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 冷蔵庫を開けてみると、食材と呼べるようなものはあまりにも少なかった。いくら単身者向けの小型の冷蔵庫とはいえ、大人二人分の空腹を満たすには幾ばくか心許ない。キッチンを隈無く探して辛うじて見つけたトーストと卵、冷蔵庫の中に残っていた牛乳と食材の量に全く伴わない調味料。これなら軽食程度は作れるか。そう判断したモクマは、卵を片手で割ってボウルの中に滑り落とした。

 ふああと欠伸をしながら、菜箸で器用に卵を溶いていく。適度な調味料と牛乳を混ぜ込み、満遍なくバターを敷いたフライパンにそっと流し込んだ。じゅわあと音立てながら徐々に固まっていく卵を見つめながら、モクマは考える。ひーふーみ。そうか、もう三日か。何気なく呟かれた日数は、モクマとチェズレイがこのセーフハウスに引きこもっていた時間であり、自堕落の限りを尽くした日々でもあった。火が通った所から、モクマは箸で黄色い面を軽くつつく。途中焼きすぎて薄皮になった部分が箸に引っかかりぺろりと捲れた。

 途端チェズレイの剥き出しの白い脚がモクマの脳裏に過り、菜箸を持ったままべちりと右手で自分の頬を強く打つ。いかん。気を紛らわすためにやっと思いで寝室から抜け出だしてきたのに、返って気を取られてどうする。邪念に満ちた思考をぱぱっと振り払い、モクマは目の前の調理に集中する。そして今日こそは外に出て食材を調達するのだと固く心に誓った。

 出来立ての朝食とミネラルウォーターをトレイに乗せて、寝室のドアを軽くノックする。中からどうぞというチェズレイの声が聞こえたので、どうやらお目覚めらしい。ドアを開けておはようとモクマが声をかけると、チェズレイもおはようございますと小声で返した。モクマが申し訳程度に開けていたカーテンの隙間から溢れる光は、それでも部屋全体を包み込むほどに明るい。寝起きでぼんやりとしているせいか、ベッドから半身だけを起こしたチェズレイは少し不機嫌そうだ。

「それで、身ぐるみを剥がされたままの私を置いて、モクマさんは今までどちらに?」
「見て分からんかい? お前さんの為に朝食を作ってたんだけど」
「えェ、承知しておりますよ。けれど私と片時も離れたくないと仰ったのはモクマさんではありませんか。そのモクマさんがご自身で自らの言葉を反故にする程の理由が何処にあったのか、実に興味がありまして」
「……あ〜、チェズレイ。声をかけずに一人にしたことは謝るから、これ以上おじさんを虐めんといて」

 弱音を吐くようなモクマの声に満足したように、チェズレイが笑みを浮かべた。モクマさんからの直々のお願いですから仕方ありませんね。告げながらチェズレイはベッドの下に落ちてあったガウンを拾い上げ、素肌の上にそのまま羽織る。モクマが差し出したトレイを素直に受け取って、チェズレイはいただきますと両手を合わせた。

 ベッドの上で食事を取ることに初めは抵抗があったチェズレイも、今はもう随分と慣れたらしい。チェズレイは大きく口を開けて、モクマが作ったスクランブルエッグをトーストで挟んだだけのサンドイッチに齧り付く。静かに噛み砕いた後に飲み込んだ喉の動きにモクマは唾を飲み込み、慌ててチェズレイから目を反らした。

 モクマとチェズレイが初めてそういう意味で一緒に朝を迎えたのは、今から数ヶ月前のことだ。最終的に了承は得たとはいえ、かなり強引なやり口でチェズレイと婚姻を結んだ自覚はモクマにもあった。だがそれほどまでにモクマにとっては、これから先のことをチェズレイと共に誓うことは重要だった。肉体的な繋がりなど、精神的な結びつきの前ではただの付属に過ぎない。

 そもそもモクマはそれほど性欲が強い方ではない。元々深く人と関わることを避けてきたモクマなので、他人と性的な触れ合いをすることなどほぼ皆無に近かったし、けれど特段困ることも無かった。それは基本的に単独行動をしているチェズレイも同様で、性的な事柄においてはお互いに淡白であるとの認識だった。

