暁の闇

 世界征服を成し遂げた暁には、モクマさん。あなたがお望みのものを何でも一つお贈りいたしましょう。


 稲妻のような閃光の後、チェズレイの背後に赤と黄色が入り混じったような大きな花がぱっと咲く。口を大きく開けていなければ鼓膜が破れてしまいそうな轟音は、空気を押しやる激しい衝動と共にやってきた。長い髪をたなびかせながら、満足気にチェズレイが唇の両端を釣り上げる。最近のお前さんはかなり派手な手段を好むようになってきたよねぇ。つい数分前にモクマが指摘した時には、なんのことでしょうと素知らぬふりをしていたチェズレイだったが、喜色満面な様子が滲み出ているぞとモクマは思う。大雑把で大胆な手法はそれこそあの大怪盗のことが連想されるのだが、うっかり口を滑らそうものなら途端に不機嫌になるのは目に見えている。今夜のチェズレイはとても機嫌が良い。それは久しぶりにルークと電話で話したからかもしれないし、同じくアーロンと激しくじゃれ合ったからかもしれない。

 機嫌が良いチェズレイはそのままにしておくことに越したことはなく、だからモクマはチェズレイの提案に結局は考えておくよと肌に纏わりつく粉塵を払いながら答えた。


 何でも一つ、チェズレイに叶えてもらえる望み。


 それは流れ星に願い事を三回繰り返す儀式のような、御伽噺に出てくる魔法のランプの精のような、聞く人が聞けばそれは詐欺だ騙されているぞと説得されるような甘い響きだ。何となくランプの精の恰好をしたチェズレイの姿が頭に浮かんだ。うん、お前さんは美人だからなんでも良く似合うけれど、多分おじさんの方がもっと似合うと思う。想像してモクマは少し笑ってしまった。

 例えばお金。働かなくても一生遊んで暮らせるような大金が欲しい、とごくごくありきたりで一般的なことをモクマは考えるものの、あっさりと却下した。元忍者と言えども元々モクマは庶民の中の庶民だ。毎日を慎ましくも楽しく、自分らしく生きていく方がモクマの性にあっている。身の丈に合わない生活など息苦しくてたまらない。大体、大金は大抵人間関係の厄介ごとを引き寄せるものだ。これまで以上の厄介ごとは俺もお前さんも必要ないだろう、とモクマは息づく。

 叶うのならば命。しかしモクマはすぐさま首を振って否定した。これも却下だ。人は闇雲に長生きをすればいいものではなく、その時間に限りがあるからこそ輝くのだ。二十年近くその人生を粗末にしてきたモクマでは説得力に欠けるかもしれない。それでも失った時取り戻すかのように、モクマは今、懸命に生きている。そうやって生きているからこそいつか確実に来る終わりの日を、モクマは今度こそ抗わずに受け入れるはずだ。それに潰えた命は決して蘇らないことを、モクマもチェズレイも痛いほど知っている。叶うのならば命。そうして絶対に叶わないのも命だ。

 重苦しい気分を払拭するようにモクマは部屋の天井を仰ぎ、望みのものを伝えるというのはなかなか難しいものなんだなと嘆息する。と、同じベッドの上で事切れたようにすやすやと眠っているチェズレイの姿が目に入る。モクマが夜遅く思案にふけっている間、チェズレイは横でてきぱきと残務処理を行っていたようだが、どうにも疲れが溜まっていたらしい。胸にタブレットを抱き込みながら健やかな寝息を立てるチェズレイはまるで子供のようだ。

 さらりと前髪を掬って、顕になったチェズレイの額にモクマは唇を押し当てる。むにゃむにゃとチェズレイの口が動く。何を言っているのだろうとモクマは耳をそばだてたが、聞こえるのは規則正しい呼吸音だけだった。

 初めてチェズレイと出会った頃はまさかこんなに距離が近い関係になるとは思ってもみなかった。チェズレイのモクマに対する第一印象は最悪であっただろうし、モクマはモクマで刺々しく当たるチェズレイが、表面上には出さなかったものの苦手で苦手で仕方なかった。何故チェズレイがモクマにあれほどしつこく絡むのか。当初は全く理解出来なかったものの、今ならモクマの一挙一動がチェズレイの逆鱗に触れていたのだと分かる。自らの心に正直に真っすぐに全力で生きていたチェズレイの計画を、胸の内にある心の声にうそぶきながら死にたがりを演じていたモクマが片っ端から壊していたのだ。そりゃあチェズレイだって怒る。この件に関しては完全にモクマの自業自得だ。

 けれどその自業自得のおかげでチェズレイはモクマに執着し、結果モクマが変わるきっかけを与えてくれたのだ。モクマの本当の望みを、チェズレイは自身が傷つくこともいとわずに真っ向から暴いた。守り手のままで死にたいと望んでいたモクマの嘘は、守り手として生きたいという本当の願いの前に崩れ去った。罪を抱えたまま生きていくと覚悟を決めたモクマに、チェズレイがどんどん好意を向けてくれるのは悪い気はしなかった。言葉遊びのような半ば強引な約束をもとに同道の約束を結んだ時だって、モクマは正直嬉しくて嬉しくて仕方なかったのだ。

