火種

 モクマはそもそもあからさまに勝てないような勝負には挑まない主義だ。

 マイカの里と呼ばれる故郷で幼い頃から忍びとしての教育を徹底的にしこまれたモクマだからこそ、その意識はとても顕著だ。相手の力量などは一見しただけでおおよそ検討はつくし、稀に奥の手と呼ばれるような底力を見せる者もいるが、モクマにしてみれば誤差程度のもので自らの勝利が最終地点であることは変わりない。反対にモクマが勝てそうにないと判断した相手には、最初から勝負を仕掛けることすらしない。策略を張り巡らし、自分が相手より劣っているからこその作戦ならまだしも、一度引いて二手三手打てる手段がないのであれば向かい合うだけ時間の無駄だ。圧倒的な力量の差は結局同じスタートラインにすら立てていないことを自覚すべきで、真っ向から対峙するよりもまず己の力不足を省みて肉体の鍛錬に時間を使うことの方がよほど有意義だとモクマは考える。

 何度でも言うが、モクマは絶対に勝てない勝負はしない。
 頑なに志を貫くのは、決してモクマが臆病であることが理由ではない。



 つるりとした白く細長い酒器にとくとくと熱燗にした日本酒が注がれる。こぽこぽと心地良い音が聞こえてきそうな折に、網の上で炙ったばかりの乾燥した魚のヒレがぽとりと酒の中に落とされ沈んでいった。すかさず酒器に蓋が被せられる。しばらくするとバーテンダーがおもむろに小さな箱の中からマッチを一本取り出し、側面に頭薬を擦り付けた。ぽっと赤い火が灯る。寸分の躊躇いもない所作で酒器の蓋が外され、マッチの先頭が近づく。赤い炎が円を描くように浮かびあがり、一瞬にして消えていった。同時にお待たせしましたという声がモクマにかけられる。

 ありがとねと礼を言いながらカウンター越しにモクマが受け取る。片手に収まる程度の酒器を指先で持ち上げて、最初の一口を飲み込んだ。先程火でアルコールを飛ばした効果か、強い酒の割には口当たりがまろやかだ。くう、と染み入る声を洩らしながら、まさかこんな場所でこんな一品をいただけるとはねえと素直に感想を告げる。おそらく言われ慣れているのだろう。この店には色んなお客様がいらっしゃいますからと答えるバーテンダーには卒がない。

 ざっと見て二十人程度がやっと入れるぐらいのこじんまりとした店内は、日付を跨ぐ時間がとうに過ぎたというのに満席だった。何処にでもあるようなバーの雰囲気を醸し出しているくせに、意外や意外たる酒の種類や肴が隠しメニューとして存在しているという裏の世界でも専ら評判の店だった。噂を聞きつけてやってきたモクマも、昔懐かしいふるさとの料理でもてなされて以来は足繁く通う常連客の一人だった。何が出てくるか分からないからこそ無茶を承知してでも言ってみるものだと頷きながら、もう一杯おかわりでと空になった酒器を揺らしながらモクマが再度同じものを注文する。

「お連れさまの分は宜しいでしょうか?」

 バーテンダーの問いかけにモクマの眉がぴくりと動いた。差し出がましいことを申し訳ありません、と恐縮する店員にモクマは苦笑いを浮かべる。子供じゃあるまいし、自分で飲みたいものはあいつが自分で頼むだろう。モクマの返答に得心したように、バーテンダーはてきぱきとモクマの酒の準備をし始める。

 滑らかな造作を眺めつつ、モクマはカウンターに肘を乗せて頬杖をつく。ちらりと一瞬視線を外したのは気の迷い。見慣れすぎた光景を目で捉えて、深々とため息をついた。チェズレイをここに連れてきた時点で分かっちゃいたけどさあとモクマは内心愚痴をこぼす。

 あちらは美麗衆目なお姉さま方に囲まれて楽しげにしているというのに、モクマといえば背中を丸めて一人寂しくちびちびと酒を飲んでいる。あまりにも対照的な姿はどう慮ってみても、ちっとも宜しくはない状況だった。懐具合などそっちのけで多少値が張る酒に逃げたくなるくらいには、モクマは悩んでいた。



 はじまりがいつだったのか、どうしてそうなったのか。推察することは無意味ではないにしろ、さほど重きを持つものでもないだろうとモクマは思った。自分の影に初めて気づいた時のように、存在を知った瞬間にはもうそこに存在している。いつからとかどうしてと疑問を持つものでもなければ、認める認めないの話でもなかった。ただ、そこにあった。あるのだからそうなのだとモクマは納得した。納得して、モクマはチェズレイに対する感情を恋心と名付けた。