 勿論チェズレイを前にして全く邪な気持ちが無かったわけではないが、モクマにとって簡単に抑え込めるようなコントロール可能なもの。モクマもチェズレイもお互いにいい年をした大人だし、間違って色欲狂いのようになることはないだろう。

 だが蓋を開けてみれば、モクマの目論見はあっさりと外れた。

 初めての夜、慣れない異物感と圧迫感に涙目になりながら耐えるチェズレイの姿のあまりのいじらしさにモクマの心は掻きむしられたし、ここまで来たのですからいっそひと思いに突き進んでくださいと迫るチェズレイの潔さに純粋にモクマは感動したものだ。苦しさだけの繋がりが、いつの間にか互いの快感を生み出すようになり、モクマがチェズレイの内部を貫く度にびくりと跳ねる白い体や溢れる嬌声に幾度なく脳が痺れた。モクマの形をすっかりと覚えたチェズレイは柔らかく吸いこむようにモクマを受け入れるくせに、逃さないとばかりに絡みついて絞りあげる。モクマも負けじと抵抗する度に、チェズレイは蕩けきった表情でモクマを見上げ、名前を呼ぶ。そうしてチェズレイが求めるがままに、白い肌に唇を寄せて鬱血した跡を残す。もっともっとと強請るチェズレイの甘い声に思考する神経は完全に途切れ、ただただ高みを目指して突き上げ続ける。

 端的に言えばモクマは、チェズレイとの行為においては自身をコントロールするどころか、完全に溺れたのだ。

 チェズレイに背を向けてベッドに腰掛けていたモクマは、ぶんぶんと頭を横に振った。朝食を作ることで多少の冷静さを取り戻したつもりだったが、過去の記憶と直近のチェズレイとの情事の映像が鮮やかに脳裏で再生されて、モクマの中心にまた熱が灯りそうになる。駄目だ、こんなの。チェズレイとこの家に引きこもってもう三日になるのだぞ。常に多忙な二人が久しぶりに取れた休日とはいえ、一歩も外に出ずみだらな行為に耽っていたなど、性行為を覚えたての子どもか俺はとモクマはがっくりと項垂れる。四十にもなってまさかこんなことで思い悩む日がくるなどモクマは想像だにしていなかった。散々チェズレイをモクマの下で乱れさせた挙げ句、年甲斐もなく甘い言葉を彼の耳元で数えきれないほど囁いた。片時も離れたくない。ふと先程のやりとりの中でチェズレイが口にした言葉を思い出す。そんな背筋がぞくぞくするような臭い台詞を、本当にモクマは言い放ったのだろうか。おそらく言ったのだろうな俺は。記憶にはないけれど、心当たりは山ほどあった。

 モクマの両肩がずしりと重くなり、同時に後方から長い腕がぬっと現れた。体の稜線を這うようになだらかに蠢いた白い手は、胸元で絡み合いモクマを捕らえる形で動きを止める。きゅっと一瞬は身を固めてしまったモクマだったが、すぐに体の力を抜いて動揺を気取られぬよう口を開いた。

「朝食は食べ終わったかい、チェズレイ」
「ええ。残さずにきちんと全ていただきましたよ」
「そりゃあ良かった」
「モクマさんもお召し上がりになられたらいかがです?」
「そうしたいのはやまやまなんだけどさ、食材がもうすっからかんなんだよね~。だから今日こそは買い物に出かけて」
「モクマさんはそれまで我慢出来るのですか?」

 モクマの背中にぴたりとチェズレイの体が張り付く。モクマの肩に顎を乗せてチェズレイは、ふうっとモクマの頬に息を吹きかけた後に口づけた。単なる頬への接吻ごときに、悲しくもモクマの心臓が跳ね上がる。

「あのね、チェズレイ。ちょっと聞い……」

 チェズレイの悪戯を嗜めるために、モクマはぎしりとベッドを鳴らしながら後ろに振り向く。やっとこちらを見てくださいましたねと微笑むチェズレイの姿に、モクマは目を剥いた。着たばかりのガウンは食事を終えて用済みとばかりに再び脱ぎ捨てられていて、チェズレイの肌が全てむき出しになっている。白い光を浴びてきらきらと輝く金髪の長い髪をはべらせたチェズレイの体には、数えきれない程の赤い斑点が浮かぶ。

