武器

 チェズレイにとって「知る」ことは武器の一つだ。人間の心理を掌握し、殊更自分の思い通りに掌の上で転がすためには、まず相手の事情を知らなければならない。相手がどういった人物でどういった思考の持ち主なのか。取り巻く環境、情報、噂。何が強みで、何が弱みになりえるのか。どういうふうにつつけば、チェズレイに心を明け渡すのか。警戒心をほどいて騙されてくれるのか。そして一番重要なのが、相手の心をぱきりと折って砕くには何をすれば最良なのかということ。

 モクマの様子が最近おかしいということに、チェズレイはとっくに気が付いていた。

 世界を飛び回りながら各地に点々と存在する拠点にて、チェズレイとモクマは一応一緒に暮らしていた。ニンジャジャンという仮面をつけながら活躍を続けるモクマは勿論、チェズレイだって世界を征服するために暗躍に暗躍を重ねているので、それこそ目が回るほど忙しい。とはいえ、二人の中で交わされた約束が遂行されているかを確認するために、モクマはチェズレイの傍らになるべく居続けなければならない。その頻度や時間が変わったわけではないが、その態度が近頃どこかよそよそしいのだ。朝と夜の挨拶をするのは変わりなく、でも目を合わる時間が数秒減った。ふとした瞬間に思考にふけるモクマに声をかければ、飛びのいて驚くモクマに何でもないんだとあからさまに誤魔化そうとする。事象をあげればきりがない。モクマはチェズレイに対して、明白にどこか違和感があった。

 思い当たるふしはあった。つい数日前、チェズレイは初めてモクマに抱かれたのだ。

 酒に酔った勢い、という表現はなんとも陳腐なものだが、他に表現する言葉もない。その夜は外でやけに深酒をしてきたモクマを、チェズレイは呆れたように出迎えて。随分飲んだんですね、モクマさんにしては珍しく、とチェズレイが言い終えた直後、ベッドに寝かせていたモクマとチェズレイの立場がくるりと逆転した。押し倒されている、とチェズレイが理解するよりもモクマが行動する方が早かった。チェズレイは基本的には人前で、とりわけ傍にモクマがいない状態で酒は飲まなかった。アルコールは一滴も入っていないし、酩酊して自分の襲うような不届き者を跳ねのける力だって方法だってたくさんあった。でもやらなかった。


 相手が、モクマだから。


 チェズレイは自身がモクマに傾ける高すぎる情熱を知っていたし、いつかそうなるだろうという覚悟もあった。誰かに体を開く恐怖よりも、モクマが自分を求めてきた喜びの方がずっと強かった。こうしてチェズレイはモクマをさしたる抵抗もなく受け入れたのだ。


「とはいえ、ちょっとこの状況は想定外でしたねぇ」


 翌日以降、チェズレイは静かにモクマの行動を見守った。まずはきっと酒を飲みすぎて迷惑をかけたという謝罪から始まり、次に言い訳。そしてチェズレイが静かにモクマの目を見つめたところで、きっとそれ以上の何かが聞ける、とささやかな期待をしていたのだが。実際蓋を開けてみれば、モクマはご丁寧に後始末を全て済ませて、服を着せたチェズレイに肩まで布団をかけて、朝食まで用意してくれた。今日はショーがあるから出かける、夕方頃には戻るというシンプルすぎるメモを見つけて、チェズレイは拍子抜けしてしまった。チェズレイが欲しかったモクマの言葉はそうじゃない。

 挨拶をすれば挨拶を返してくれる。けれどあの夜の真意を窺うように見つめれば、ふと目を逸らして誤魔化されてしまう。一人思い悩むように俯くモクマに、じっとしていられなくてチェズレイは声をかけるのに、何でもないとはぐらかされる。その度にチェズレイは小さく傷ついていった。チェズレイはモクマの全てを見た。暴いたはずだったそれは、なのに明らかにすればするほど分からないことが比例して増えていく。モクマの全部を知りたいはずなのに、逆に知りたくないと思ってしまう自分がいる。