 相棒にかける情が行き過ぎている自覚はあったが、まさかこんな形で収まるとは思ってもみなかった。かと言ってモクマは自分の想いを伝えるつもりなんてなかったし、見返りも求めなかった。ただ、そこにあるだけ。影と同じように他のことに夢中になって忘れることもあったし、ふとした瞬間に思い出すこともあった。何をしてくれるわけでもない、何かが出来るわけでもない。それでもモクマにぴたりと寄り添い離れない恋心は時に愛おしく、時にうら悲しい気分にさせた。

 モクマの中でこの先ずっと飼い殺していくはずだった感情は、ある時をきっかけに口先から転がり落ちてチェズレイに伝わった。そして告白を受けたチェズレイは少し驚いたように目を瞠って、困ったようにモクマにこう告げたのだ。

「少し考えさせてください」

 たん、とついつい音を立てて酒器を置くと、近くにいた客がモクマの様子を伺うように視線を向けた。しまったと思いモクマが片手をあげて軽く謝罪すると、和やかだった店の雰囲気があっという間に戻ってくる。それでもモクマの隣はいつまでも空席のままだ。

 白黒はっきりつけたがるタイプのチェズレイが、ああいった曖昧な返事を口にするとは思わなかった。告白自体も衝動的に行ってしまったモクマだから、その時はあっさり引き下がってしまったが、今から思うにこれは失敗だった。一ヶ月。もう一ヶ月だ。チェズレイはモクマを極端に拒絶することもなければ、相棒という関係以上に意識するそぶりも見せなかった。チェズレイに拒まれなかった安堵が、逆に今は焦燥となってモクマを追いつめる。

 チェズレイの美貌に魅入り、誘蛾灯のように悪い虫が引き寄せられるのは別に今に始まったことでもない。美しいものに惹かれるのは言わば人間の習性のようなもので、チェズレイに群がる彼らの本質に何ら変化はないのだろう。変わってしまったのはおそらくモクマだけ。正直なところ、黙って見ていることしか出来ないモクマの腸は煮えくり返っている。

 見れば尚苛つきが増すのは分かっていて、けれど見て見ぬふりも出来ない。最後の一滴も残さぬよう飲み干して、もう一度目でチェズレイを追った。すると偶然にもチェズレイと視線が絡んだ。縋るようなモクマの瞳を見つけて、チェズレイが口角を上げて静かに笑った。

 その瞬間ぱきりと何かが体の底で割れるような音を、モクマははっきりと聞いた。

 がたんと椅子を鳴らしてモクマは立ち上がり、おあいそとバーテンダーに声をかけた。ふらふらと狭い通路を抜けて出口を目指していると、会話を遮ってチェズレイが人だまりから離れてモクマに歩み寄る。

「モクマさん。今夜はもう宜しいのですか?」

 また、まただ。だから何一つ宜しくはないんだって。恨みがましい台詞は喉奥に押し込んで、情けなくもモクマは軽く頷く。当然のように帰り支度を始めるチェズレイにモクマは静かに眉をひそめた。

 何かを天秤にかけるときにはいつだって結局最後にはモクマを選ぶくせに。

 チェズレイが一体何を考えているのかは分からない。けれどモクマは我慢の限界だった。



 薄雲がたなびく夜空の中、いつもより月の位置が遠く高い。街灯の光は心許なくても、チェズレイの姿形がくっきりと目視出来るのは月の光が強いからだろう。アルコールで熱っぽくなった体に冷たい夜風が心地よい。機嫌が良いのか、チェズレイの足取りは軽やかだ。無意識に先だって歩くチェズレイの後をモクマが追う。人気のない夜道を音も立てずに忍び足で歩いていたモクマがぴたりと動きを止めた。モクマの気配を察してか鍵盤の上を叩くように進んでいたチェズレイが、数歩離れたところで立ち止まり振り向く。

「モクマさん。いかがなさいましたか?」
「ちょっとね。……なあ、チェズレイ。少し聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」
「ええ。なんでしょう」
「……お前さん、もっと違う確かめ方は出来なかったの?」

 チェズレイが息を飲む。目を逸らすことは許さないと言わんばかりにモクマの真っ直ぐな視線に力が籠る。白光を浴びた金色の髪が神々しく輝きながら風に揺れた。両端の口角を釣り上げて、店にいた時のようにチェズレイが笑った。

