あたたかなスープ

「最近物忘れが激しいような気がするんです」

 軽めの朝食を終えてのんびりと二人でコーヒーを啜っているさなか、前触れもなくチェズレイが言った。まるでスーパーに出かけて食材を一つ買い忘れたような気軽さだったので、モクマはうっかり聞き流してしまいそうになる。チェズレイの台詞が後に続かないことを確認し、底に僅かにコーヒーを残したままモクマはカップを置いた。

「そうなの? おじさんは全然気が付かなかったけど」

 チェズレイは元々頭の回転も記憶力もすば抜けて高い。一昨日の食事の内容すら記憶のあやしいモクマとは違って、チェズレイは一週間前の料理でさえも事細かに覚えている。近頃はチェズレイがモクマに対して食事のリクエストをすることもあるが、「先々週の金曜の晩に初めていただきましたアレが食べたいですねェ」という彼の意図するアレが一体どのアレなのか。検討もつかずにモクマが冷や汗をかいたのは一度や二度ではない。料理の正式名称を知らされていなかった為にアレとしか表現しようのないチェズレイとの擦り合わせは、料理の終えたタイミングでモクマがチェズレイにその名を伝えるということで一応今は改善している。

「周りにも相棒のあなたが気づかなくとも、私のことは私が一番良く存じておりますので」
「お医者さんに看てもらおうか?」
「いえ。まだ単なる気がかりと言える範疇で、ただの私の勘違いという可能性もあります。ですのでモクマさんにお願いがあるのです。しばらく私の様子を見守っていただけませんか?」
「……ん?……うん、まあ、お前さんがそう言うなら俺はそれで構わないけど」

 実際は見守るどころか四六時中チェズレイの傍にモクマはいるわけだが、今更なことをわざわざ口にするまでもないだろう。それに声を大にしては言えないが、チェズレイのお願いであるならばモクマはそれが無理難題であろうと些末なことであろうと叶えてやりたいのだ。親心というか下心というか。一番大きく占めているのは、好きな子の為ならなんでもしてあげたいという男心だが。


 機会は思っていたよりもすぐに訪れた。


「モクマさん、ちょっとよろしいですか?」
「いいよ。なんだい?」
「この文字が読めないのですが、どうお読みすればいいのでしょうか」

 ソファーの上でくつろいでいたモクマに、同じくゆったりと腰をかけていたチェズレイが体を傾ける。白い手袋の上には分厚い装丁本と、蟻のように細かい文字だ。チェズレイの人差し指の先をモクマはどれどれと覗き込む。頁の隅の図解に這う文字は、モクマの母国語だ。これはね、とモクマが優しく説明すると、口に出した言葉の振動に呼応するように、ゆらゆらとチェズレイの金髪が揺れる様子が目に入った。

「助かりました。本当にありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」

 妙にかしこまったチェズレイの口調にモクマの台詞がつられる。フフ、と嬉しそうにチェズレイはモクマに向かって微笑み、視線を再び掌の上の本へと落とした。チェズレイの唇が微かに上下し、教えたばかりの言葉を小さく噛む。モクマはチェズレイから視線を引き離して、ふうと息をつきながら真白の天井を見上げた。


 ……うーんと、おじさんの記憶が正しければさあ。確か前にも同じことをチェズレイに教えたはずだよね。


 とは言いつつも、人は何かを忘れ続けていく生き物だ。いくらチェズレイが記憶力に長けていても、全てのことを覚えていられるはずもない。だからモクマにチェズレイを問い質す道理もなく、珍しいこともあるもんだなあと呑気に構えていた。

 その日はとても天気が良くて、使っているシーツや布団を洗って外に干すには絶好の日和だった。潔癖症なチェズレイのことなので、基本的にはクリーニングに出して清潔さを保っているが、モクマとしてはお日様のぬくもりが染み込んだ布団はこれまた別格だと思っている。いつものトレーニングを終えたモクマは、当日の用事がないのをいいことに二人が普段使っている布団をひっぺがして外に干した。愛用の布団叩きでリズミカルに繰り返し叩き、調子に乗って歌まで口ずさんでしまう。

「それは何という曲ですか?」

 隣にひょっこりと現れて質問するチェズレイにモクマは僅かに驚愕したが、顔には出さずに曲名を答えることで取り繕った。横文字感たっぷりのフレーズに、モクマさんがそのような曲をご存知とは意外ですね、とチェズレイが笑みを浮かべる。曖昧に笑ったモクマにチェズレイは気にするそぶりもなく、ふんふんと鼻を鳴らして曲の後を追った。


 きゅっとモクマの心臓が締め付けられる。


 この曲は俺がお前さんから教えてもらったものなんだけどね。


 チェズレイにお願いされるがままに彼の様子をしばらく見守っていたモクマだったが、次第にいくつかの共通点が見えてきた。一つ。ルークや部下達の前ではチェズレイはチェズレイのままで、決して完璧な姿が崩れるはないということ。一つ。症状が見えるのはいつもモクマの前に限ったことであること。そしてもう一つ。不可解な行動をとったチェズレイは、その出来事を綺麗さっぱり忘れてしまっていること。

 不思議なのはここまで状況証拠を掴んでいるのに、モクマにはちっとも焦りがなかったことだ。焦燥感どころか、いつもとは違うチェズレイと過ごすことを楽しみ、その時間を終える事を名残惜しくすら感じている。そしてチェズレイ自身も物忘れが激しいとモクマに告白した日以来、一切そのことを話題に出さなかった。不自然すぎることこのうえないが、だからといって追及する気もモクマにはない。

 物忘れ。そう、チェズレイは物忘れだと言ったのだ。しかしモクマからしてみれば、物忘れというよりあれはまるで。

 モクマが夕食の準備をするためにキッチンに立っていると、背後からぬっとチェズレイが現れた。ぐつぐつと煮込んでいる鍋をモクマの背中越しに覗き込み、それが今日の夕食ですかと声をかけてくる。もう間もなく出来るから、大人しくテーブルで待っていてくれとモクマが答えると、はあいと返事がかえってきた。ああ、そうか。やっぱりそうなのか。モクマの唇がほんの少し上にあがった。

 向かい合わせにデーブルに着席し、お互いに手を合わせていただきます。濁ったスープに好奇心を抑えられないのか、わくわくした様子でチェズレイがスプーンでそれを掬った。口に運んで数秒後、チェズレイが大きくむせる。大丈夫かい?とモクマが気遣うと、このスープって実はこんな味だったんですねとチェズレイが呟いた。

「そうだよ。これが大人の味だ」
「……思ったより苦いですねェ。でも、ちょっと癖になりそうです」

 なんとかスープを飲み干したチェズレイがモクマにおかわりを要求する。キッチンで鍋からスープをよそったモクマが再びテーブルに戻ると、そこにいたのは確かにモクマの相棒のチェズレイだった。

 ことりと皿をチェズレイの前に置きながら、モクマが目くばせする。

「大人になったら一緒に飲みましょうと約束しましたので」

 チェズレイの台詞にそういえばそうだったとモクマは頷いた。噓つきな詐欺師も下衆な忍者も、二人で交わした約束だけは絶対に守ると決めているのだ。

「俺なら気づくって、信じてた?」
「さァ……、どうでしょうねェ」
「その間お前さん自身には記憶が残っちゃいないわけだけど」
「……フ。それにはご心配は及びませんよ。ここに確かに残っておりますので」


 共に両手を合わせていただきます。スープを飲み込みこんだ後にモクマはなるほどと納得した。ああ、本当だ。残っている。


 思い出のスープと一緒にあの子のくれたあたたかさは、この胸に。



いつかまた三人で。

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