calling

 神様が連れ去ってしまったと思ったの。  

 私が生まれ育った小さな家は、いつだって音楽に満ち溢れていた。幼い頃からずっとピアノを続けてきた母はよく子守歌代わりに私に曲を弾いてくれたし、一見強面で厳格そうな父も私と母がピアノを囲んでいると、その間に滑り込んで一緒に歌をうたってくれるようなとても優しい人だった。毎晩のように一つのロッキングチェアに私の小さな体を抱きしめた父が座り、ゆらゆらとした椅子の振動と父の体温を感じながら、傍らで母がピアノを奏でる音を聞く時間が私は大好きだった。あまりの心地良さに眠り込んで曲の最後まで聞けなかったことが悔しくて翌朝にぐずって泣き出す私に、母はまたいつでも聴かせてあげるからと小指を巻き付けて約束し、父は私が望むのなら今すぐ抱きしめてあげようと頭をくしゃくしゃに撫でながら伝えてくれた。大好きな父と母と一緒に三人が暮らせるほどの小さな家で、大好きな音楽の中で過ごせることが幸せだった。私の幸福は常に音楽とセットだったのだ。

 いつか自分が家庭を持つことになるのなら、父と母のようになりたい。子ども心ながら私がそう考えたのは自然なことだ。憧れた母のように髪を長く伸ばし、拙いながら料理を覚え、大好きなピアノの前に座っていつだって隣で楽しそうに口笛を吹いていた父のことを思い出す。私が大人になってからも夢は変わらずに、必ず描いた未来がやって来るものだとその頃の私は信じて疑わなかった。

 悪い男に騙されたのか、それとも悪い男だと知っていてなお完全に拒めなかった私が悪いのか。望まぬ子をこの身に宿したと知った私は、ただただ愕然とした。愛した人との間に授かった命では無かった。自分の体の中に自分ではない命が存在しているという得体の知れない恐怖に、私はずっと怯え続けた。私を手籠めにした男がようやく私を手にできたと満足気に高笑いする度に、言い知れない悍ましさが胸に込み上げて、青ざめた表情で私は何度も両手で口を塞いだ。子を孕んだ女の特有の症状だと勘違いしている男が酷く滑稽で、でも私はその何倍も愚かだったのだ。日に日に変化してゆく私の体と、私の不安を具現化したように大きく膨らむ腹に感じる胎動。恐ろしかった。いっそのことひと思いに、顔知らぬ我が子のままに消えてしまえと強く願った。どうせならこの手でと思い詰めて、でも実際に手をかけることなど到底出来もしなかった。自分の子どもに愛情が生まれた訳でもなく、母性が目覚めたわけでもない。ただ私の手によって一つの命が失われるという事実に、私自身が耐えきれなかったのだ。

 チェズレイ。あなたとの出会いは臆病な私の袋小路のような迷いと悩みの日々の末に訪れた。永遠に終わらない激痛に呻き、息も絶え絶えになっていた私のところに、やっとあなたは現れてくれた。全身を小刻みに震わせて、生きたい生きたいと大声で泣き叫ぶあなたを初めて目にした時、会いたかったと私は思わず口にしたの。ないまぜになった感情の全てが胸にあふれて、涙がぽろぽろと零れ落ちて止まらなかった。会いたかった。そうだ、私はきっとあなたにずっとずっと会いたかったのだ。

 思い悩んでいたのが嘘のように、あなたに会える毎日が大切で愛おしかった。大きな瞳でじいっと見つめて、私の声に反応して小さく微笑むあなたが大好きだった。すくすくと成長したあなたは私の母ゆずりの整った顔をしていて、あの人にも似て賢く聡明だった。今は私と片時も離れようとしないあなたが、いつかは思春期を迎えて母という私の存在を疎うときが来るのだろうか。口喧嘩をしては仲直りを繰り返すのだろうか。そうしてあなたはあなたの大切な人と出会い、私に紹介してくれるのだろうか。私と暮らすこの家をあなたが出ていく日が来るのだろうか。そんな未来の想像がちょっと不安で、でもとてもとても楽しみにしていたの。

 ねえチェズレイ、覚えているかしら。あなたと一緒にたった一度きりかくれんぼという他愛のない遊びをしたことを。あなたはとても隠れるのが上手で、私は中々見つけられなくて。屋敷中を捜し回ってそれでもあなたを見つけられずにいたとき、私は唐突に怖くなったの。あなたは完璧な神の申し子で神様に愛された子。神様はあんまりにもあなたのことが可愛すぎて私から取り上げて連れ去ってしまったのだと、そんな恐ろしいことを考えついて私は思わず泣き出してしまった。そうして泣き崩れる私の様子に慌てふためきながら駆けつけたあなたは、ここにいるよと伝えながらその小さな体で私を抱きしめてくれた。安堵の涙を流しながら私はあなたを抱き返した腕のあたたかさの中に、幼い頃の私を慰めてくれた父と母のことを思い出したのだ。

 私の幸福はいつの間にかあなたとセットだった。

 不思議ね。あなたの命を奪うのはあんなにも恐ろしかったくせに、あなたを守るために私の命を失うことはちっとも怖くなかった。決して長いとは言えない人生だったけれど、あなたと出会えてからの毎日は本当に宝物のように楽しくて幸せだった。後悔なんてあるはずもないあなたとの出会いに唯一の心残りの願いがあるのだとすれば、チェズレイ、あなたは神様なんかに愛されなくていい。あなたはあなたの愛する人に愛されれば良い。たとえ神様に忌み嫌われたとしても、あなたにはあなたの大切な人が手を差し伸べてくれる。あなたのこの先の未来に私の姿は無いけれど、それでも幸福はいつもあなたのすぐそばにある。

 きらきら溶ける泡沫の光のなか、あなたが愛する人と一緒に幸せそうに笑っている。おめでとう。そしてありがとう、チェズレイ。あなたが私の背を追い越した確かな瞬間さえ知らず、あなたが一番苦しかった時に寄り添えもしなかった私だからこそ、この光景を目に焼き付けてずっと忘れない。そうして愛する人と一緒に手を繋ぎながら、どこまでもどこへでものびのびと自由に生きていってね。



 あなたの姿が見えなくても、私はもう泣かないわ。


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