ひとくち、ふたくち

 チェズレイはその姿や気品さ故に美食家だと思われているが、実際のところは単なる食わず嫌いな部分が多い。食というものはつまりは信頼なのだとチェズレイは思う。知識や見た目で食を選別することは勿論だが、直感でこれは口にすべきものではないと退けることもある。それは毒物であったり薬物であったりするのだが、経口接種された食は自身の細胞と密接に関係することから鑑みれば、自分の体に害あるものや不要なもの、口に入れることを信頼するに足りぬものを拒絶するのは当然だ。

 表立ってはいないがやや偏食傾向のあるチェズレイは、その麗しい容姿に反して日々の活動量は平均と比べても著しく多い。つまり一日に必要とする熱量もそれなりなるわけだが、口に合わないものは拒みつつ限られた食事内容で何とか目標はクリアしている。

 それなのに、このモクマという男はどうだ。

 ミカグラ島の一件を経てこの先の同道を決めたチェズレイとモクマだったが、すんなりと新しい生活が始まったわけではない。なんせこれまで全く異なる道を歩んできた二人なので、生活のリズムがまるで違った。入念な会話とすり合わせ及びお互いの妥協と優しさ。仮住まいの住居に一つしかないバスルームは、基本的にはモクマよりチェズレイが先に使うことになっている。逆にモクマが先に入る場合はそれなりに清潔な状態に戻すことという約束ごとになっているが、最近は二人一緒に入る機会も多いのでチェズレイの中の基準も次第に曖昧になりつつある。

 風呂上がりに母親譲りの美しく長い髪を丹念に乾かし、ほどよく温められしっとりとした肌でリビングにチェズレイが戻ると、モクマが一人でいそいそと晩酌を始めていた。二人が夕食をとったのは今から五時間程前なので、普段よりはかなり早めの時間帯だった。就寝する時間から逆算するに、丁度小腹が空いてくる頃合い。おそらく今夜はそういう機会があるだろうなと予想していたが、テーブルの上に広げられた料理の内容に僅かに目を見開いた。

 所狭しと並べられていたのは揚げたてであろう大量の鶏の唐揚げと山盛りのフライドポテト。その横には月のように丸いチーズとトマトソースがたっぷりかかっている二種類のピザ。あからさまな野菜不足を補う為の三原色のサラダも到底二人分だとは思えないし、数種類用意されたクラフトビールを見るにあたり、何らかのパーティが催されると誤解されてもおかしくはない量だった。チェズレイは呆れた口ぶりでモクマに語りかける。

「さて……今日は何かのパーティでしたかね」
「少なくとも、俺とお前さんのスケジュールには無かったけどね」
「では、このジャンクにまみれたこの料理の数々は一体どう説明するのでしょう」
「いやさー、この間電話でルークがアーロンと一緒に自宅で映画鑑賞会をやったって教えてくれてさ。その時のことを聞いてたらおじさんもやりたくなっちゃった」
「私を巻き込むことを前提に?」
「むしろこんなことに付き合ってくれるのはお前さんしかおらんだろ」

 モクマの返答がぎりぎり合格点だったので、チェズレイは大人しくモクマの空いた隣のソファーにぽすんと座り込む。待ってましたとばかりにモクマは喜々として冷えたグラスにとくとくとビールを注いで、そのままチェズレイに手渡した。まずはとりあえずビールでと、チェズレイだったら一生使わないような台詞をモクマが口にする。

「はい、乾杯」

 既に注いであったモクマのグラスと無意識に傾けたチェズレイが持つ器がぶつかり、カチンと高い音が響いた。黄金色のビール七割に泡の比率が三。美しい色合いだった。こくりと何口か飲み流すと、口の中に程よい苦味が残る。満たしていたものがなくなったグラスの空間の向こう側には、大きな壁掛けのテレビに忍者姿のヒーローが世界平和の為に悪党と戦っていた。どうやら劇場版らしく確かに映画鑑賞会の映画であることには間違いないが、いい年をした大の大人が夜中に見るものではないとチェズレイは肩を竦めた。ついでにこの晩酌にしては重すぎる料理も、どうせルークの話からそっくり真似したラインアップなのだろう。時間経過を差し引いても流石に夕食は普段通りに済ませたので、それほど空腹を感じていないチェズレイは全くといっていいほど食指が動かない。

「……? どうしたんだい、チェズレイ。おじさんの顔に何かついてる?」
「いえ。ただ素晴らしい食べっぷりでいらっしゃるなァと」
「えへへ。おじさんまだまだ成長期なのかも」
「またそんなことをおっしゃって、明日胃もたれをおこしても知りませんからね」

 対してモクマと言えば、チェズレイの忠告を意にも止めずにぱくぱくと料理を食い散らかしている。その姿が某野獣の姿を彷彿とさせ、チェズレイは遠く離れて暮らすヒーローズの姿を思い返す。想像の中ではあるものの相変わらず元気そうで何よりですと心中で唱え、ふとモクマにもこういう年頃があったのだろうなと思い至った。さほど興味のない映画を流しては時に声をあげて盛り上がり、つまらないねと批評しあっては特定ではない誰かと安酒を酌み交わすような。可能性の話と捏造した過去の妄想をチェズレイは咄嗟に振り払った。チェズレイは過ぎてしまったことを一々蒸し返すような性格ではないし、それをモクマに問い詰めるほど女々しくもない。気に食わないというよりも多分その時のモクマの隣に自分の姿の影も形も無かったことが、ほんの少し寂しいと感じただけだ。