 この感覚は身に覚えがあった。十数年間にファントムと行動を共にしたときと酷く似ている。怪しい、と何か裏があるのだろうと薄々感じていたのに、結局のところ懐にまんまと入りこまれて騙されて、裏切られた。疑っていたくせに母親の旋律を人質にとられて思考停止し、「知る」という武器を取り上げられたチェズレイはファントムにとっては無抵抗な赤子のようだったろう。苦い、あまりにも苦すぎる思い出。

「モクマさん。今ちょっと良いですか。少しお話を」
「っと、チェズレイ悪い。今日は体調が悪いからまた今度にしてくれないか」

 口よりも先に手が出る野獣が最近は会話による説得を試みていることに触発され、何はともあれモクマとは一度きちんと向き合わなくてはならない。意を決してその機会をチェズレイは作ったにも関わらずモクマは簡単に潰してしまう。チェズレイの視界から消えるようにいそいそと身を隠そうとするモクマは、とてつもなく癪に障る。久しぶりに凶悪染みた表情を浮かべながら、チェズレイは笑った。モクマさん、そちらがその気ならこちらも考えがありますよ、と呟いて。昔とは違ってチェズレイは、武器を取られて黙って大人しくしている子供ではないのだ。


「お帰りなさい、モクマさん」

 深夜に息を潜めて気配を殺して、そうしてようやく自室に戻ったモクマが安心したように気をぬいた瞬間を狙って、チェズレイは声をかけた。静かに、平然と。モクマの自室とあてがわれた部屋の隅に置かれたベッドの上に鎮座していた。一瞬モクマが動揺しているのが分かったが、すぐに冷静さを取り戻す。


「おや、こんなところまでお出迎えかい?」
「ええ。最近どうにもこうにもあなたが捕まらなくて、こんなところまで来てしまいました」
「会いに来てくれたことは嬉しいが、もう夜も遅いから自分の部屋に戻んなさい」

 まるで子供を諭すように声をかけるモクマに、チェズレイは呆れたように溜息をついた。ここまで譲歩してやっているのにまだ誤魔化す気か。一度、二度、息を吐いて意を決して、自分の服に手をかける。チェズレイの意図にモクマが気づくのは予想よりも早かった。


「チェズレイ。何をしているんだ」
「何って、ご覧の通り。服を脱いでいるんですが」
「ここはおじさんの部屋で、風呂場じゃないんだよ」
「分かっていますよ。分かっているからこそ私は、あなたの部屋でこうして裸になろうとしているんです」

 あの日の夜にモクマがチェズレイに対してしたこととは違って、今度はチェズレイが自ら動く。チェズレイ、という制止の声を聞き流して、するりするりと身を剥いでいく。と、その手を強く掴まれた。

「それ以上は止めてくれ」
「嫌です。私が私に対して何をしようと、私の勝手です。私の勝手を、あなたはそうして指を咥えて黙って見ていればいいんですよ」

 手を振りほどいて、チェズレイはモクマを真っすぐに見据える。よく見ろ、という念を込めて。これがチェズレイの体だ。モクマが無我夢中で掻き抱いた。モクマの欲望や激情を全て受け止めた器。純粋無垢と表現するには程遠い肉体。見えない傷と罪が無数に刻まれている。

「モクマさん、あなたね」


 白日の下に、モクマに自らの全てを晒すのは怖い。知りたくないと思っていることを、知ってしまうのも。


「あの時のことを後悔しているなら、そう私に言えばいいでしょう」


 けれど何も知らないままに大切なものを失ってしまうことは、もっと怖い。


 少なからずモクマは、チェズレイにそれなりの情を持っているはずで。でもチェズレイの熱情をあわせて天秤で測ったら決して均等にはなりえない。いつも、いつもそうだった。だから今更その真実を突き付けられたからといって嘆いたりはしない。ただ許せないと思うだけ。許せない自分を、どんどん嫌いになるだけ。

