ユリという女性から結婚式の招待状が届いたとモクマから告げられたのは、数日前の朝食のことだった。お前さんも覚えているだろう、と焼けたトーストを食べながらモクマが言う。あの、飛行船に乗っていた子。しばらくの思巡の後、ふと思い当たり、ああ、あのミカグラ島行きに乗っていた、とぼそりと呟いた。そうそうあの時の子、とモクマは傍から他人が聞けば誤解を招くような発言をする。ついでに言えば、ミカグラ島行きの飛行船でユリに出会ったのは簡単に数えても十年を過ぎている。けれど昨晩の夕食を思い出すような気軽さで言ったモクマに、そうですか、ではお好きなように、気を付けていってらっしゃいとチェズレイが何気なく言葉を続けようとしたところだった。

「だから、チェズレイも一緒に行こう」
「私が?」

 そもそも「だから」という言葉の使い方もおかしい、とあからさまな顔でチェズレイはコーヒーを淹れたカップをテーブルに置く。嫉妬という感情を抑えることが、チェズレイは随分うまくなった。モクマが今更自分以外の人間に目移りするとは思えないし、さすがに今に結婚しようとしている女性に対して抱く感情でもない。

「招待状に書いてあったんだよ。よろしければ、大切な人とご一緒に参加していただけたらって」

 大切な人という文言に、ぐら、とチェズレイの意思が揺らいだのが嫌でも分かる。ここ最近モクマはチェズレイの扱いが非常にうまくなっていた。


***


 数年ぶりのミカグラ島の天候は驚くほどの快晴だった。白い光が何の遮りもなく降り注いで、少し目が痛い。世界を点々としながらミカグラ島にも何度か足を運んでいたが、それでも随分と懐かしい気がした。島の知り合いに顔を出し、挨拶もそこそこに招待状に記載された式場を目指す。遅刻すれすれなのは単純にチェズレイの予定がなかなか折り合わずに、調整に難儀したからだ。ニンジャジャンというヒーローショーを通してのファンレター似た招待状は、なおさらチェズレイの心を渋らせた。それなら尚更ヒーローとは無関係の私が参加する意味はないのではないかと自問自答して、もう二人分の名前を書いて返事を出してしまったあっけらかんと笑うモクマにチェズレイは、少し怒った。

 何とか間に合った結婚式はつつがなく終わりを迎え、今は各々が飲み食いをしながら談笑している。率直にいい式だったとチェズレイは思う。島で一番豪華で大きいと豪語されている教会は、島中の人を集めたように大賑わいだ。こじんまりとした教会でひそりと将来を誓いあうのも良いけれど、こうやって何かのお祭りみたいに楽しむのもミカグラ島らしいと言えばらしかった。かと言ってそういった雰囲気に長時間いることはチェズレイには不向きで、ちょっと外の空気を吸ってきますとモクマに伝える。久しぶりの郷土の料理と酒に気を良くしているモクマは、二つ返事で頷いた。

 教会の外はちょっとした森のようになっていた。緑に茂った枝葉が天に向かって伸び、視線を空から下におろすと、ちいさな小道がチェズレイの足元に現れる。一つ息を吸い込んで、また息を吐く。空気を美味しいと感じたことはあまりないが、ミカグラ島のそれはいつもチェズレイの心を洗い流してくれるような感覚だった。

「こんにちは」

 唐突に背後から声をかけられ、チェズレイはゆっくりと振り返る。誰かがひそりと抜け出したチェズレイの後をつけているということには気が付いていた。あれ、驚かないんですね、とくつくつと笑うその人に、チェズレイは肩を竦める。

「いえ、これでも充分驚いているんですよ。今日の主役の花嫁が、私に何の用ですか?」

 太陽に向かって咲く大輪の花のような黄色のドレスを纏うユリという女性は、その台詞を待っていましたとばかりに微笑む。昔、モクマが飛行船の中で助けた女の子は、数十年の時を経て、豪華なドレスに引けを取らないくらいの美しい女性に成長していた。



「あなたにどうしても話したいことがあって。お礼を言いたくて」

 お礼、という言葉にチェズレイは心当たりの一つもなく、訝しむ。

「申し訳ありませんが、昔あなたがピンチの時に助けたのは正義のヒーローであって、私ではありませんよ」
「知っています。小さい頃、飛行船の中のトイレに閉じ込められていた私を助けてくれたのはニンジャさんで、そんな私はずっとニンジャさんのことを見てきたんです。ずっと、ずうっと前からあなたがニンジャさんの隣にいたことも、見てきた」

 ふいにチェズレイとユリとの間に風が吹き、一瞬の沈黙が流れる。

「昔、何年か前にもニンジャさんとあなたがこの島を訪れていて、偶然出くわして。その時に私思い切ってニンジャさんに聞いたんです。あの綺麗な人はニンジャさんの一体何なんですかって。そしたらニンジャさん、何て言ったと思います?『大切な人』だって、ただ一言そう言ったんですよ」

 聞いていない、とチェズレイは思った。この女性とそんなやり取りをしたなんてモクマから一切聞かされていないし、言われていない。伝える機会はいくらでもあったのに。
 チェズレイの脳裏に招待状の文字がちらつく。大切な人、と刻まれた、あの。