 あられもないその姿に、ごくりと思わずモクマの喉が鳴った。

「モクマさんのお召し上がりになりたいものは、もう準備が済んでおりますのに」

 チェズレイの直球すぎる物言いに勘弁してくれとモクマは頭を抱えたし、実際に声にも出ていたらしい。

「心配せずとも、食料なら気の利く部下達がいつものように持ってきてくださいますよ」
「……チェズレイ。おじさん、もう上手い言い訳が思いつかないんだけど」
「言い訳? あァ……私達のいずれかが病に伏せっていて、看病で手が離せないから食料を調達してきてほしい、というアレですか。モクマさん、私達の部下は皆優秀なんですよ。そんな見え透いた嘘で本気で誤魔化せるとでも?」
「……はは。それは分かっちゃいるんだけどね。おじさん、そこは嘘でも話を合わせて欲しかったなあ」
「話を合わせるも何も。そもそも」

 言いかけたチェズレイが僅かに身をよじったかと思えば、そのまま勢いよくモクマに襲い掛かった。押し倒される寸でのところでチェズレイを制止したモクマだったが、腕の中に裸のチェズレイを抱き込む形になってしまった。モクマの両腕に抱き締められたチェズレイは、満足そうに笑っている。

「私に相談もせずに、私との関係を先に部下に暴露したのはモクマさんではありませんか」

 チェズレイの指摘が全くその通りなので、モクマは一つも反論出来ない。モクマの長年秘めていたチェズレイを永遠に捕まえておく計画は、最終段階を迎える間際に部下達に打ち明けていたのだ。モクマの計画が一度実行されてしまえば、結果がどうあれ少なからず彼にも影響はある。どうせいずれは話さなければならないことだ。部下達がモクマやチェズレイを深く慕ってくれていたことは知っていたし、モクマが潔く告白することで協力を得られるかもしれないと思ったのだ。ついでに仮面の詐欺師の評判を聞きつけて、チェズレイと深く関わろうとする害虫を上手く牽制してくれそうだという期待もあった。

「お前さん、もしかして勝手に伝えたこと怒ってる?」
「いいえ。式の後に泣きながら祝福してくれた部下もおりましたからねェ。大変貴重な体験をさせていただきました。まァ、その部下たちに食料を調達させておいて、私達は情事に夢中になるというのもまた貴重な体験ですが」

 くん、とチェズレイがモクマの匂いを嗅いで、うっとりと瞳を揺らめかせた。長い指先がモクマの肩口から首、頬へと登り、頬を包まれると同時にとろんとした表情のチェズレイと正面で目が合う。

「モクマさんにとって私はお口に合いませんでしたか? それとももう食べ飽きてしまいました?」
「……言わせないでよ。食べても食べても食べ飽きるどころか、また無性に食べたくなるから困ってるのに」
「物理的には私がモクマさんを食べているわけなのですが。何度も何度も欲しくてたまらなくなるのは同感ですよ」
「チェズレイ。一体何処でそういう台詞を覚えてくるの」
「黙秘します」

 にっこりと微笑んだチェズレイが、不意にモクマの体から軽く離れた。モクマの理性が大きくぐらぐらと大きく揺れていることを、きっと分かっていての行動だろう。チェズレイは警戒するモクマの左手を自らの両手で持ち上げて、顔に引き寄せる。チェズレイがぱかりと大きく口を開けて、モクマの指の一つを躊躇いなく飲み込んだ。されるがままだったモクマだが、鋭い痛みを指の根元に感じて思わず歯を食いしばった。チェズレイから噛まれたのだとモクマの頭がようやく理解する頃には、モクマの指には彼の歯型が赤くくっきりと刻まれていた。

「おそろいですね」

 チェズレイがモクマがつけたキスマークの一つをなぞりながら心底幸せそうに言うものだから、モクマの理性は音を立てて無惨にも崩れ落ちた。

「お前さんね、あんまりおじさんを虐めんといて……」
「虐めているつもりはありませんよ。モクマさんを必死に誘惑しようとしているだけで」
「だから、そういう台詞を一体何処で覚えてくるの」
「黙秘します」