 心情を思いのままに吐露すると、モクマは小さく息をついた。呆れたように、諦めたように。そうして視線の先にチェズレイを捕らえて、今度はうって変わって優しく、優しくチェズレイの震えた掌を取る。興奮を宥めるようにベッドの上に二人で正面を向いて座る。何か言いたげに、ううーん、とモクマは思い悩み、腹を括ったようにチェズレイと目を合わせる。

「正直に言えば、後悔はしてた。お前さんを抱いたあの日から、ずっと」

 モクマの言葉は鋭利さをもってチェズレイの心を抉る。覚悟していたことだが、やはりモクマの口から真実を聞かされるのはそれなりに、くる。


「なんで酒の勢いなんかでやっちゃったかなあ、とか。初めてはもっと優しくしてやりたかった、とか。もっとお前さんの姿を記憶に留めておきたかったなあ、とか」
「……え」
「後悔しているのに、後悔している以上に、もう一度お前さんを抱きたくてたまらなかった」

   優し気なモクマの目の奥に宿る炎の色は、モクマとチェズレイが初めて体を重ねた時と同じだった。チェズレイは思わず絶句した。何ですか、それ、と。チェズレイがモクマのことで真剣に思い悩んでいた時間、モクマはただただチェズレイとの情事を思い出して、その幸せと喜びを噛み締めていただけなのか。ちょっと、それは、あんまりにも。

「…………モクマさんって、本当にそういうところが下衆ですよねぇ」

 正直に感想を伝えると、モクマはうっと言葉を詰まらせる。その様子が可笑しくて、つい笑ってしまった。この人が下衆であること、知っていたはずなのに、とチェズレイは思う。あまりにもモクマに振り回されてばかりいるので、チェズレイだってモクマを振り回してみたくなる。今度はモクマの服にチェズレイが手をかける。その行動に訝しむモクマに、あなたが言ったんでしょうと詰め寄る。もう一度、私を抱きたいと。

「二度目は、過ちには出来ないってちゃんと分かってる?」

 承知のうえです、とだチェズレイはモクマの体を引き寄せて答える。この男は本当にどうしようもない下衆で、そんな下衆に自分は強く心が惹かれてしまうのだから、仕様がない。





「私は、とんでもない辱めを受けた気がします」

 熱気のこもるシーツの上にぐたりと仰向けに体を預けてチェズレイが恨み言を吐けば、当の本人のモクマは小さく苦笑いをするばかりだ。言葉通りにチェズレイはモクマに色々言われたし、されたし、最初の夜とはうって変わって散々しつこく、やらしくされた。おかげでチェズレイの方も、わずかな理性だけは保ちつつも、かなり際どいところまで暴かれた。

「あなたがこんなに精力的だなんて知りませんでしたよ」

 珍しく不満を顔に出していると、隣で半身だけ体を起こしたモクマが、掌でさらりとチェズレイの髪をかき上げた。その拍子に触れた肌は、どこまでも温かかった。

「チェズレイ。お前は賢くて、鋭くて、実際俺なんかよりもたくさんのことを知ってるんだろう。でもそんなお前さんが知らないのなら、知らないものがあるなら、俺はそれをゆっくりと教えてやりたいなって思うんだよ」

 モクマはいつだって無意識にチェズレイを救う。知らないままでいることを悪として、自身を責め続けたチェズレイをいとも簡単に。心を砕くためではなく、喜ばせるために。幸せにするために、知らないままのチェズレイを受け入れようとしてくれる。だから思わず泣きそうになる。

「それならどうか、優しく教えてくださいね」

 指切りを交えたあの日からモクマがチェズレイに優しくなかった時なんて無かったけれど。冗談めかして答えれば、モクマは微妙な表情を浮かべて呻いた。

「チェズレイ」
「はい」
「俺はどうも、お前さんのそういうところにも弱いらしい」

   そうか、とチェズレイは思った。


 「知らない」ということも、また一つの武器になるなんて知らなかった。


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