「説明が曖昧すぎるなあとは思ったんですけど、私、妙に納得してしまって。そっかあ、あの人はニンジャさんの大切な人なんだなって。そしてあの人もニンジャさんを大切にしているから、あんなにも幸せそうなんだなって、素敵だなって思って。だから私も、あなたみたいに幸せになるのが夢になった」

 私のお父さんとお母さんみたいに、ニンジャさんとあなたの姿も、私の叶えたい夢になった。あなたを勝手に私の夢にしてごめんなさい、と真っすぐな瞳で打ち明ける花嫁の言葉に、チェズレイの心にふと宿るものがあった。それは気づけば一瞬にしてチェズレイの全身に広がって、叫び出したいような気持ちになって、でも必死に抑え込む。

「………ニンジャさんの大切な人が、全く違う人だったらどうするつもりだったんです?」
「それはちょっと考えましたね。正直、いちかばちかの賭けでした。………でも、やっぱりあなたが来てくれた」

 隠してひとつだけくすねてきたという罪の告白をしながら、ユリは一凛の花をチェズレイに差し出す。ブーケはきっとニンジャさんとあなたには必要ないだろうから、と言葉を添えて。

「あなたの幸せを夢みた時間、私はとても幸せだった。だから、ありがとうございます。この花は、お礼とお裾分けです」

 チェズレイは花嫁からそっと花を受け取った。白い小さな花だった。これからもきっと、あなたは私の理想です、と言葉を続けて。あなたから私は幸せを貰ってばかりいて、でも、今日だけは。


 ありあまる幸せの、お裾分け。私は私の大切な人を見つけて、そうして幸せになっていく。


 先に行く二人を眩しく見つめながら、これからもずっと夢をみる。


***


「覗き見をするなんて悪趣味にも程がありますよ」

 木陰に向かって非難の台詞を投げれば、のそりとモクマが現れた。やっぱり気づかれていた、と口にするモクマに当然でしょうとチェズレイは溜息をつく。目立った仕事がない時は、基本的に四六時中モクマは自分の傍にいる。いくらミカグラ島が慣れ親しんだ場所とはいえ、チェズレイからモクマが目を離す訳はないのだ。だいたいモクマ絡みの結婚式にチェズレイを連れていく、という時点でおかしいとは思っていたのだ。

「あの招待状は、ほぼほぼ私宛じゃないですか」
「そうだな。だから、一緒に行こうと言ったんだよ」
「だから、ですか」
「だから、だよ」

 胸に小さな花を抱いて、走り去って小さくなったユリの姿を二人で並んで見守る。

 他人から羨ましがられるということは昔から良くあった。誰もが目を向けてしまうような容姿に、劣らぬ知性と音楽の才能に。みんながみんなチェズレイを賞賛し、けれど同じくらい周囲からの嫉妬や羨望が常に纏わりついていた。心無い言葉を投げつけられたことも一度や二度ではない。でも、でも。ユリはチェズレイのことを全く違った意味で憧れた。チェズレイが、幸せそうにしていたから。幸せだからと。


 自分の幸せを他人から羨ましいと言われたのは初めてだった。


 チェズレイの心はきっと一度壊れてしまったのだ。破れて空っぽになった心を満たそうとして、でもいくらいくら感情を入れても穴から零れ落ちて、いつになっても埋まらなくて。痛くて寂しくて。

 モクマに出会ってからは、この心の傷もいつかは癒えるだろうと予感していた。けれどそれがいつになるかは分からなかった。でも、もうとっくに癒えていたのだ。空っぽだった心が満たされて、溢れて、今度は分け与えたくなる気持ち。誰かの幸せを祈れるくらいに。誰かの祈りを素直に受け取れるくらいに。


 チェズレイは、とうに幸せだったのだ。


「まるで大切に育てた娘を嫁に出したような気分ですよ」

 告げれば隣にいたモクマが可笑しそうに笑うので、チェズレイも一緒に笑った。あなたの傍にいると本当に退屈しませんね、と言いながら。

 そうやってチェズレイは母のことを少しだけ思い出す。チェズレイの危険を案じてその度に祈りをささげてくれていた彼女のこと。大丈夫、あなたの祈りはきちんと届きましたよとチェズレイは胸の中で静かに応える。

「こういう機会も、これからもっと増えるかもしれんなあ」
「あの時の子に心当たりはたくさんありますしねえ。それこそ、既成事実も」
「言い方」

 モクマは専ら、チェズレイの扱いがうまくなった。チェズレイをこんなにも簡単に幸せにしてしまえるようになった。そしてチェズレイも。モクマを大切に、愛おしむようになった。求めて受けとめて満たされて分け与えて。そうやって生きていく。これからも二人で。

 まあ、そう簡単に、追いつかせはしませんけどね、と消えた花嫁にチェズレイは宣告する。いくらでも、いつまでもチェズレイとモクマを追いかけてくればいい。負けずに私たちはもっと先にゆく。まだまだ先は長いし遠いのだ。それこそ、途方もないくらい。幸福には果てなどないのだし。


 でも、もし、万が一。あの子にチェズレイが追いつかれてしまったその時には。


「一緒に、語り合ってみるのも悪くはないかもしれませんねェ」
「何のこと?」
「いえ、こちらの話ですよ」


 てっぺんから、同じ正義の味方に救われた者同士の。



いつかの未来の話。

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