 チェズレイが人に囲まれるのはよくあることだし、同じようにモクマが人に声をかけることもよくあることだった。互いのテリトリーへの不干渉は同道上においても暗黙の了解になっていて、軽く揶揄したことはあっても咎めることは一度も無かった。間に入れないやるせなさを誤魔化す為に、或いは秘密を秘密のままに据え置く為のカモフラージュに。けれどその均衡を先に破ったのはチェズレイの方だとモクマは思う。

 一ヶ月前のあの夜も、こんなふうに月が綺麗だった。

 店の中で馴染みのある顔にモクマの方が囲まれていて、珍しくチェズレイが壁の花だった。とりとめのない会話のさなか、確かめるように追ったモクマの視線がチェズレイのそれと絡み合う。一瞬だった。彼の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ垣間見えた揺らめき。瞬きを一つした後にはさっぱりと消えてしまった灯火のような揺らぎは、けれどモクマの心臓を打ち抜くには十分だった。

 あの存在をモクマは知っている。何故ならモクマも同じものを持っているからだ。
 隠し通していたはずの、飼い殺していたものの。
 永遠に伝えるはずのなかった恋心を。
 だからモクマは思い切って踏み出したのだ。

 モクマはそもそもあからさまに勝てないような勝負には挑まない。
 なぜなら、どうせ勝負事をするならモクマは絶対に勝ちたいからだ。

「モクマさん。実に良い表情をしてらっしゃいますねェ……」
「お前さんほどでもないよ」

 もはや共に取り繕う余裕すらない顔だ。

「モクマさんが私にお聞きになりたいことはそれだけですか?」

 張り詰めたような緊張感を打ち破るようにチェズレイが問う。肯定も否定もせずにモクマは押し黙ったままだ。

「では今度は、私がお伝えしたいことを申しあげます」

 こつりこつりとチェズレイの足音がモクマに近づく。お互いの手が難なく取り合える距離まで詰めたチェズレイの顔を、モクマは見上げた。見慣れた姿だというのに月明りに微笑むチェズレイはやっぱりとんでもなく綺麗で、うっかり見蕩れそうになる。

 モクマの抱えた影ですらぱくりと飲み込んでしまえる程の大きな口から、一体何が飛び出してくるかは分からない。分からないけれど、その中にモクマが望むものが確かにあることだけは分かる。だからモクマは無茶を言ってでも締め上げてでも、チェズレイから吐き出させる。その覚悟があったからモクマは踏み出せた。

「最近の私はアルコールに大分慣れたつもりではあるのですが、ごくたまに意識が飛ぶこともありまして」

 子供のような無邪気な顔で、チェズレイがいたずらっぽく笑う。

「モクマさんが一ヶ月前に私にくださった言葉を忘れてしまいました。……だから、もう一度お聞かせ願えませんか?」

 促されるままモクマは、チェズレイに一ヶ月前のあの夜と全く同じ言葉を贈った。

「申し訳ありません。今モクマさんが仰った言葉も忘れてしまいましたので、もう一度お願いします」

 明らかな嘘にも関わらず、モクマは何度も彼の求める言葉を繰り返した。その度にくすぐったそうにチェズレイが微笑む。その笑顔がたまらなく可愛い。

  「だったら、お互いに絶対に忘れられないようにしてみる?」

 何度目かの返答の後、付け加えるようにモクマが言った。チェズレイの手をモクマが取る。手袋越しにゆっくり指先をくすぐると、心惹かれるお誘いですねェとチェズレイがモクマの手を握り返した。

 勝った、とモクマは思ったのだけれども。チェズレイもまたモクマと似たような表情をしていたので、そういえば彼も相当な負けず嫌いだったなと思い返す。

「時にモクマさん。私もモクマさんに伝え忘れていたことがあったのですが」

 諍いなどではなく、これがただの恋ならば。

「私もモクマさんが好きですよ」

 勝者が二人いてもいい。

 互いの情熱に気づいてしまったあの夜から、仕込まれた続けた激情の毒がアルコールのように体を巡り巡る。爪先からてっぺんまで猛り狂った情熱は、きっと一瞬の火だけなんかじゃ足りない。絶対に物足りないよ。

 チェズレイの耳元に手を寄せて、内緒話をするようにモクマが告げた。

 ねえ、チェズレイ。

 今夜は二人で、燃えちゃおっか。


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