「チェズレイ。お前さん、今ほとんど胃が空っぽの状態だろ? おじさんが誘っておいて何だけど、そんだけぐいぐい飲むんなら少しは腹に入れないと」

 アルコールと一緒に落ちた気分ごと飲み込んでやったというのに、今度は逆にモクマがチェズレイの胃を心配し始めるのが妙に腹立たしい。

「あなたと比べたら少食なんです」
「えー、そうかなあ。チェズレイもまだまだ食べ盛りでしょ」
「どっちが」

 アルコールが入ったせいか、モクマは普段よりも良く喋るし良く食べる。チェズレイはそれとは知られずにこっそりとモクマの観察と栄養管理をしているつもりなのだが、それもどこまで正確かは分からない。深夜にこれだけ高カロリーなものを摂取して、チェズレイよりも小柄なその体でどうやってその熱量を消費しているのやら。

「そんなにつれないこと言わんといて。ほら」

 モクマのごつごつとした手がピザの一切れを掬い、チェズレイの目前に持ちあげてみせる。その意図を汲み取るよりも前に、モクマが「あ」と発音しながら口を開けた。何て行儀の悪い。チェズレイは顔をぎゅっと歪めたが、それはマナー違反への嫌悪ではなくモクマから甘やかされているのを実感した気恥ずかしさからだ。チェズレイと二人きりになった時にだけモクマに現れる歳上の余裕というか恋人めいた振る舞いというか。

 チーズと共に蕩けた液体が滴りそうになって、思わずチェズレイは唇を開いた。雛が親鳥から餌を与えられるように、疑いもせずもにモクマから咥内に押し込まれたものを招き入れる。あつ、と感じたのも束の間に、トマトソースの酸味とじゅわりとしたチーズと生地の旨味が口の中に広がった。無意識に咀嚼を続けると、唐突な栄養の投下に脳が痺れていくのが分かる。自覚はあまりなかったが、チェズレイもそれなりに腹が空いていたらしい。服屋に行く服がないという例えのように、空腹を感じているのに食べる気力が無かっただけかもしれない。その証拠にチェズレイは大きなピザの一切れを綺麗にぺろりと平らげてしまった。

 これはもう一切れくらいなら食べられるかも。チェズレイがテーブルの上の料理に手を伸ばそうとすると、ぱしりとモクマに止められた。風呂上がりで手袋を外したチェズレイの素肌に、モクマの熱が伝わる。驚愕したチェズレイが横を振り向くと、射るような視線でこちらを睨むモクマと目が合う。ぞわりとした感覚チェズレイの背筋を駆け上がった。

「モクマさん、あなた一体どこでスイッチが入ったんですか?」
「お前さんが大きいお口をあーんって開けたとき」
「……それはそうなるようにあなたが仕向けたことでしょうに」

 チェズレイの掌を掴んでいたモクマの無骨な手は、いつの間にかチェズレイの体を弄り始めている。ぞわりとした悪寒はモクマが触れたところから快感に置き換えられて、チェズレイの無意識な抵抗が徐々に消えていった。

 意味深に押し付けられたモクマの体と下半身の今にも暴発しそうな凶悪さに、チェズレイはつい笑い出しそうになってしまった。このモクマという男はチェズレイに触れただけでこうなってしまうのか。ソファーに食い込むように自分を押し倒している男相手に、可愛いなあと思うと共に愛おしさが込み上げてくる。この昂りを喉元まで咥え込み、舌で苛めながら頭を上下する合間に盗み見る、切羽詰まったようにチェズレイを見下ろす熱の灯ったモクマの目が好きだった。まんまとチェズレイの口のなかで破裂させ、毒にも薬にもならないような代物を喉奥から嚥下させ腹の中に収める恍惚の瞬間も。

「私みたいな毒しか持たないような人間を食べようだなんて、あなたのお腹を壊しても知りませんよ」
「そりゃあお互い様だ」

 最後のひと押しはお前さんの大きな口だったけれど、最初のきっかけはルークから映画鑑賞会の話を聞いた時だとモクマは言う。

 チェズレイにも同じような経験があったのだろうか。モクマふと考え込んだ。モクマが知るチェズレイの過去からして、その線はまあまあ薄そうだが、絶対に無いとも言い切れない。けれど過ぎた日々は取り戻せないように、モクマがチェズレイの過去を必要以上に気にかかることはお門違いだ。モクマは無理矢理結論づけて、そのお話をおしまいにしようとした。

 けれど今のチェズレイだったら? 唐突にモクマの中に悪い想像が沸き起こった。チェズレイは空飛ぶ飛行船の中で出会った時より、優しくなったし柔らかくなった。凛とした美しさ中に併せ持った毒は、他人との距離に一線を置いていて到底踏み込むことが叶わなそうな冷たさがあった。しかし今モクマの隣にいるチェズレイは違う。彼を覆う冷たい氷面はそれを一突きして貫いてしまいさえすれば、裂け目から春のような揺るぎないあたたかさが溢れ出る。あのチェズレイ自身を一度知ってしまったら、もう二度と抜け出せない。現にモクマがそうなってしまっているように。

 お前さんがこの先誰かと一緒に肩を並べて穏やかに過ごす時間も、その先にある肌を重ね合うひとときも、可能性を一つも残さず全部俺が奪ってやろうと思って。今夜はそういう機会があるかもというチェズレイの期待を遥かに凌駕するモクマの告白に、チェズレイは笑った。一見善良な人間の顔をしているくせに、チェズレイの喉笛を噛み切るような鋭さで迫るこのモクマという男はとんでもない食わせ者だ。

 それでも食べるということが信頼の証で、腹の中に含めたい情念がチェズレイだけではなくモクマの中にもあるという事実に腹の底から歓喜が湧く。今夜はそういう機会があるだろう。迎えた局面を期待していたのはチェズレイも同じだ。果たしてどちらが捕食者なのやら。喉元から響く笑い声を懸命に押し留めながらチェズレイは、今はこの男に素直に食われてやろうと腕を伸ばした。


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