 チェズレイがずっとモクマ自身を見てくれることが嬉しかった。だからモクマもチェズレイのことを深く知りたくなった。これから先もずっとチェズレイと一緒にいれたらいいのに。いつの間にかそんな願望が自分の中に芽生えていたことをその時にモクマははっきりと自覚したのだ。

 そうなんだよなあ、とモクマは考え込む。チェズレイはモクマの中にある望みを無意識に見抜いて、いとも容易くにそれを叶えてしまう。チェズレイに対するモクマの恩は今も膨れ上がり続けて、そうそう簡単に返せそうにもない。モクマの望みのものを受け取るどころか、これはモクマがチェズレイの願望を叶えるべきなのでは?

 モクマは顔をあげた。盲点だった。

 何故そんなことすら気づかなかったのだろう。あまりの迂闊さにモクマは呆れた。



 世界を征服した暁には、チェズレイ。お前さんの望むことをなんでも一つ叶えてやろう。


 一瞬のうちに散乱した光の後に、穴が空いたコンクリートの天井からは夜空が見える。長い脚で瓦礫の山を踏みしめるチェズレイにモクマが告げた。月明りが砂ぼこりを掻きわける中、チェズレイが振り向く。じいっと二人で眼差しを重ねて、チェズレイがそういう答えになりましたかと納得したように息をついた。

「それでよろしいのですか?私はあなたにとんでもないことを要求するかもしれませんよ?」

 そのとんでもないことはもうとっくにモクマに求められていたし、モクマもそれに応えてしまっているのだよなあと、生死を共にする約束だとか来世に纏わる話だとかが脳裏を掠める。けれどモクマは口には出さす、おじさんの出来る範囲でお願いしたいかなとだけ付け加えた。

「それならば、私はモクマさんに統べて欲しい世界がたった一つだけあります」
「んん?世界征服はお前さんの夢だろうに。おじさんがしゃしゃり出る必要はあるのかい?」

 当然と言えば当然の疑問だった。

 そもそもモクマ自身は世界征服なんぞには全く興味がないのだ。それでもこうしてチェズレイに付き添って歩んでいるのは、端的に言えば世界征服を成し遂げた後のチェズレイの世界を見てみたいからだ。モクマがその気になれば、闇の世界を征服することなど造作もない。けれどそれでは意味がない。モクマが見届けたいのは、チェズレイが楽しく創り上げた世界なのだ。

「ええ。その世界はとても手強くて、モクマさんを散々煩わせるかもしれません。陥落したと見せかけて、次の日には奇襲をかけてくるような。私では到底手には負えないような強敵ですので、是非ともモクマさんにお力添えいただきたい」

 普段は自信満々なチェズレイが弱音を吐くなど珍しい。すとんとむき出しのコンクリートの肌にチェズレイが腰を降ろす。モクマが正面から近づくと、見上げたチェズレイがにこりと笑った。

「私の願いを叶えてくださいますか?」
「……分かったよ。それで、お前さんのいう俺に統べて欲しい世界っていうのは、どこにあるんだい」
「モクマさんのすぐ目の前に」

 意味深な言葉を残して少しだけモクマを見つめたチェズレイが、そっとその瞳を閉じた。ああ、此処は相も変わらず面白味もない真っ暗な世界ですねぇとチェズレイが告げたので、モクマはすぐ彼の真意に気づいて苦笑いした。

 一番最初に見える世界で、一番最後に見るだろう世界。一番簡単な闇の世界を創り上げたチェズレイは、モクマに同じ場所に来てほしいと希う。成程、これは確かに強敵だ。モクマは黙ってチェズレイの頬に手を触れて、覆っていた唇を剝き出しにして彼の世界に入り込む。互いに重なった唇から吐息が零れた。

「これはあくまで予行練習みたいなものですから。たかだか一回程度で私が満足出来ると思わないでください。この世界の征服は簡単ではありませんよ」
「はは、骨が折れそうだなあ」
「おや。モクマさんの骨が折れたら、私がつきっきりで看病して差し上げますね」

 意気揚々と笑うチェズレイに対し、その提案も結構魅力的だなあとモクマは思う。隣にチェズレイがいるだけで、モクマの中に勝手に願い事が生まれては後になってそれに気づかされる。けれどおそらくそれはチェズレイとて同じなのだろう。

 チェズレイがモクマより先に眠る時、世界に自分だけが取り残されたような気分になった。けれどこれからは外側の世界だけでなく、彼の内側の世界にも躊躇いなくモクマは飛び込んでゆくだろう。チェズレイの望みはそのままモクマの願いでもあった。


 闇は二人の世界なので。二人だけの世界なので。


 その世界の全てをモクマは欲しいのだ。


 閉じた世界は不思議と明るい。


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