 モクマがチェズレイの体を抱き込みながら、ベッドの上に押し倒す。そしてモクマの下で鮮やかに笑みを浮かべながらチェズレイは言った。

「ただ、あなたの為だけに覚えたのは確かですよ」

 粉々になったモクマの理性を焼き切るには充分な威力だった。



 昨晩部下達がこっそりと届けてくれただろう食料は、ほぼ調理の必要もなくそのまま食べられるものばかりだった。一体どのタイミングで来てくれたのだろうとモクマは少し不安に思ったが、今更気にしても仕方がないことかと諦めた。ごめん、そのうち美味しいごはんでも奢るから。内心で反省しまくるモクマとは裏腹に、満腹になったチェズレイはメイキングしたベッドの上で、バスローブを着たままごろごろと寝そべっている。乾かしたばかりの金髪はしっとりとして、胡坐をかきながら寄り添っているモクマが梳くように頭を撫でると、チェズレイはくすぐったそうに微笑んだ。ふと左手の指に刻まれたチェズレイの歯型が目に入る。ずいぶんと鮮明に残してくれたねえと思いながらも、モクマはモクマでチェズレイの体に所有印のごとく跡をつけまくっているので人のことは言えない。

 ただチェズレイの場合は服を着込めさえすればその全てを隠せるが、モクマの場合はどうすべきか。チェズレイがモクマを食べた証に残したものは左手の薬指にあり、つまりはどう考えていてもそういう意味であり、これをそのままにして第三者に見られるなど気恥ずかしいことこの上ない。モクマがしばし考え込んでいると、それに気づいたようにチェズレイがモクマを見上げた。ぱたぱたと動かしていた足を止め、すっと体を起こして両足は揃えたまま、モクマと似た体勢になる。噛み傷つけた昨日の朝のように、チェズレイはおもむろに両手でモクマの左手を取った。

「こちらがそんなに恥ずかしいのでしたら、隠せる何かをモクマさんにお贈りいたしましょう。そうですね、プラチナ製のリングなどはいかがでしょうか。勿論モクマさんにばかり恥辱に耐えさせるのは忍びないので、私も同じようにつけさせていただきますよ」

 おそろいで、と付け加えられた言葉にモクマは唸った。成程、これはそういう。二人の結婚式で唯一足りなかったものをまさかチェズレイが用意してくれるなんて。

「あんまり束縛しすぎるのはやりすぎかなあと思ってね」
「モクマさんはお嫌でしたか?」
「ううん、全然。むしろ大歓迎」
「それは何よりです。では、この後一緒に二人で出かけましょう。今日にはお互いにぴったりのサイズのリングが出来上がる予定でしたので」
「……お前さん、ここ最近頑なに家を出ようとしなかった理由って、もしかしてそれが関係してる?」
「どうでしょう? ただ最近の私は楽しみにしていることをあなたに隠し通せる自信がありませんので、そうかもしれません」

 出かける間際になってモクマははたと気づいた。もしチェズレイがモクマと同じ左手の薬指にリングを嵌めたとしても、結局は白い手袋に隠されてしまうのではないかと。つまり上司たちの変化に目ざとい部下達や仲間に追及されるのも、それに答えて羞恥を感じるのもきっとモクマばかりになるのだろう。じっとりとした疑いの目線を送るモクマに気づいたチェズレイが、いつものように自信に満ちた表情で言う。

「知られたくないというよりは、独り占めしたいんですよ」

 モクマはチェズレイに向かってこっちにおいでと手招きした。怒りましたかと首を傾げながら近づいてくるチェズレイの腕を引き寄せて、モクマはぎゅうっとその体を抱き締める。離したくない。モクマがこっそりと心情を打ち明けると、ええ、離さないでくださいとチェズレイが嬉しそうに肯いた。


 あー。可愛い。


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二人でこの幸福を噛みしめる。
「こっちにおいで」と「ここを噛む」の二つの意味を込めて。

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