秋の月

 月の綺麗な夜だった。

 足の裏がひやりと冷たい。長い廊下をチェズレイは裸足で一人歩いていた。とっぷりと沈んだ暗い夜の広がりに小さな体は今にも呑み込まれてしまいそうなのに、ちっとも怖いとは思わなかった。ぺたりぺたりと響く足音を夜風がふうっと攫っていく。静謐な空気がチェズレイをすり抜けていくたびに、幾重にも纏った偽りの人型が薄いベールのように剥がれ落ちた。

 裏切りの過去を持たないせいか、低い視点から白い月に映える世界がよく見える。か細い足にちいさな掌。余分なものは消え失せて、感覚がますます冴えていく。見知らぬ世界。永遠に引き継がれぬ昔話。あるはずのない物語。自分の役割を無意識に悟り演じるのは簡単だった。チェズレイがいつも当然のようにそうしていたことだから。

「あら、チェズレイ。こんな夜更けにどうしたの?」

 目的の場所には先客がいた。チェズレイはどこか夢心地な気分で、視界に入れた姿をなぞりながら「イズミ」とその名を呼ぶ。お隣にどうぞと手招かれ、チェズレイは誘われるままイズミと隣り合わせで縁側に足を投げ出して座り込む。途端に肌寒さを思い出して、ぶるりと体を震わせた。

「起きちゃったの? それとも眠れない?」
「……どっちだろう」

 静かなイズミの問いかけにチェズレイは言い淀んだ。まるで何かに引き寄せられるように真夜中に一人徘徊しここまで辿り着いたチェズレイだったが、行動を突き動かした根拠も理由も特に思いつかなかった。

 それ以上返答を続けないチェズレイを気にしたふうもなく、イズミはチェズレイに向けてふっと唇に笑みを湛える。視線を元に戻した彼女と一緒に、同じ世界をチェズレイはただただ見守った。静かだった。

 イズミはうっとりとした表情で夜空に浮かぶ月を見上げて、綺麗ねと呟いた。

「本当に嘘みたいに綺麗な世界。眠ったらもう二度と見れなくなるかもって怖くなるほど」
「……イズミ?」
「或いはモクマが目を覚ましたら」

 チェズレイは思わず言葉を詰まらせた。脇目も振らずに一心に白く浮かぶこの世界を眺める彼女は、きっと全てを知っている。嘘みたいな色鮮やかで美しいこの世界が終には消えゆくことを。そして最たる要が彼女自身であることも。

 チェズレイはそっと手を伸ばして、イズミの衣の端を捕まえた。きゅっと小さな手で離さぬように握りしめたまま、切れそうなほど唇を強く噛む。

 モクマに選んで欲しいのに、モクマに選んでほしくない。

 チェズレイはいつだって演じている。世界の誰かを演じている。出来れば自身の近しい人に。若しくは誰かの祈りの形に。

 彼女が亡くした、ただ一人のあの子の姿に。

 チェズレイは過去を想う。もしあの日毒入りのスープをチェズレイが飲み干していたなら、最愛の我が子を失った母はどうしただろう。涙が枯れ果てるまで泣いただろうか。目の前の彼女も同じだっただろうか。タンバは途方に暮れたように嘆き悲しむ娘の姿に、妻のコズエを重ねただろうか。そして遂には己の命を差し出したのだろうか。考えても仕方のないこと。終わってしまったこと。どうしようもないこと。何の意味もないこと。

 それでも掴んだこの手は離せなくて。

「……ああ、そっか。あなたがそうだったのね」

 チェズレイの体がふわりとあたたかさに包まれる。漂う香りがそんな記憶もないくせにどうしようもなく懐かしくて、チェズレイの小さな胸がじくりと痛む。もう一人の今だけの母の腕に抱きしめられながら、あれほどくっきり見えた月の輪郭がじわりと優しく滲んでいった。


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