。少し拗ねたようなモクマさんにチェズレイは楽し気に笑って見せて、ふとどちらからともなく互いの唇を触れ合わせた。

 彼らがどんなに深い関係であろうと決して子孫を残すことは出来ないと、僕たちの中の誰かが言った。でもそれは果たして本当のことだろうかと僕は疑問に思う。僕たちには「愛」という概念が存在しない。僕たちは僕だけで種を残すことが出来るし、そこに愛は存在しないし必要もない。愛を知らないままに、僕たちはいつまでもずっとここにあり続ける。

 でも人と同じように、僕たちだって僕たちの仲間から切り取られては生きてゆけない。豊かな大地に根を張りることで僕は僕たちと繋がりながら生きている。大地から切り離された後に僕が僕であり続けられる時間はごく僅かで、でも僕が今こうしてここにいるのはきっと彼らと繋がっているからだ。僕は僕たちではない僕が好きだ。彼らと一緒に過ごす時間が大好きだ。出来れば僕が僕でいられる最後の瞬間まで、ずっと共にありたいとすら願っている。これが人が持つ「感情」で、僕が僕たちであった頃には知り得なかったものだ。


 例えば土の中で根を大きく広げて生きていく糧を求めるように、渇きを潤す恵みの雨を得た喜びのように。長い氷の世界から解き放たれてようやく出会えた春の陽射しのように、今か今かと待ち望むこのあたたかさを「愛」と呼ぶのだろう。


 君の目覚めをずっと待ち続けるモクマさんの姿は、太陽に恋焦がれる僕たちの姿に良く似ている。


 彼らから零れ落ちた惜しみない愛は、これからもまた誰かと繋がってこの世界を生き続けるのだ。


「もうちょいで朝食が出来上がるから、少しだけ待っててくれ。その後はお前さんの文句でも何でも、ずっと聞いてあげるから」
「それはそれは、楽しみですねェ」

 再びキッチンに戻るモクマさんの背中を見送った後、こっそりと内緒話をするようにチェズレイは僕に言った。

「ここだけの話、実はモクマさんは私のことが大好きなんですよ」

 知ってるよ。

「そして私も、そんなモクマさんが大好きなんです」

 それも。


I know 愛を知るということ。「」の中の文字はこれから知っていきたいこと。まさかの野花視点で。

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